彼女の危機
先に帰った遥は一人、玲一の部屋で教科書を広げていた。いつもある程度の時間を超えたら夕飯は待たずに食べているように言われていたから、簡単に食事を作って食べて、また勉強を再開する。集中していたために時間が過ぎるのはあっという間で。ハッと顔を上げたなら、時計はもう22時を指していた。
「いつもより、遅いなあ……」
いくらなんでも、彼が連絡無しにこんな時間まで帰宅しないことなど今まで無くて。何かあったのかな、と考えて、紗耶香を思い出してしまう。
ダメダメ。ちゃんと玲一は紹介してくれたもの。
マイナス思考に沈みそうな自分を、慌てて教科書に引き戻す。
「……学生らしく、お勉強、お勉強」
ところが。
明日の教科の出題範囲が終わっても、玲一はまだ帰宅しない。時計を見れば夜中近いし、メールもない。
「電話、しようかな」
なんとなく疑っているようでしたくなかったが、さすがに何か事故にでもあったのではないかと不安になってきた。遥は携帯を取り出して、コールする。
呼び出し音が途切れ、
『――、しもし……』
どこか店の中なのか、ザワザワと喧騒の中にかすかなノイズと、高い声がした。
「玲一……?」
『玲一、電話よ!』
ーーあ。
遥の耳に飛び込んできたのは河崎紗耶香の声。夕方に聞いたばかりの声だ。間違いようも無い。
なんで、彼女が電話に出るの?
『バカ紗耶香、勝手に出るな!』
めったに聞かない、玲一の気安く女性を呼ぶ声。そして彼女から携帯を取り上げたのか、ガサガサと音がして、玲一が電話口に出る。
『遥?ごめん、理事長と紗……河崎さんにつき合わされてて。もうすぐ帰るから、先に休んでろよ』
心臓が、ぎゅっと掴まれたような、衝撃が走った。思わず片手で胸を押さえる。
「……いい。私……帰る、から」
とっさに、口をついて出た拒否。頭が真っ白になった。自分が何を言っているのかも、何を言いたいのかも分からない。心をかすめたのは。
“さやか”って、呼んだくせに。
(――!)
自分の中に浮かんだ言葉に、ゾッとした。こんな風に、嫉妬ばかりしたくない!
『帰るって、もう夜中……』
玲一の戸惑う声。
大丈夫、とか。玲一こそ気をつけてね、とか。おやすみなさい、とか。
言葉は思い浮かんだものの、口に出すことは出来ずに。
ただ、ここにいては駄目だと思った。玲一の部屋に居ては駄目だ。彼の声を聞いていては駄目だ。
ーー怖い。これ以上醜いことを考えてしまうのが、怖い。
ただそれだけを思って。
そのまま、遥の指は“切”を押していた。
*
『プーッ、プーッ』
「……切られた」
玲一は呆然と、携帯を見つめた。
こんなこと、初めてだ。礼儀正しい、必要以上に人に気を遣う彼女が、電話の途中で通話を切るなど。いつもとは違う、感情の無い遥の声が耳に残っている。
彼の向かいでは、すっかりできあがった恭一郎と紗耶香が、ビール片手にあははと笑った。
「や~い!誤解されてやんの」
「嫌~わ~れた~」
玲一は冷ややかに二人を見る。忌々しそうに吐き捨てた。
「この酔っ払い共……!いい加減にしろよ。携帯までとりあげやがって」
終業後に打ち合わせと口実を作られ、無理矢理二人に飲みにつき合わされてたのだ。おまけに今まで恭一郎に携帯を取り上げられて、遥に連絡もできなかった。
なのに多分、思いっきり誤解させた。
「もう充分つき合ったんだからな、俺は帰る!」
玲一はさっさと荷物をまとめて、えぇ~っと抗議するダメな大人二人を置いて居酒屋を出た。
誤解ならいい。ちゃんと話して(なんなら多少の色仕掛けをしてでも)わかってもらえる自信はある。
問題は、こんな時間に遥を外で独り歩きさせることだ。
何度掛け直しても、遥は携帯に出ない。
「あのバカ……!」
どれだけ自分が人目を惹くのか、全然わかってない!!
「頼むから、無事で居てくれよ……」
玲一は走り出した。
*
動揺したまま、玲一の部屋を飛び出して。駅へと向かった遥は、ふらふらと歩いていたが、ふと後ろから響く足音に気付いた。
「私、いつの間に……」
は、と頭を上げて、やっと自分の居る場所を思い出す。
いつもなら、夜は絶対通るなと玲一に言われている近道の公園。周りが見えていないあまり、ついこっちを通ってしまったらしい。昼間は近所の子供達や犬の散歩にくる人もたくさんいるが、夜中というのもあって、辺りには人もいない。思わぬ暗さと、不規則に照らす灯りにびくりとして見れば、公園の街灯が寂しげに点滅している。
パキ、と背後で小枝を踏む音がした。
遥の背がビクンッと跳ねる。
(ど、どうしよう。誰か居る……?)
足を止めずに恐る恐る、振り返った、視線の先で黒いパーカーのフードを目深に被った男が、彼女の後ろに立っていた。
その口元が、遥を見てニヤリと笑う。
「……っ!」
遥の喉から声にならない悲鳴が漏れた。
ドクンッと嫌な音を立てた心臓と、同時にザワッと鳥肌が立つ。 思わず走り出そうとした瞬間、制服のポケットから携帯がこぼれ落ちた。地面に落ちたその画面は、淡く光って着信を知らせている。画面に表示されたのは先程まで先程まで話していた恋人で。
(玲一……!!)
