玲奈の物語・前
私、冴木玲奈。
……違った。
今は、泉玲奈。
職業・モデル兼女優。
そして私立泉学園理事長、泉 恭一郎の妻。
……こっちはイマイチ自覚がないけどね。
「玲奈ぁ、ただいま!会いたかったよ~」
その旦那様は、今日二週間ぶりの帰宅。
私は抱きついてきた彼に――鉄拳を、食らわせた。
「二週間とかありえないのよ、ふざけんなボケぇぇっ!!」
うん、自覚ない。
恭一郎はとにかく忙しい。お父様から継いだ理事長職も、少しでも気を抜けば、若いからと理事達に舐められて足元掬われる。もともと英語教師だった彼は、生徒の指導にも熱心だし。休む暇もない。
え、本人のこと?年齢は40歳。私より10歳上。でも見た目は私と変わらない。もっと若く見えるときもある。年齢不祥。……多分精神年齢は生徒たちと変わらないんじゃないかしら。
顔は……多分、イケメンて言えると思うけど。いつもヘラヘラしてるから、なんだか色々台無し。まったく掴みどころがなくて、私もいまだに彼がわからない。狐ヤローとはよく言ったものよね。でもごくたまに、ドキッとするような顔をする。いつもしてればいいのに。
「遅くなってごめんね。だけど玲一君の件の後処理に手間どっちゃって」
彼がそう呼ぶのは、冴木玲一、泉学園の養護教諭をしてる私の弟のこと。
最近生徒との恋愛が公になってしまって、恭一郎はその後始末をしていたらしい。
「にしてもよく許したわね、玲一と遥ちゃんのこと」
私が聞くと、恭一郎はソファへ座り、口を開いた。
「うちの生徒は旧家の出が多いからね。婚約者とか、きちんとした形を取ってれば保護者サイドには好ましく受け取られるよ。この学園の特性でもあるし」
それでも 風あたりが全くないわけではなく。色々イロイロ、夫が奔走しているのは事実だった。そういう意味では、凄く感謝してるのよ。
……けど私も、なかなか素直にはなれなくて。……ていうか。
「だからって二週間も音信不通てどういうことよ!メールくらいできんでしょうがぁあっ!!私だって忙しいのよ、いつ帰るかくらい連絡しなさいよ!スーパーモデル舐めんなっ!!」
ぜーはー叫ぶ私。ところが……恭一郎はにへらっと笑った。
「寂しかったの?玲奈」
この、この、大馬鹿亭主――!!!
*
私が恭一郎と出会ったのは、まだ私が小学生の頃。教師の父の、教え子だという彼は、当時から何度かうちに遊びに来てた。私は恭一郎に、父と同じような心地よさを感じていて、彼に凄く懐いて。恭一郎も教師を目指してたからだと思う。
そして、私が中学に入学した月。両親が事故で亡くなった。
私と当時10歳の弟は、途方にくれて、不安で寄り添っていたっけ。(あ~あの頃の玲一は素直で可愛かったなあ……)
その時、手を差し伸べてくれたのが恭一郎だった。
「僕ね、今年から学校の先生になったんだ。僕の学校にこない?」
お葬式で、両親の位牌の前で、恭一郎はそう言った。
「それからね、僕は一人きりだから、玲奈ちゃんと玲一君が家族になってくれたら嬉しいな」
その時、親戚中で、私達の預かりについて揉めていた。……ちなみに引き取りたくない、ではなく、誰が引き取るかの争奪戦で。なにせ私達は評判の美形一家だった。自慢でもなんでもなく、あまりの白熱っぷりに、身の危険を感じたのよ。
というわけで、恭一郎の申し出は、私達には天の助けに見えた。……その時は。
恭一郎のマンションで共同生活を始めたら。お坊ちゃん育ちの彼は、家事なんて一切できなかった。必然的に食事係は私。いたいけな中学生に何させてんのよ、まったく。
「恭一郎さん、家政婦が欲しかっただけじゃあ……」
恨みがましく言えば、
「え~そんなことないよ」
ニコニコ、あの読めない表情で返された。
ちなみに器用な玲一は、さっさと自分のポジションを見つけて、洗濯だの掃除だの、パッパとこなしてたっけ。
そんな生活を続けて、三年後のこと。私達の関係が変わった。
それは私が中等部から高等部へ上がる春のこと。
「君、モデルやらない!?」
そんな声と差し出された名刺。こういうのは初めてではなかったから、いつも通り、やり過ごそうとした。
「結構デース」
けれど、相手はキラキラした目で、私の手を握り締めた。
「モデル一人辞めちゃったところに君が現れたなんて。これもう運命……」
……え~と。
「頭、大丈夫?」
ダメそうだな。
「絶対逃さない~!」
妙なテンションで叫ぶその男性。後に私がデビューする雑誌の編集長、小島さんだった。
いつもと同じように教室に入ると、男子生徒が近寄って来る。中等部からの親友、新城由季だ。
実はユキはゲイで。女目線で話してくれるのもあって、私とは凄く気が合う。
それを知ってるのは私だけだから、クラスの子たちは私とユキが付き合ってると思ってるみたい。
「へぇ~じゃあやるの、モデル?」
ユキの問いに、う~ん、と返す。
「バイトはしたいのよ。だからいい機会かも。だけど恭一郎さんが何て言うかなー」
一応、後見人だし。聞いとくべきだよね。
「ダメ」
その日帰ってからモデルについて話してみれば、案の定、恭一郎は反対した。その向こうで玲一が言う。
「いいじゃない、せっかく金になるモノ持ってるんだし。皿運んで金もらうか、カメラに笑って金もらうかの違いでしょ」
れ、玲一っ、あんたはドライに育ち過ぎだよ!
