旅行のはじまり
「え~とりあえず、自由行動は地域限定、教師が監督するということで」
学年主任の教師の話など誰も聞いていない。空港から、男子生徒は浮かれ騒ぎ、女子生徒はある一点を見ては大騒ぎしていた。いや、ある一人、だ。
「いや~冴木先生、私服も格好良い~!」
うすうす覚悟はしていたものの、遥は複雑になる。
玲一との旅行は嬉しい。けれどいつもより大勢の生徒を監督しなくてはならない彼は、すでに多忙そうだ。学校ではない、いつもより近い姿に生徒達も遠慮がなくなっている。ーー特に、女子生徒は。
「遥、そんなに見つめちゃって。冴木先生の傍に行かなくていいの~?」
ユミが遥にニヤニヤと言う。
「……行けないよ」
なんだか保健室より、距離が遠い。でもそれは、ワガママだとわかっているから。せめて目で追ってしまうくらいは、許して欲しい。たとえそれが、他の女生徒に囲まれる姿でも。
「お仕事だもの。私は私の時間を楽しまなくちゃね!」
さりげなく苦笑いで返す遥を見て、ユミが少し困ったように笑った。隣に居る芽衣はそんな彼女を小突いて明るく言う。
「じゃあ、私達女子で固めよう!遥を自由行動に誘おうとする勇者が、大勢いるからね。冴木先生に知られたら血を見るよ」
「最強魔王だもんね」
……否定できない。
一方、点呼をとっていた真由子は慌てていた。慣れない作業に手元が狂う。
「え~っと、B組は」
横から伸ばされた綺麗な長い指が、真由子の持つリストをめくった。
「武藤先生、これがB」
見上げれば玲一が居た。
「えっ、あ、冴木先生!ありがとうございます!」
(うわああ、近くで見ても格好良い!髪、サラサラ)
真っ赤になる真由子に、隣にいた年配の女教師が苦笑する。
「あらら、ダメよ武藤ちゃん。冴木先生、婚約者いるから」
(え~そうなんだ~そりゃそうだよね、こんな超美形)
ちょっぴり落胆して、彼の端正な横顔を見た。その玲一は他の教師達に、にこやかに肩を叩かれている。
「いや~お手柄ですなあ、冴木先生。理事長を置いてくるとは」
「絶対理事長もついてくると思ってましたよ。これで危険度が下がりましたね~」
「皆さんに安心して頂けたなら何よりです」
聞こえてくる会話に真由子は疑問を感じる。
「あのう、冴木先生って、理事長の……?」
「「「飼育係」」」
いくつもの声が重なった。
*
飛行機の窓から見えた、白い雲の隙間のブルーとエメラルドグリーンの海。それが今、目の前に広がっている。
「うわあ……!」
遥は思わず歓声をあげてしまった。遥の住んでいるのは東京の市部だから、こんなに綺麗な海を間近で見ることは少ない。ユミ達と一緒に、波打ち際で裸足になって笑う。珍しくはしゃぐ遥を、生徒達の後ろから玲一が目を細めて見た。
「冴木先生、顔ニヤけてる。エロ」
松本拓海が近付いてきて、ボソッと呟く。玲一は遥から全く目を逸らさないまま、さらりと言い放った。
「……松本、まず海中から沖縄を満喫してみる?」
「すみません、ごめんなさい」
**
武藤真由子は困っていた。
「おねーさん、可愛いねー遊びに行かない?」
「いやいや、無理。私仕事中なんで!生徒が待ってるから!」
「え、先生なの~?ガキ相手にしてないで俺たちに課外授業して~」
ど、どーしよ。
ハイシーズンではないとはいえ、サーフィンに来ている人も多い。そんな大学生らしき一団にナンパされ、真由子は逃げられずにいた。彼女は押しに弱いというか、そういうあしらいが実にヘタで。オロオロと行く手を塞ぐ男たちを見回す。
(誰か~!)
「武藤先生、教頭先生がお呼びですよ」
不意に後ろから柔らかな声がかけられた。それが高い女の子の声だったことにびっくりして、真由子は振り向き、更に仰天する。
(うわ……!)
彼女を見ていたのは、サラサラ流れる長い髪と、大きな黒目がちの瞳の美少女だ。
真由子の名前を呼んだからには泉学園の生徒。生徒数の多い泉学園で、まだ真由子は全員の顔を覚えていないのだがーーこんな子なら忘れない!
