先生とお勉強
「遥、ここ違う」
「え、どこ?」
彼に教えてもらいながら勉強を始めてから、数度目のやりとり。慌てて玲一の手元を覗きこんだ遥はあっと声を上げた。玲一の教え方は的確だ。無駄がない。けど、厳しい。
「あ、また同じミス。……次やったらお仕置きね」
「えっ」
遥は彼の言葉にギクリとする。言葉の割にニヤニヤと笑う玲一が、物凄くあやしい。何されるかわかったものじゃない。
「ちょっと待って、今考える!」
一生懸命な遥を見て、ふ、と笑う彼。けれど思いついたように遥の横顔を見つめて口を開いた。
「悠はどんな教え方するの?」
変わらない穏やかさを持ったまま聞かれた言葉に、少女はノートから顔を上げること無く、よくも考えずに返事を返す。
「え?優しいよ。わかりやすい言葉に言い換えてくれたり」
「ふーん」
ん?
遥は顔を上げた。恋人の端正な顔を見る。
コーヒー片手に、縁無し眼鏡を掛けて。フローリングの床にクッションを置いてソファに寄りかかる、玲一。シャツから浮き出る鎖骨と首筋のラインが綺麗で、伏せられた目元が色っぽい。どこからどう見ても、隙のない大人の男。
なのに。
(たまに凄く、可愛いと思うのはなんでかしら)
「今日の、やっぱりヤキモチなの?」
最初に玲一ではなく、悠に聞きに行ったことが気に入らない、とか。
玲一は目線だけ上げて、遥を見た。自分から問いかけたものの、その目にドキン、と心臓が跳ね上がる。
「そうだって、言ったら?」
ゆっくりと、玲一の顔が近付く。遥は一気に濃密になった空気に息を吞んだ。
「れ、玲一?そんな心配するようなことは何も無いのよ?」
「でも、したくなるんだよな。……お仕置きしていい?」
ヤバい、なんかスイッチ入ってる?
遥は真っ赤な顔をして首を横に振る。
玲一の様子がいつもとちょっと違う。このままでは勉強どころでは無くなる。彼はところかまわずいちゃつく困った人ではあるが、学生としての遥を邪魔することなど滅多に無い。これはきっとーー何かの境界を越えそうな、サイン。
分からないまま返事を間違えたくない。だから何とか彼を止めようと、言い訳してみた。
「ただ、玲一に知られたくなかったんだってば。赤点ギリギリなんて恥ずかしいもの」
「もっと恥ずかしいとこ見せてれば、気にならないんじゃない?」
そ、それはどういう意味で……。
じりじりと身を寄せる彼から上半身を反らし離れようとして、手が滑った。
「っきゃ!」
遥はそのまま後ろに倒れ込んでしまう。とっさに玲一が手を入れて彼女の頭を庇った。
「っぶね……」
「ご、ごめんなさい」
あ。
床に倒れた遥と。彼女に覆い被さる玲一。
なんだかとてつもなく恥ずかしい。いつものこととはいえ、だ。
「玲一っ、英語の続き」
「I love you. Can I kiss you?」
完璧な発音で、その艶めいた微笑みで言われたら。
「Sure……」
……断れません。
ああ、やっぱり勉強にならない……このままじゃまた勉強できない!
玲一のキスを受けながらも、遥は焦る。彼の唇は一向に離れようとしないし、腰に添えられた手が、何か不穏な動きを見せはじめている。
「ダメ――っ!」
起き上がれば、彼は少しびっくりした様子で目を見開いて。それからクスクスと笑った。
「コーヒー、入れてくる」
二人分のカップを持って立ち上がる。先程までの妖しい空気など掻き消して。
う……。
玲一には遥の気持ちも、行動もお見通しなんだろう。
かなわないなあ、もう。
少しでも進めようと、テキストに向き直る。静かな部屋に溢れるコーヒーの香り。キッチンに立つ玲一の後ろ姿。何故か落ち着く。
……落ち着きすぎて、眠くなってきた。
(だ、ダメよ遥!)
だんだんと瞼が落ちてきて。遥はズルズルとテーブルに突っ伏した。意識はあるものの、目が開かない。ふわ、と頬を撫でる優しい感触。
「あまり無理するなよ」
同じ場所に唇が触れる。
玲一……。
幸せな気持ちで、口元が緩んだ。
「遥ちゃん?起きてるなら目を開けないと……」
耳元に低い声が響く。笑みを含んだ、艶やかな声。
「別のお勉強……するよ?」
ガバッ!
