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保健室の恋人  作者: 実月アヤ
第一部 ep.1 桜の下で
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優しい手

 遥の胸元にかかった、柔らかな髪の感触が離れて。

 ふと、冴木が手を止めた。遥と目を合わせる。


「本当にこのままヤられるつもり?」


 その瞳はたった今まで見せていた激情めいたものではなく、静かで穏やかだった。遥はその瞳から目をそらすことが出来ない。


「……やだって言ったら、やめるの?」


 先程と同じように無理矢理されようとしてるのに、男子生徒たちに感じたような嫌悪感はなかった。怒っている筈の冴木の指が、唇が、どうしようもなく優しく遥に触れるせいかもしれない。


 それに……私は、この人に惹かれてるんだ。

 本当はずっとこの瞳に囚われたかった。

 時折加えられる刺激は、遥を蕩けさせるもので。相手が冴木だから、というのは否定しようもない。

 事実に打ちのめされたのに、心臓を掴まれたように苦しかったのに。

 今はこのひとから、目がそらせない。


「やめて、くれるの?」

「今更止まらない」


 冴木は遥の首筋にキスをした。


「でもやめるよ」


 その顔を上げる。

 遥は何だかおかしくなって、笑った。笑った拍子に、涙が零れた。冴木が遥の頬を伝う涙を指で拭う。そのまま大きな手が遥の頬を包み込んだ。


 あぁ、私……。

 優しい手は、きっと遥がずっと求めていたもの。もっと触れて欲しい、と告げてしまいそうな自分が恥ずかしくて、けどなぜか温かくて。最初から、この手に捕まってた。


「私何にもない。桜ちゃんがいなかったら、私何にもないの。つまんない人間だよね」


 泣きながら、遥は笑う。


「認めたくなかった。桜は完璧で、幸せだって思い込んでた。いつかあんな風になるんだって……全部私の自己満足。桜がどんなに苦しんでたかも知らないで」


 恥ずかしかった。苦しかった。いつだって綺麗に笑う、外側の姉だけを信じてた。


「桜ちゃんは、きっと全部わかってた」


 妹の前ですら、自分を偽らなくてはならなかった姉。 妹の理想のために。遥のために。


「どんな気持ちだったんだろう……」

「それでも」


 冴木が口を開いた。


「それはお前が姉さんを好きだったからだろう?姉さんがお前を想っていたことも、お前はちゃんとわかってる」


 彼は優しい瞳で遥を見ていた。

 ああ、そうか、この目が。桜に似ていると思ったんだ。

 遥は最初に桜の木の下で、冴木と会った瞬間を思い出す。


 どこも似てはいないのに、何故か同じ瞳をする。遥を見守るような、すべて受け入れてくれるような。ーー優しくて、少し哀しい瞳。


「桜ちゃんが、会わせてくれたのかな」


 そんな風に、思いたかった。


「冴木先生……私に理由をくれる?生きる理由……」


 小さく問えば、彼は鼻で笑う。


「そんなもんは自分で見つけるんだよ」


 突き放した言葉なのに、ひどく優しく響く。頬を包む手に、ふわりと撫でられて。


「まあ、見つかるまでは……俺のために生きろよ」


 そして冴木は、遥の唇にキスをした。


「はい」


 遥は微笑む。



「……で。続けていいの。実はやめたくないんだけど」


 少し困った顔をして、冴木が聞く。

 あ、ちょっと可愛い。

 遥はクスクスと笑いながら、 今度は自分から彼にキスをしたーー 。



「……亡くなる1ヶ月くらい前か。水樹桜が保健室に飛び込んできたんだ。やつらに襲われたんだろうな。あちこち怪我をしてた」


 冴木がポツリと話し始める。

 保健室で向かい合って、二人は話をしていた。もう西日もかなり傾いて、沈む直前の赤く強い光が冴木と遥を照らす。あたりは静かで、生徒の声もしない。部活もとっくに終わったようだ。


「付き合っていた男に呼び出されたらしい。行ったら彼氏は居なくて……あいつらが居たんだと。誰にも言うなって口止めされた」


 遥は目を見開いた。


「それって」

「男とは別れ話が出てたそうだ。他に女ができて、水樹が邪魔になったって……まあ昼ドラあたりならよくある話だよな」


 そんな、まさか。まさか。

 冴木の話に、遥は反論する。


「その彼氏が襲わせたってことなの?だけど、桜ちゃんはただの高校生なのよ、いくら何でもそこまでする?」

 