「玲奈が可愛いことなんて知ってるよ」
さらりと言われた恭一郎の言葉に、心臓がどっくん、と音を立てた。家族に向ける『可愛い』とは分かっているのに。
「だけど、だからこそモデルなんて怪しいバイトは止めて欲しいよ。何かあったら先生に顔向けできない」
あ。
不意に、ギュッと心臓を掴まれたような痛み。
『先生に』
恭一郎が私を心配するのは、私たちと一緒にいるのは。お父さんへの、義務感なんだ……。わかっていたのに。
わかって、いたのに?
何故こんなに、ショックを受けてるの、私は。
「――あたしは、やるから。放っておいて」
モデルの仕事は案外私に合っていたみたいで、毎日が充実していた。ただ、忙しくて、恭一郎と顔を合わせる時間はどんどん無くなっていた。
私の心には彼の言葉がいつまでも引っかかっていて、その意味を考えたくなかったのだと思う。恭一郎との距離が空くことは、寂しかったけれど、ホッとした。
「ただいまぁ~」
ある日帰宅すると、家の中が静かで。玲一もバイトを始めたそうだから、(あいつ年齢詐称してるな)まだ帰ってないのかな。
リビングに向かえば、ソファの上で恭一郎が寝ていた。
ありゃ。
「お疲れ様……」
もともと、恭一郎は泉学園の後継者だ。教師として以外にも、色んなことを勉強していて、大変なんだろうな。
毛布を持ってきて、彼に掛けてあげようとした。
その瞬間、私は強い力で引っ張られ、恭一郎の上に倒れ込んでしまう。
「……!?」
恭一郎の手が。私の腕を掴んでいた。
え~~と。何、この状況。何かと、間違えてない?ほら、抱き枕とか、彼女とか。う。彼女?
(……恭一郎さん、彼女居るのかな)
聞いたことはない。家に連れてきたこともない。……って、冷静に考えてる場合じゃない、私!!
「恭一郎さん?」
ドキドキしながら彼を見上げたら。……真剣な目が、私を見下ろしていた。
妙に、男らしいというか。いつもの、のほほんとした彼じゃない。いつもは穏やかな瞳が、何故が強い光を浮かべている気がして。目を逸らせずにいた私に、彼が苦しげに囁いた。
「玲奈、どうして俺から離れてくの」
ぽそりと言われた言葉。その意味を理解する前に。
一瞬後に、唇に温かい感触。
嘘。
私、恭一郎にキス、されてる……。
長いようで、一瞬の、触れるだけのキス。
「……ごめん」
恭一郎が私を離して、言った。
「なんで、謝るの?」
「ごめん。忘れて」
私の問いに、彼は苦々しく言った。私はわけもわからずに。
ーー恭一郎を殴り飛ばした。
*
「え~……殴っちゃったの?」
ユキが目を見開いた。
「だってさ!キスを謝ったんだよ。忘れてって」
あんまりだ!!
「私とのキスを、無かったことにしたいってことでしょ。後悔してるってことでしょ」
涙目で語る私に、ユキが肩を並べて、優しく頭を撫でてくれた。
「俺はそうは思わないけどね。大人は、面倒だね」
ユキの肩に頭を預けて目を閉じる。
「そこ。授業始めるよ」
後ろから、よく知ったこえがした。振り返れば、やはり恭一郎がいた。今まさに話題にしていた気まずさと怒りに、私はユキの肩に顔を伏せる。
「冴木さん、校内でイチャつくのは程々にね~」
恭一郎の言葉に、かああっと、頭に血が登った。
よくも、そんな平気な顔で!
私にキスしたくせに、私が他の誰かとイチャついてていいわけ!?
何なのよ。
ユキが私の頭を抱いたまま、先生を見た。
「……ああ、なるほどね」
ユキは独りで納得して笑った。
何なのよ!!?誰か私にわかるように説明してーっ!
恭一郎は、私のこと、どう思ってるのよ……。
よくよく考えれば、私はもうこの頃には、恭一郎のことが好きだったのよね。でもそんなに素直な性格じゃなかったし、親代わりである彼しか頼る人がいなかったから、ただの刷り込みなんじゃないかって、自分の気持ちに自信もなかった。
後に恭一郎には
「え~玲奈は僕なんて全く頼りにしてなかったじゃん。どっちかってと君について回ってたのは僕のほうだよね~あはは」
と言われた。
……頼りなさを自慢するなああっ!普通こういう心配するのも逆じゃない?
まあそういうわけで。私は恭一郎の気持ちを確かめられなかった。
そのうちだんだんモデルとして私は有名になって。校内外問わず、告白されたりすることが増えた。(ちなみに玲一も、中等部ではクールビューティーとか氷のプリンスとか、色々騒ぎになっていたみたい……なんだそりゃ)
あれから恭一郎はもとの彼に戻っちゃって。キスなんてなかったことみたく、普通に“保護者”をしてた。
「チッ……僕が理事長になったら、校則でバイト禁止にしてやる」
私の出てる雑誌を見て、ボソッと呟く姿は……まるで昭和のお父さん。
……男としての、ヤキモチだったら、って。思ってたんだよ。
私のそんな願いや、密かな悩みなど、彼には何一つ届かなかったのだけれど。




