優しい手
遥の胸元にかかった、柔らかな髪の感触が離れて。
ふと、冴木が手を止めた。遥と目を合わせる。
「本当にこのままヤられるつもり?」
その瞳はたった今まで見せていた激情めいたものではなく、静かで穏やかだった。遥はその瞳から目をそらすことが出来ない。
「……やだって言ったら、やめるの?」
先程と同じように無理矢理されようとしてるのに、男子生徒たちに感じたような嫌悪感はなかった。怒っている筈の冴木の指が、唇が、どうしようもなく優しく遥に触れるせいかもしれない。
それに……私は、この人に惹かれてるんだ。
本当はずっとこの瞳に囚われたかった。
時折加えられる刺激は、遥を蕩けさせるもので。相手が冴木だから、というのは否定しようもない。
事実に打ちのめされたのに、心臓を掴まれたように苦しかったのに。
今はこのひとから、目がそらせない。
「やめて、くれるの?」
「今更止まらない」
冴木は遥の首筋にキスをした。
「でもやめるよ」
その顔を上げる。
遥は何だかおかしくなって、笑った。笑った拍子に、涙が零れた。冴木が遥の頬を伝う涙を指で拭う。そのまま大きな手が遥の頬を包み込んだ。
あぁ、私……。
優しい手は、きっと遥がずっと求めていたもの。もっと触れて欲しい、と告げてしまいそうな自分が恥ずかしくて、けどなぜか温かくて。最初から、この手に捕まってた。
「私何にもない。桜ちゃんがいなかったら、私何にもないの。つまんない人間だよね」
泣きながら、遥は笑う。
「認めたくなかった。桜は完璧で、幸せだって思い込んでた。いつかあんな風になるんだって……全部私の自己満足。桜がどんなに苦しんでたかも知らないで」
恥ずかしかった。苦しかった。いつだって綺麗に笑う、外側の姉だけを信じてた。
「桜ちゃんは、きっと全部わかってた」
妹の前ですら、自分を偽らなくてはならなかった姉。 妹の理想のために。遥のために。
「どんな気持ちだったんだろう……」
「それでも」
冴木が口を開いた。
「それはお前が姉さんを好きだったからだろう?姉さんがお前を想っていたことも、お前はちゃんとわかってる」
彼は優しい瞳で遥を見ていた。
ああ、そうか、この目が。桜に似ていると思ったんだ。
遥は最初に桜の木の下で、冴木と会った瞬間を思い出す。
どこも似てはいないのに、何故か同じ瞳をする。遥を見守るような、すべて受け入れてくれるような。ーー優しくて、少し哀しい瞳。
「桜ちゃんが、会わせてくれたのかな」
そんな風に、思いたかった。
「冴木先生……私に理由をくれる?生きる理由……」
小さく問えば、彼は鼻で笑う。
「そんなもんは自分で見つけるんだよ」
突き放した言葉なのに、ひどく優しく響く。頬を包む手に、ふわりと撫でられて。
「まあ、見つかるまでは……俺のために生きろよ」
そして冴木は、遥の唇にキスをした。
「はい」
遥は微笑む。
「……で。続けていいの。実はやめたくないんだけど」
少し困った顔をして、冴木が聞く。
あ、ちょっと可愛い。
遥はクスクスと笑いながら、 今度は自分から彼にキスをしたーー 。
*
「……亡くなる1ヶ月くらい前か。水樹桜が保健室に飛び込んできたんだ。やつらに襲われたんだろうな。あちこち怪我をしてた」
冴木がポツリと話し始める。
保健室で向かい合って、二人は話をしていた。もう西日もかなり傾いて、沈む直前の赤く強い光が冴木と遥を照らす。あたりは静かで、生徒の声もしない。部活もとっくに終わったようだ。
「付き合っていた男に呼び出されたらしい。行ったら彼氏は居なくて……あいつらが居たんだと。誰にも言うなって口止めされた」
遥は目を見開いた。
「それって」
「男とは別れ話が出てたそうだ。他に女ができて、水樹が邪魔になったって……まあ昼ドラあたりならよくある話だよな」
そんな、まさか。まさか。
冴木の話に、遥は反論する。
「その彼氏が襲わせたってことなの?だけど、桜ちゃんはただの高校生なのよ、いくら何でもそこまでする?」
けれどあの男子生徒達を思い出して、肩が震えた。彼らは慣れていた。あんな暴力が今までも簡単に行われていたのだとしたら。
遥は知らなかったが、彼らは監視カメラの死角さえも熟知していたのだ。
冴木が溜息と共に答えた。