 けれどあの男子生徒達を思い出して、肩が震えた。彼らは慣れていた。あんな暴力が今までも簡単に行われていたのだとしたら。

 遥は知らなかったが、彼らは監視カメラの死角さえも熟知していたのだ。

 冴木が溜息と共に答えた。


「付き合ってた相手が普通じゃなかったんだろ」


 冴木の苦々しい表情に、遥は思い当たる。


「知ってるんですか、姉の恋人」


 彼は天井を振り仰いだ。


「……まあ、見当は」

「誰なんですか!?教えて下さい!絶対許せない」


 彼女の剣幕に、冴木が遥を見た。


「まさか復讐とか考えてないよな」


 その目は完全に疑っている。けれど遥は止まらない。


「考えるよ!!そいつのせいで桜ちゃんは……」


 涙混じりに彼女は訴える。

 今では桜の死は自殺なのではないかと思い始めていた。思いたくはないが。

 もしくはその彼氏に何かされたのだとしたら?どちらにしろ、桜の死はその男に責任がある。殺したのはその男だーー 。


「考えるな。お前はそんなことしなくていい」


 冴木が静かに遥を抑える。


「だけど!」


 悲鳴のような声をあげて、遥は抗おうとした。


「遥」


 彼女の言葉を奪うように冴木が唇を重ねる。


「俺がやるから。お前はもう危ないことはするな。お前だって襲われかけたんだぞ」


 遥の耳元に鋭く囁いた。しかし彼女はなおも首を横に振る。冴木は眉をしかめて、言った。


「水樹は……ほぼ間違いなく、自殺だよ」


 は、と遥が顔を上げた。俺だって信じたくないけどな、と続ける。


「俺は、水樹の最期の言葉を、聞いたから」



 屋上から落ちた彼女は即死ではなかった。

 人が落ちたと騒ぎになり、駆けつけた冴木の前で桜は呟いたのだ。


『ごめんね……、わたし、弱くて……』

 “ごめんね、遥……”



 遥の目に、涙が溢れた。冴木が彼女の頭を引き寄せて、自分の胸に抱える。


 「だいたい俺は基本的に自殺反対派なんだ。人間死ぬ気になれば何でもできるだろうが。もっと理不尽な理由で命を奪われる人間なんていくらでもいる。死に方を選ぶことが出来るのは恵まれた人間だ。……だけど」


 ふ、と遠い目をする。桜の姿を、思い出したのだろうか。


「だからって死を選ぶ人間が甘えてるだけだとは思わない。そこには必ず苦しみとか、理由とか、どうしようもないものがあるからな」


 ただ、水樹桜には心残りがあったはずだ。ただひたむきに愛してくれる、かけがえない妹。

 冴木は言いにくそうに口を開く。


「水樹からはよくお前のことを聞いてたよ。写メも見せてもらってた。姉を慕ってて、努力家で、可愛くて、強がりでーー水樹の言った通りだった」


 遥は思わず冴木を見つめる。


「だから姉さんのためにここに来たのは分かってたし……水樹に起こったことを知ったら、絶対に無茶をするんだろうなと思ったからな、黙ってた。……悪かったな」


 桜の身に起こったことを知りながら、何も出来ずに死なせた罪悪感もあった。だから彼女の大事なものを守りたかった。

 それ以上に。


「お前を、泣かせたくなかった」


 その声は真剣で、その目には苦しさが浮かんでいて。遥は首を横に振る。


「いいえ……ありがとう」


 自分を心配しての嘘だと分かって、嬉しかった。


「えっと、じゃあ、何で……」けれどそこで遥は口ごもる。

「……こんなことするの」


 彼女はいつの間にか抱き上げられ、保健室のベッドへと運ばれていた。自分に覆い被さる男の、その端正な顔を見上げる。冴木はニヤリと笑って冗談めかして言った。


「そりゃーこんな若いクセに、人生諦めきってたアホなお前にクソムカついたし~。必要でしょ、お仕置きってやつ?」


 忘れてた。この人ってば絶対Sだ。苛めたいって顔に書いてある。

 遥は真っ赤になった顔を引きつらせて、ジリジリとベッドの上から逃れようとする。


「ええと、遠慮します。かわりに反省文とかじゃダメですか」

「え?ラブレターくれるの?いまどき?」

「すみません……私言ってませんよねっ、そんなこと」


 そこでふと、冴木が真剣な目をする。


「俺は多分、お前に初めて会ったときから、お前のことを好きなんだ」


「……っ」


 自分よりずっと年上の男の人から真摯な目でそう言われて、遥は頬を染めた。


「教師として、大人としては、間違ってるんだろうけど。それでもーー」


 途切れさせた言葉は、伏せた瞳の奥に消えた。


「遥、忘れるなよ。俺のために生きるんだろ、一人で無茶はするな」


 キスの雨を降らせながら、冴木が囁く。

 ずるいよ、そんなこと言われたら。


「はい……」


 遥の瞳から、涙が零れた。今度は、嬉しさで。

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