慌てて取ろうとしたその腕を、後ろから掴まれた!
「っ!?きゃ……っ!」
叫ぼうとした口を、背後から回されたもう一方の手が塞ぐ。
見なくてもわかる。背後にいた、あの男だ!
身体をひねって男の顔を見れば、彼は口元にニヤニヤと厭な笑いを貼り付かせたまま、遥を後ろから抱きしめるように捕らえた。
「ン、ン――……!」
彼女のくぐもった悲鳴が男の指の間から漏れる。必死に逃げようとするが、その力は圧倒的に違う。強く引かれた身体に足がずるりと滑って、一気に恐怖が増した。けれど硬直している場合ではない。男が自分を木々の間に引きずりこもうとしているのを察して、遥は思いっきり足を振り上げ――
“ダンッ!”
男の爪先を踏む。玲一直伝の技だ。
「いってぇっ!!」
男が叫んだ。 その手がゆるんだ隙に、転がるようにその拘束を抜け出て、地面で未だ光る携帯をひっつかんで、通話ボタンを押した。
「玲一っ!!たすけ……」
瞬間、頭に強烈な痛みを感じて、遥は最後まで言えずに悲鳴をあげた。男が彼女の髪を掴んで力任せに引っ張ったのだ。とっさに頭を押さえたせいで、携帯が手から落ちて、地面を滑っていく。
「いやああっ!!」
怖い……!助けて、助けて!
「玲一っ……!!」
「遥!!」
叫び声と共に、遥を掴んでいた男が吹っ飛んだ!
「大丈夫か!?」
待ち望んでいた声。その持ち主を見ないまま、手を引かれて身体を起こされて、やっと視線を合わせる。
ーー間違いない、玲一だった。
彼は、荒い息をついて遥を抱きしめた。それでやっと、遥はいま自分を呼んだ玲一が、男に蹴りを放ったのだとわかる。
「れ、れーいち……!」
少女はガタガタと震える手で、彼にすがりついた。
「馬鹿。心配させるな……!!」
強く強く遥を抱きしめた玲一の腕も、細かく震えていることに気づいて、遥の瞳から涙が溢れ出す。
「ごめんなさい……!」
泣きじゃくる彼女を、ただ彼は強く抱き締めていた。
せっかくの勉強の成果も、全部頭から吹っ飛んじゃった……。
あれからあの不届き者を玲一が呼んだ警察に任せ、遥は玲一の部屋に戻ってきていた。もう夜中を過ぎていたために、事情聴取も後日改めてとなり、ひとまずは玲一が遥の母に連絡を入れた。
そんな時間に遥を外で一人歩きさせたことに玲一が責任を感じて、電話越しに母親に謝る姿が申し訳なくて、遥は俯いていたけれど。
けれど遥の母は娘をよく理解していた。
『娘を守ってくれてありがとうございます。遥はきっと玲一君の側が一番安心するだろうから、どうか今日は泊めてやってくださる?』
玲一はもちろん、と感謝の言葉で返していた。
そして、現在の部屋の主はというと、遥にホットミルクを出すと、彼女を自分の脚の間に座らせて、後ろからずっと抱き締めている。
「あの、玲一?もう大丈夫だから……」
「俺は大丈夫じゃない」
放して、と言いかけて遮られた。玲一が続ける。
「疑っていい。ヤキモチ大歓迎、携帯チェックも、家宅捜索も、一時間毎の位置確認も、なんならGPSでも盗聴器でも尾行でも付ければいい」
唐突に並べ立てる玲一の言葉に、遥は唖然とする。
(な、なんの話?)
内容からすると……ああ、浮気疑惑のことか、と思い当たる。
だ、だけどそれはあまりにも極端な……。
けれど遥の戸惑いなど掻き消すように、彼はその腕に力を込めた。
「だから、俺の目の届かないところで危険な目に遭うな……!」
耳元で、強く言われた言葉。玲一の表情は見えないけれど、遥を心底心配して、想っているのがわかる。
……ああ。だから私は。ーーこの人が、好きなんだ。
「うん、ごめんなさい……」
回された腕に、そっと手を添わせた。
心配させたことが申し訳なくて。嫉妬したことが情けなくて。
けれど、彼が愛おしくて、愛おしくて。
少しでも伝われば良いと思う。彼が遥に傾けてくれる愛情の半分でもいいから、同じように彼に感じて欲しいと。
「ありがとう……」
遥は首を回して、玲一の頬へキスをする。
「機嫌、直して?」
「……こんなので、丸め込まれません」
囁く彼女へ返ってきたのは、玲一の低い呟き。
仕方ない。もう一度。
「まだ」
もう一度。
「まだ、ダメ?」
遥はさすがに赤い頬で聞く。
「ダメ」
うぅ~。
うつむきかけた遥の顎を捕らえて、玲一が遥の唇にキスをする。
「こっちだろ」
そのまま玲一の唇が、遥の首筋を辿って。その感触に、彼女はビクリと背を逸らした。
「俺のご機嫌をとるなら、これくらいしてもらわなきゃね?」
う……。
遥はますます赤い顔で、再挑戦する。玲一の唇へ、キスを繰り返した。
「……ところで玲一、私にもしたいの?一時間毎の位置確認」
「俺なら五分毎にやりたいくらいだね」
あ、そうですか……。




