秘密
それから何日か目の放課後。
遥は保健室で冴木の手伝いをしていた。
主にただの掃除とたまにコーヒーを淹れたりする程度だが、彼に言わせると『重要な保健委員の仕事』らしい。
まあ、別に掃除は嫌じゃないしーーいいえ。
冴木と過ごすのは、嫌じゃない。というより、むしろ心地良い。からかわれることは多々あるが、何だかんだ言っても彼とは気が合う。とりとめのない話ばかりだが、なぜか彼と居ると安心できる。
遥にとっては、彼がこの学校に来て初めての信頼できる相手になった。
それに。
「先生~コケた~」
サッカー部員が血まみれの足を引きずりながらやってきたときも、「仕方ねぇな」などと言いながらも、丁寧な手つきで素早く手当てをして。
「お前靴合ってない。ちゃんと店員に見てもらって、足に合うもの探せ」
なんてことまで親身になって。その容姿と、一見クールではあるが、無下に突き放すことはない適度な距離に、彼がかなり生徒に慕われているのがよくわかる。
「先生って、凄いんですね……」
「そうだろ。惚れてもいいよ」
「そういうところ以外は尊敬します」
何気ない言葉遊びでさえ、楽しい。二人の様子に手当をしてもらった男子生徒が、訳知り顔でニヤニヤと冷やかした。
「へえ、冴木先生と高嶋さんて仲良いんだー。高嶋さん年上好みなんだね。どうりで難攻不落なわけだよ」
「難攻不落?」
彼の言葉を冴木が聞き返す。
「そう。高嶋さん転校してきてまだ2週間も経ってないだろ?で、告ったオトコすでに10人。もはや日替わりだよね。で、それぜーんぶ断ってるんだよね」
ぱ、と両手を広げてみせる彼に、遥は困ったように問う。
「……どうしてそんなこと知ってるの?」
「半分はうちのサッカー部員だから。ごめんねえ、かくいう俺も狙ってる」
え、と思わず言葉に詰まってしまって。男子部員はあれっと笑った。
「冴木せんせー、高嶋さん意外と危なっかしくない?大丈夫?」
視線を向けられた冴木は、白衣の胸ポケットに眼鏡をしまって。
ーーふ、と色気を滲ませた笑みを浮かべた。
「……っ」
なんだろう。何か言われるよりも困る。
真っ赤になったであろう頬を押さえて、遥は立ち上がった。挙動不審になるのも構わずにおたおたと薬箱を片付ける。
「……せんせー、何ニヤニヤしてんの。エロいな」
「君に言われたくありません」
「ねえせんせーって育てる系?調教とかしちゃう系?」
「何のことか分かりかねるね」
背後の会話は聞かなかったことにした。
最近、冴木と急激に親しくなっていくのを、ひしひしと感じて……それが、嬉しいと思っている自分が居る。
保健室という特殊な場所だからなのか、冴木が嫌悪を抱かせない端正な容貌だからなのか。それ以上に彼の雰囲気は静かで、穏やかで。
いつの間にか、桜を想うときの寂しさや、もどかしさを忘れかけていることさえある。
「遥」
他の生徒が居ないときだけ、呼ばれる下の名前。しかも彼は他の誰も下の名で呼んだりはしない。
それに気付いたとき、なんだか恥ずかしくて叫び出したくなった。
けれど遥には、気になることがある。
最初に問い掛けたときから、冴木はずっと桜の話題を避けている。
今まで何度となくはぐらかされ、さすがに遥も不自然さを感じていた。
「遥ってば、ちょくちょく保健室に行くよね。もしかして冴木先生狙い?」
ある日の放課後、いつものように保健室へ向かおうとした遥に、ニヤニヤとユミが聞いてきた。遥は一瞬返答に困る。
「あの、別にね?保健委員の仕事を」
「いいって隠さないでも~案外遥って先生の好みかもよ」
「え?」
ユミの言葉に、遥の心臓が跳ねる。 遥は思わずユミを凝視してしまった。視線に応えて彼女は説明する。
「冴木先生て、あの例の亡くなった先輩と仲良くてさ。デキてるんじゃないかって噂だったの。遥はその先輩にちょっと似てるんだよね~」
……!
別の理由で、心臓が跳ねた。
「そう、なの?」
「うん、なんか毎日のように保健室に入り浸ってて。すっごい美人の先輩だったし、冴木先生もまんざらじゃないみたいな」
ペラペラと喋るユミの隣で、麻里が苦笑する。
「ただの噂じゃん」
「そ~だけどぉ。あれ、遥、顔色悪いよ。大丈夫?」
「うん、ごめん、トイレ……」
頷き、遥はふらりとそこを離れた。ドクン、ドクン、と心臓の音がうるさい。握りしめた指先が痛い。 頭が混乱して、上手く考えられない。
『たいして親しくもなかった』
「嘘を、ついた?」
何のため?
遥はいつのまにか、あの桜の木の下へと来ていた。
ぼんやりと、思う。
私は、何にショックを受けてるの?
桜の死に、冴木玲一が関わっているかもしれないこと?
冴木が、遥に嘘をついていたこと?
……冴木が、桜の恋人だったかもしれないということ?
考えても、答えは出てきそうになかった。 ただ、ズキズキと痛む胸。もやがかかったような、頭。
何の約束も無いのに、裏切られた気がした。
何の権利も無いのに、冴木と一番親しいのが自分じゃなかったことに、傷ついた。
そんな風に思ってしまうほど、彼に近づいていたことに愕然とする。
私は……。
それからしばらく、遥は保健室に行かなかった。行けなかった。
真実を知りたい気持ちと、真実を知るのが怖い気持ちと。だからせめて、生徒へ桜のことを聞いてまわっていた。けれど、桜はその容姿で有名ではあったものの、核心に迫るような情報は全く無く。
やっぱり、冴木先生に聞くべきなのかな……。
そう考えた時。
「高嶋遥」
廊下でふと、低い声に呼び止められた。ドキン、と音を立てる心臓。振り返らなくてもわかる。
「冴木センセ……」
「お前最近来ないな。仕事サボるなんていい度胸してるね」
といいつつも、冴木の声には遥を責める響きは無い。遥は手を握りしめ、冴木に向き直った。
「先生は桜と仲が良かったって聞きました。……本当は、知ってるんじゃないですか?桜が死んだ理由」
冴木の目に、動揺が広がった。遥は、それを見逃さない。
「知って、るんですね?」
けれど彼から返ってきたのは、拒否。
「言えない」
「どうして!?」
遥は叫ぶように問いかけた。憤りに目が潤む。一度問いかけてしまえば、自分の心は止まらなくなる。
こんなにも、知りたいのに。
あなたが、桜の死に関わってはいないのだと、信じさせてーー。
「言えない」
静かな冴木の声。
どうしてーー。
気がつけば、遥はその場から逃げ出していた。