切なさの行方
次の日の朝、遥は早めに保健室へやってきた。
昨日の夜、帰宅した後の電話に玲一は出ず、メールの返信もなかったから、少し気になって。
「おはよーございまーす……」
小さく言って、扉を開ければ、その向こうはやけに静かだ。
「……?」
今日は玲一は早番のはず。彼のスケジュールはチェック済みだ。来ていない筈はないのに。
「冴木先生……?」
ベッドに近付くと、そこに眠る彼の姿があった。
「先生なのに、いいの?」
まあ普段から遥とイチャつくのに、完全私物化してはいるが。
近付いて、彼の寝顔を覗きこむ。
「ふふ、なんだか、可愛い……」
自分だけが知る、彼の無防備な姿。当たり前だが、常なら玲一は職場でうたた寝すらしない。寝顔なんて知っているのは遥だけ。
「……好き」
「知ってる」
言葉と共にぐい、と腕を引かれて、遥は玲一の胸へ倒れ込む。
「お、起きてたの?」
「……イイ香りがした。お前の」
半分目を閉じたままの玲一は寝ぼけているのか、そんなことを言って遥を抱きしめる。そんな彼も珍しい。
「玲一っ!?」
制服の中へ潜り込んできた手に、遥が顔を真っ赤にして玲一を呼ぶ。
「ちょっと、朝から何して……っ」
唇をキスで塞がれ、言葉は奪われた。決して乱暴ではないのに、強い力に抗いきれない。身を離そうと彼の胸を押し返した彼女に、微かな声が届く。
「……めんどくせー……」
ふと、呟かれた言葉に。遥は硬直した。
面倒臭いって、何が?
私?
私との、関係?
遥の様子に気付き、玲一は手を止めた。
「遥……?」
彼女は硬い表情で、口を開く。
「私が、生徒だから……」
「え?」
玲一は訳がわからず、聞き返した。
何を、言ったっけ?
寝ぼけていた自分の言動を思い出す。
……あ。
「いや、そうじゃなくて」
誤解させたことに気付いて、玲一は否定しようとした。
が、しかし。
「おはようございます。冴木先生、いらっしゃいますか」
控えめな声が、遮った。
玲一はさりげなく遥をカーテンの陰に隠し、訪問者へ向き直る。
「はい、おはよう。何か?」
入り口に女生徒が立っていた。何度か保健室にも顔を出したことのある、3年生だ。いつもは数人で休み時間に雑談をしにくるが、今日はひとりで。
「あの、先生にお話が」
……その赤らんだ頬を見れば、何の話か想像はついた。
「外で、いい?」
チラリとベッドの方を見るが、遥の表情は見えなかった。
二人が出ていくと、遥はカーテンから出た。彼女にも、女生徒が何をしに来たのかはわかっていた。きちんと向けられた想いを、玲一は無下にはしない。誠実に、断るだろう。
……断る、のはわかっているけれど。
遥は潤みかけた瞳を奥へ向けた。綺麗に整頓されたデスク。『冴木先生』の仕事場。目を閉じて思い出す、自宅にあったたくさんの資料、本。一人一人に接する彼の『教師』としての姿。
彼が生徒との恋愛を、面倒だと感じているのなら。
「……私からも、離れてしまうのかな」
ポツリ、と言った言葉は、誰にも聞かれることはなかった。
*
昼休み、生徒でごった返した廊下で遥は呼び止められた。
「遥ちゃん」
そこには悠がにこやかに立っていて。見慣れぬ私服の大学生を、周りの生徒が好奇心に満ちた目で噂しながら通り過ぎていく。遥は目を見開いて彼へと近寄った。
「どうしたの?悠君」
彼女の驚きに、悠は平然と答える。
「昨日うちに落として行ったろ、困ると思って」
彼は遥の生徒手帳を持っていた。実際は悠が遥に会いに、“学校に”来る口実の為に、彼女の鞄から抜き取ったのだが。
「保健室に居るかな、と思ってたけど。途中で会えて良かった」
この広い学内で、良く遥の居場所を見つけ出したものだと思っていたが、どうやら悠の目的地は最初から保健室だったようだ。
「ありがとう」
礼を言って、ふと遥は悠の視線の先を見る。保健室の前で、玲一が女生徒に囲まれていた。何かを話しているが聞き取れない。特別に愛想良いわけでも、冷たいわけでもなく、ただ質問に答えている様子で。けれどーー
「やっぱりモテるね~冴木先生は」
悠がちらりと遥を見る。彼女は途方に暮れたような目で悠を見た。その揺らいだ瞳に、悠はドキッとする。昨日までの彼女には無かった隙を見つけて。
「そうね」
遥は玲一へと視線を戻す。保健室で玲一に迫っていた三年の女子が、またしても彼のそばにいた。ひときわベタベタと玲一の腕に絡みつく。今朝のことを思い出した。
「……っ」
遥が一歩踏み出して口を開きかける。
やめて、とか。私の彼氏なのよ、とか。そんな言葉を発したかったに違いない。