その可憐な少女に茫然として、男たちは思わず真由子を放す。助けてもらった、と一瞬安堵したが、彼女の存在は逆効果だった。男達がたちまち色めき立つ。
「かっ……カッワイー!!」
「うわ、すげーイイ!」
「俺らと遊ぼー」
自分の時より血相変えて迫る男たちに、真由子は微妙に複雑だ。
男って……な、なんて正直な……!
「お断りします」
美少女――遥がキッパリと言った。柔らかな表情が、一瞬にして凛として。彼女は茫然としている真由子の手をサッと掴んで引く。逃げられると気付いた男の一人が、遥に向かって一歩踏み出した。
「は?来いって……」
「そこまで」
彼女に伸ばされた腕を、捕らえた大きな手。男と遥の間に入ったのは。
「冴木先生……」
玲一は男達を一瞥し、手に力を込める。
「触るな」
「痛っ!わ、分かった!放せよ!」
よほどの力だったのか、腕を掴まれた男は痛そうに顔を歪めて玲一を振りほどき、「おい、行くぞ」と仲間と走り去っていった。
彼が真由子を見る。
「武藤先生、大丈夫ですか」
「はっ……はい!すみません!」
それから、彼は遥を見た。そのクールな顔が、少しだけ崩れたことに気づいて、真由子はあれ?と首を傾げる。玲一は軽くため息交じりに息を吐いた。
「無茶するなって、言ってるだろ――遥」
その視線に、ただならぬ雰囲気を感じ、真由子は思わず二人を見比べてしまう。
「冴木先生が、来てくれると思ってたから」
ふわり、と微笑む彼女に、なぜか真由子がドキドキしてしまって。
(こ、この二人って)
立ち尽くす真由子に、年配の女性教師が駆け寄った。
「あら大丈夫!?武藤先生」
「え!?は、はい!」
慌てて頷く真由子。その教師に玲一が声をかける。
「市川先生、宜しくお願いします。私は高嶋を連れて行きますので」
「ええ、大丈夫ですよ」
玲一は会釈すると、真由子を市川に任せ、遥の背に軽く手を添えて二人で離れて行った。
「あ、あの、市川先生、あの女子生徒って」
その背を見送りながら真由子が聞けば、彼女はウットリと答えてくれる。
「ああ、3-Aの高嶋遥ね、綺麗な子でしょう。お似合いよね」
ん?
「あの子よ、冴木先生の婚約者」
「えぇえぇ!?だって生徒ですよ!?そんなのアリなんですか!?」
「アリなんです」
妙なところでユルい学園だとは思っていたが、どうやら予想以上の凄さらしい。叫んだ真由子は茫然と二人の背中を見送ってしまって、気付く。
(あ、私、高嶋さんにお礼を言ってない……)
***
真由子たちから見えなくなったところで、玲一は岩場の陰に遥を引き込んだ。その両腕に恋人を閉じ込める。
「危ないことはするな。ただでさえこっちは気が気でないってのに」
はあ、と吐き出された息には、確かに焦りと安堵の色が含まれていて。遥は玲一を見上げて謝る。
「ごめんなさい。つい」
ちゃんと視界に玲一を捉えていての行動ではあったが、彼の言うとおり無謀だったかもしれない。玲一に甘えすぎているのも自覚している。
「心配させようとしたわけじゃないんだけど。ちょっと……寂しかったのかも。玲一が“皆の先生”なのが」
遥はことんと玲一の腕に頭を乗せ掛けて呟いた。玲一の溜め息が聞こえる。
「……お前はたまに物凄い小悪魔発言をするよな」
「え!?そ、そんなつもりじゃ……」
赤くなって否定する彼女に、玲一は顔を寄せ、軽くキスをして微笑むが、
「……ところでどうして気が気でないの?」
思いもよらない遥の問いに黙り込む。年下の恋人に近付くガキ共に嫉妬するなどと、言える筈がない。
「色々と」
「え?」
首を傾げる遥には、全く自覚が無いのか。
……この天然小悪魔め。分からせてやろうか。
良からぬことを考えた彼を制するように、ちょうどユミたちが遥を呼ぶ声が聞こえた。
「行かなきゃ」
「こらまて、遥」
玲一の腕から抜け出た彼女の手を掴んで引き戻し、玲一はもう一度キスをする。
「男子どもに呼び出されても、一人で行くなよ」
せっかくごまかしたというのにーーなにを心配しているのか、これでは白状してるも同然だ。
「……なるべく、ね」
照れ隠しのように付け足された玲一の言葉に。
「はい」
遥は嬉しそうに笑った。




