プロローグ
誰もいない早朝の学校。彼女は保健室へと向かう。
愛しい人に、逢うために。
サラサラと流れる長い髪をなびかせて、一人の女生徒――高嶋遥は保健室の扉を開ける。その向こうにいた、白衣の養護教諭――冴木玲一が椅子に座ったままこちらを向いて、軽く両腕を開いた。
その腕の中に遥が飛び込み、玲一に抱き締められる。
「おはよう」
「おはようございます、冴木先生」
生徒である遥と、教師である玲一の交際が発覚して数ヶ月。遥は高等部の三年生になった。
理事長の根回しで騒ぎはあっという間に収まったため、特に下級生には、二人の仲を知らない生徒も多くいる。同級生もあえて騒ぐこともなくなっていた。
「だから、いちゃつくのもバレないように。くれぐれも!くれぐれも卒業まで大人しくね?」
理事長から釘をさされたのは、玲一のみだったけれど。
「こうやって保健室に通うのも、あまり良くないんじゃない?」
遥は心配そうに問う。その騒ぎで玲一は、週2日勤務の養護教諭補佐になってしまったのだから。遥は保健委員ではあるけれど、公私混同ととられてもおかしくは無い。——事実だからまた後ろめたい。
「俺の愉しみを無くすつもり?」
玲一はそう言って、綺麗な顔を遥へと寄せる。
「たのしみ……?」
目を丸くする遥へ、その唇を重ねた。
「お楽しみ、かな」
「玲一の馬鹿……」
真っ赤な顔で、遥が彼の腕を掴む。何度こうしても、未だに恥ずかしがる遥。それでも拒まない彼女が愛おしい。
「ね、ところで来月の旅行は、玲一も来る?」
赤くなった頬をぱたぱたと仰いで、話題を変えた遥に問われ、玲一は思い出す。
「ああ、あの狐ヤローの無駄金行事……」
泉学園には春に親睦を兼ねた小旅行がある。豪勢な私立校らしく、修学旅行とはまた別でだ。今回その引率に、玲一も割り当てられていた。
「去年は私、行事後の転入だったから今年は楽しみなのよ?玲一も一緒ならもっと嬉しいし」
素直に喜ぶ遥が可愛い。けれど、玲一の方は素直に喜べない。
“狐ヤロー”こと玲一の義兄である理事長にこき使われるのは目に見えているし、旅行なんて浮かれた行事につきものなのは。
……告白ラッシュ。
ますます美少女っぷりに磨きをかけている恋人を見下ろし、玲一はこっそり溜め息をついた。
*
早朝の職員室にて。新任教師の武藤真由子は絶句していた。
(ち、超絶イケメン……)
視線の先には白衣の養護教諭、冴木がいる。一通り教師を紹介されたとき、真っ先に目に入った長身の男性。その美貌に心の中でガッツポーズをした。
(うわ、着任早々、目の保養だわ~ラッキー)
真由子の喜びとは裏腹に、校長の榊原がぐるりと教師たちを見回す。心なしか顔が引きつっているような気がした。
「え~では、来月の親睦旅行についてですが。……行き先は沖縄ということで」
「は?」
真由子は怪訝な声を上げてしまう。視線を受けて慌てて弁解した。
「小旅行の割に随分遠くなんですね、普通ほら、もっと近場とか」
そう言うと、皆がため息をついた。なんだろう。先生方が会議で決めたわけではないのだろうか。
「ですよねぇ……」
「発案者は理事長ですか?」
低く響く声。真由子がそちらを見れば、冴木玲一がにっこりと微笑んで聞いた。
(いやん、声も格好いい~)
真由子は呑気に思う。しかし榊原校長は、彼の表情にますます顔を引きつらせた。
「冴木先生……」
「任せて下さい」
笑顔を崩さないまま、玲一はつかつかと理事長室へ入っていく。
(ん?)
真由子が首を傾げていると、数学教師がぽつりと言った。
「冴木先生、怒ってますね~」
「へ?」
非の打ち所の無い、お綺麗な笑顔でしたが。
彼女の感想など知らず、また別の声が上がる。
「そうですな~。水際、海難事故、保健の先生にゃ仕事が増えるでしょうからなあ」
別の教師もうんうんと頷く。
「そ、そういうものですか?」
真由子にはいまいちわからない。
「最初よりはだいぶマトモになりましたがね」
学年主任まで話に参加し始めて、朝の職員室にて、真由子の周りにはちょっとした輪になった。
「最初って?」
真由子が聞けば、教師陣は一斉に溜め息をつく。
「理事長が、ダーツで行き先を決めようと言い出して」
「しかも世界地図で、ですよ?あの方本当にフリーダムですよね~」
「冴木先生が止めてくれなかったら、太平洋の無人島とか行かされるとこでしたよね~」
あっはっは、と笑う教師達。
さらりといつものこと扱いしてるの、怖い。微妙に怖い。
(何だろうこの学校……)
真由子の頭に一抹の不安がよぎった。
理事長室では、春だと言うのに絶対零度の視線で理事長を突き刺す、玲一の姿があった。腕を組んで立つその姿に、威圧感増大で。知らない人が見たらどちらが雇用主か分からないくらいだろう。
「なんで沖縄?」
「だって冴木先生が世界地図は駄目だと言うから、ちゃんと日本地図でやったのに!」
「だからダーツはやめろって言ったよね。俺、言ったよね?根本的に間違っている自覚は無いのかな?うん、もう死ねば」
「さ、冴木先生、首締まってる。ギブ!」
大人げない理事長ーー泉恭一郎に迫る玲一は未だ笑顔のままだが、その手の中でペンが二つに折れた。
「心配しなくても泳ぐには季節が早いから、男子生徒たちに君の愛しい遥ちゃんの水着姿を披露することは無いよ」
「当たり前だ」
心底冷たい目で、玲一が理事長を睨みつける。
「え~それが嫌がる理由じゃないのかい?じゃあ、引率から外そうか?その場合、遥ちゃんに寄るであろう浮かれ男子がいても、遠い空の下で指咥えてることになるけど、いいの?」
ーーそれは困る。
分かりやすく表情の変わった玲一に、理事長はニヤリと笑った。
「もう一人の養護教諭に変わってもらうかい?でも産休で戻って来たとはいえ、小さいお子さんのいる教師はなるべく行事に連れ出さないってのが僕の方針なの。分かってますよね、冴木先生」
口では立派なことを言っているが、どうせ面白いから、が主な理由だ。はた迷惑な最高責任者に、玲一が溜め息をつく。
「仕事を増やすな」
「ふん、高嶋さんといちゃつく時間なんてやらないもんね。特別ボーナス出すんだから給料分働きなよ」
いつになく強気な理事長に、玲一が眉を上げた。
「義兄さん?……玲奈帰ってきたの?」
玲一の実の姉であり、理事長の妻である多忙なスーパーモデルの名を出せば。
「あはは、わかる?海外ロケはもうしばらく無しなんだって。ビバ蜜月〜」
へらへらと緩み切った顔でノロける義兄。どうりで、強気なはずだ。
「この、色ボケ狐……」
玲一の手の中で、ペンが粉々に砕けた。