しかし遥は唇を噛み締めて耐える。悠はそんな遥の姿をじっと見つめた。
「ねぇ、遥ちゃん。俺にすれば?」
気が付けば、悠はそう口走っていた。思わぬセリフに、遥がきょとんと彼を見た。
「みんなに言えない彼なんてつまらないじゃん。他の女が近づいても、見てるだけしかできない」
悠の言葉に、遥は痛みをこらえるかのように、ぎゅっと目を瞑る。しかしその首を横に降った。
「私の選んだ人はそういう人なの。……それに」
言いかけて、遥は悠に微笑んだ――が、その瞳から涙が零れた。
「玲一だって、きっと沢山我慢してる……」
声もなく、ポロポロと涙を零す遥を、悠はいたたまれずに引き寄せた。
ただでさえ注目されている悠の胸で、校内でも有名な美少女が泣いている。他の生徒の驚愕や好奇の目がいくつも向けられるが、悠は彼女を離す気になれない。
いくら信用してても、理解していても、不安でない筈がない。ものわかりが良すぎて、遥がどんなに寂しさに耐えていたのか。触れればたまらない気持ちになった。
彼女の頭を抱えたとき、廊下の先にいる玲一と目が合う。目を細めてこちらを見る彼を睨みつけた。
そこで見てろ。何もできないくせに。
しかし次の瞬間。
俯いていた遥は、不意に強い力で引き寄せられた。
「何、泣いてるの」
玲一が傍まで来て、遥の腕を掴んでいた。彼をとりまいていた女生徒は、廊下に置き去りにされたまま、ざわざわとこちらを見ている。
「何でもありませんよ、冴木先生」
悠がはねつけるように言って、その手を押さえた。
「こんな人の多いところで、何を言えるんです」
悠が小さく言うと、玲一は笑った。
「立場に未練なんてないと言っただろ」
遥は目を見開いて玲一を見上げた。
「好きな女を泣かせてまで、守る程のものじゃない」
玲一が遥の顎に手をかける。群がっていた女生徒たちから悲鳴があがった。
「他の誰ともしたくない。お前だけだ、遥」
そのまま遥に唇を寄せ――キスした。
遥は驚きのあまり、動けない。悠はあまりのことに茫然としたまま、見守ってしまった。あれほどざわめいていた生徒も、驚愕に言葉を失って、廊下は一瞬静寂に包まれた。
唇が離れた瞬間、遥の膝が崩れ落ち――それを抱き止めて、玲一は遥を抱え上げる。そして無言のまま保健室に入り、後ろ手に鍵を閉めた。
「ちょ、ちょっと玲一……!?」
遥が我に返る。
「みんなの前であんなこと!クビになっちゃうよ!」
一瞬後に廊下からは悲鳴やどよめきが聞こえた。きっととんでもないことになっている。さすがに中まで追って来るような生徒はいないようだが、それもきっと時間の問題で。
遥は自分を抱えた玲一を叩くが、彼は平然と答えた。
「だからそれは大丈夫」
「大丈夫じゃないよ!今まで何のために我慢してきたのか……んっ」
遥の言葉を奪うように、玲一がキスした。彼は遥をベッドに下ろし、その首筋を唇でたどる。
「え……玲一、まさか」
玲一の指が遥の制服のボタンを外していく。
「な、なにしてるの……?」
彼は答えずに、彼女のリボンを引き抜いた。
「みんながすぐそこに居るのよ、さっきあんなことしてこんな」
動揺しきった遥は、しどろもどろに言葉を重ねる。玲一は妖しく微笑んだ。
(また、この顔っ……)
遥の心拍数が上がる。
「キスして保健室連れ込んで鍵かけたら、もうヤッてんのバレバレだよな」
「玲一っ!」
玲一の言葉に血相を変えて、遥は抵抗する。彼は本気でこの先まで進むつもりなのか。しかしその胸元に滑る彼の指先に、ぞくりと体を震わせた。
「玲……」
「声出すと外に聞こえるよ」
どうして?
今まで、こんな、本気でバレるようなことまではしなかったのに。
遥は玲一の突然の行動に混乱する。
「面倒くせーってのは……俺の、こと」
は、と遥がまばたきをした。玲一が、遥の瞳を覗き込んで、呟いた。
「自分の、コントロールができないんだよ、お前のことになると」
みっともないけど、と。真っ直ぐに、見つめられて。
「他の男の胸なんかで泣くな」
抑えて言われた言葉。
それは、ヤキモチ?
「全部、わかってるから」
遥がどんなに、震えながら立っているのか。玲一を想っているのか。
他の女が近付く度に、寂しくて、だけど不安を隠して。
「全部、俺のためだろ」
だけど。
「お前を泣かせたくないって、言っただろ。聞くから、全部」
「……っ、うん」
遥の頬を伝う涙を、玲一が唇で拭う。
「お前だけが、大事なんだよ……」
返事のかわりに、伸ばされた遥の腕が玲一を抱き締めた。