「付き合ってた相手が普通じゃなかったんだろ」
冴木の苦々しい表情に、遥は思い当たる。
「知ってるんですか、姉の恋人」
彼は天井を振り仰いだ。
「……まあ、見当は」
「誰なんですか!?教えて下さい!絶対許せない」
彼女の剣幕に、冴木が遥を見た。
「まさか復讐とか考えてないよな」
その目は完全に疑っている。けれど遥は止まらない。
「考えるよ!!そいつのせいで桜ちゃんは……」
涙混じりに彼女は訴える。
今では桜の死は自殺なのではないかと思い始めていた。思いたくはないが。
もしくはその彼氏に何かされたのだとしたら?どちらにしろ、桜の死はその男に責任がある。殺したのはその男だーー 。
「考えるな。お前はそんなことしなくていい」
冴木が静かに遥を抑える。
「だけど!」
悲鳴のような声をあげて、遥は抗おうとした。
「遥」
彼女の言葉を奪うように冴木が唇を重ねる。
「俺がやるから。お前はもう危ないことはするな。お前だって襲われかけたんだぞ」
遥の耳元に鋭く囁いた。しかし彼女はなおも首を横に振る。冴木は眉をしかめて、言った。
「水樹は……ほぼ間違いなく、自殺だよ」
は、と遥が顔を上げた。俺だって信じたくないけどな、と続ける。
「俺は、水樹の最期の言葉を、聞いたから」
屋上から落ちた彼女は即死ではなかった。
人が落ちたと騒ぎになり、駆けつけた冴木の前で桜は呟いたのだ。
『ごめんね……、わたし、弱くて……』
“ごめんね、遥……”
遥の目に、涙が溢れた。冴木が彼女の頭を引き寄せて、自分の胸に抱える。
「だいたい俺は基本的に自殺反対派なんだ。人間死ぬ気になれば何でもできるだろうが。もっと理不尽な理由で命を奪われる人間なんていくらでもいる。死に方を選ぶことが出来るのは恵まれた人間だ。……だけど」
ふ、と遠い目をする。桜の姿を、思い出したのだろうか。
「だからって死を選ぶ人間が甘えてるだけだとは思わない。そこには必ず苦しみとか、理由とか、どうしようもないものがあるからな」
ただ、水樹桜には心残りがあったはずだ。ただひたむきに愛してくれる、かけがえない妹。
冴木は言いにくそうに口を開く。
「水樹からはよくお前のことを聞いてたよ。写メも見せてもらってた。姉を慕ってて、努力家で、可愛くて、強がりでーー水樹の言った通りだった」
遥は思わず冴木を見つめる。
「だから姉さんのためにここに来たのは分かってたし……水樹に起こったことを知ったら、絶対に無茶をするんだろうなと思ったからな、黙ってた。……悪かったな」
桜の身に起こったことを知りながら、何も出来ずに死なせた罪悪感もあった。だから彼女の大事なものを守りたかった。
それ以上に。
「お前を、泣かせたくなかった」
その声は真剣で、その目には苦しさが浮かんでいて。遥は首を横に振る。
「いいえ……ありがとう」
自分を心配しての嘘だと分かって、嬉しかった。
「えっと、じゃあ、何で……」けれどそこで遥は口ごもる。
「……こんなことするの」
彼女はいつの間にか抱き上げられ、保健室のベッドへと運ばれていた。自分に覆い被さる男の、その端正な顔を見上げる。冴木はニヤリと笑って冗談めかして言った。
「そりゃーこんな若いクセに、人生諦めきってたアホなお前にクソムカついたし~。必要でしょ、お仕置きってやつ?」
忘れてた。この人ってば絶対Sだ。苛めたいって顔に書いてある。
遥は真っ赤になった顔を引きつらせて、ジリジリとベッドの上から逃れようとする。
「ええと、遠慮します。かわりに反省文とかじゃダメですか」
「え?ラブレターくれるの?いまどき?」
「すみません……私言ってませんよねっ、そんなこと」
そこでふと、冴木が真剣な目をする。
「俺は多分、お前に初めて会ったときから、お前のことを好きなんだ」
「……っ」
自分よりずっと年上の男の人から真摯な目でそう言われて、遥は頬を染めた。
「教師として、大人としては、間違ってるんだろうけど。それでもーー」
途切れさせた言葉は、伏せた瞳の奥に消えた。
「遥、忘れるなよ。俺のために生きるんだろ、一人で無茶はするな」
キスの雨を降らせながら、冴木が囁く。
ずるいよ、そんなこと言われたら。
「はい……」
遥の瞳から、涙が零れた。今度は、嬉しさで。