「英語!英語やります!」
「よろしい」
玲一は教師の顔でにっこり微笑んだ。
「遥、罰ゲームを設定しようか」
英語から古文へと教科を変えて、しばらくすると玲一がそう提案した。
「罰ゲーム?」
嫌な予感。
「そう。一問間違える事に、遥から俺にキス」
彼の長い指がトン、とテキストに落ちる。遥はぐ、と詰まるものの、考え込んで。
(古文は得意だし、そうそう間違ったりしないわよね)
国語系は数学と違って、答えが曖昧な部分もある。自分の解釈だと押し切れば――いけるかも?
少々狡い思考で、頷いた。
「うん」
更に玲一はニッコリと微笑んだ。
「で、教科が終わるまでに寝ちゃったら、眠気覚ましにお風呂に入ろうね。……一緒に」
ガタガタガタンッ!!!
動揺した遥が、参考書を落とし、ペンをまき散らかした。コーヒーのカップが玲一の手によって避難させられていたのはさすがと言うべきか。
「あ、あ、あのねっ」
「約束な?」
有無を言わせぬ迫力に、遥の背中を妙な汗が伝う。遥は真っ赤になって、真っ青になって、ヤケになって叫んだ。
「コーヒーもう一杯下さい!ブラックで!!」
「そこで頑張られても傷つくなあ……」
無理!それこそ無理です!
必死で問題集とにらめっこをして。眠気覚ましのコーヒーも3杯目が空になった頃、彼女が差し出したノートを採点して玲一が言った。
「はい、正解。とりあえずここまで」
遥の手にノートを戻して、微笑む。
「え、でもまだ途中……」
遥が戸惑って首を傾げるが。
「今日はもう寝ること。食事と睡眠をおろそかにすると効率落ちるからな」
彼の保健の先生らしい言葉に、遥は笑った。
「本当に朝まで特訓かと思った」
「どうせ朝までなら、別の特訓にします」
玲一はまた、妖しい含んだ言い方をする。
(今日は一段と、総攻撃な気がするなあ……どうしちゃったんだろ)
「玲一、何かあった?」
彼らしいけれど、彼らしくない。いつもなら遥をからかう時には逃げ道まで用意してくれているのに。今日はどこかそれを塞ごうとしているような気がする。
ーーいつもより余裕が、ない?
まさかとは思ったが、彼の顔を覗き込んで問う。玲一は虚を突かれたような顔をして、遥の頭を撫でた。
「いや。ちょっと疲れてるだけ」
珍しい、弱音。遥は目を見開いた。
「ごめんなさい、私、勉強につき合わせたりして」
謝る彼女に、彼は首を横に振る。
「お前のせいじゃないよ。だいたい拉致したのは俺だしな」
「……それはそうだけど」
「それに、遥が傍に居てくれないと……禁断症状で暴れるかもよ?」
ふ、と向けられた笑み。
(暴れるというか、今すでに暴走気味よね……)
それだけ疲れてるってことかな。
なおも申し訳なさそうな顔をする遥に、玲一が悪戯めいて言う。
「じゃあお風呂で遥が癒やしてくれる?」
ま、また!
拒否しかけて、思い直す。
「……それで、玲一が元気になるなら」
真っ赤な頬で、俯きがちに遥が言えば。
彼女にとって驚いたことにーー玲一の手からポロッと眼鏡が落ちた。唖然としたその顔は、滅多に見られないもので。彼は視線を泳がせて、そのまま口元を押さえる。
「や、ごめん。自制できそうにないから、止めとく。本気で寝かせてやれないかも……」
その頬が赤い気がするのは、気のせい?
「シャワー……頭冷やしてきます」
図らずも玲一を動揺させることに成功して、遥は茫然と彼の背中を見送った。
「えぇえ……?って、私……!!」
我に返って悶絶する。……恥ずかしくて死にそう。
そのままテーブルに突っ伏してふと思う。疲れてる、って忙しいってことよね?
「週2日勤務なのに?」
でもよくよく考えたら、週2日じゃお給料も減るはず。けれど彼の生活が変わった様子もない。もともとどれくらい貰っていたのかなど知らないが、特に困っているようでもない。他の仕事をしているのだろうかーーけれど教師の身でバイトは出来ないだろう。
「玲一、他の曜日って何してるんだろう?」




