好きだからこそ
「お前にはわかってたのかなー……水樹」
あの日ーー桜を最後に見た日。
「先生、ありがとう。先生にも現れるよ、満たされる相手。すぐにね」
その時は、セリフの恥ずかしさに生意気な、と苦笑するばかりだった。けれど桜の存在が、遥を玲一へ引き会わせてくれた。不思議なことに、遥を守ってくれた。
サイドボードの引き出しを開けると、中にあった煙草の箱とライターを取り出す。ベッドから出て、ベランダで煙草に火をつけた。ふーっと煙を吐いたとき、後ろから細い腕が玲一を抱きしめる。
「煙草、本当に吸うんだ。初めて見た」
遥の柔らかな声。背中に温かな感触。その腕に手を重ねて玲一は笑う。
「もうやめたから。普段は吸わない」
デスクの中に残っていた、最後の一箱。遥と出会ってからは必要のなかったもの。
「なんでやめたの?」
「匂いが移るだろ。さすがに学生にはヤバいかなと思って。あとは、まあ副流煙のほうが有害だしね」
遥の問いに、玲一が答える。え、という驚いたような彼女の声がした。
「そんなこと、考えててくれたんだ。学校でもどこでも構わずスルくせに」
「あ~すみませんねぇ」
顔をひきつらせた玲一を、遥がのぞき込んで微笑む。
「嬉しい」
ほらまた、その顔。
「仕方ないだろ。お前がそーゆー顔するから、我慢できねぇんだよ……うん、俺は悪くない」
「なに、それ……」
玲一は遥に深くキスをする。
「ん、苦い……ピリピリする」
「だからやめたの。ちょっと我慢しろ」
眉をしかめて呟いた少女に笑って、もう一度。
本当は、煙草を吸うのはやりきれない気持ちを紛らわす手段でもあった。桜のことだけではなく、もうずっと前からの。感情を抑える為のそれ。
けれど、遥と居ればーー満たされる。
香りが移るほどそばにいたい。触れていたい。そのためなら煙草をやめることなんて、我慢のうちにも入らない。
「遥、俺の傍にいろよ」
遥は綺麗な笑顔で、頷いた。
*
「先生、ねぇいいでしょ?あたしと付き合ってよ」
「お断りします」
玲一はうんざりと、溜め息をついた。
あくる日の、午後。授業がとっくに始まっている時間だというのに、そんなことをいいながら目の前の女生徒は玲一に迫る。確か3年生だ。受験勉強をしろと言いたい。いや、実際にも言ったはずだ。
「お前授業は」
「先生のこと考えて集中出来ません~」
お約束のセリフを棒読みで返してくる女生徒に溜息をつく。正直、かわすのも面倒になってきた。だんだんと丁寧な口調も崩れ始める。
「俺彼女いるから」
「じゃあ、キスだけでもいいよ。一回してくれたら諦める」
「はあ!?」
聞き分けの悪さに玲一は苛立ちを隠しきれず、立ち上がった。
「ありえねー。何なの、新手の教師イビリ?」
相手には玲一の呟きなど耳に入らないらしい。
「一回だけ!」
(なにこれ面倒臭い)
そんなことで解放されるなら……。
苛立ちと、煩わしさで、冷静な判断力が狂う。期待した目でこちらを見る女生徒。キス一回で煩わしさから逃れられるなら。たいしたことじゃない。
「……ってわけにもなあ……」
小さく呟く。
だってそんなことをしたら、絶対遥は……。
「先生、ちゅーは?」
女生徒が顔を上向かせて聞く。一瞬、迷った。迷ったことに、罪悪感。
その時、ガタンと音がして、保健室の扉が開いた。
「冴木先生、腹痛の薬ちょーだいっ」
扉に手を掛けて威勢良く言ったのは松本拓海だった。ずかずかと保健室に入って来て、どかりと玲一の前の椅子に腰を下ろす。
「ちぇっ」
さすがに興を削がれたのか、残念そうに女生徒は出て行った。
「あれ、三年の先輩だよな。モテるねーセンセ」
拓海の冷やかしの声に、疲れた様子で玲一が答える。
「冗談じゃない。今だけはお前に感謝するよ。よくぞ保健委員の務めを果たしたな」
「何が保健委員の仕事ッスか」
「俺様が円滑に仕事に専念できるように、その身を犠牲にしてでも俺に降りかかる面倒を処理する」
「冴木先生、暴君だね……」
拓海の呆れ顔など構わずに、玲一が続ける。
「遥には見せられないしな」
彼の言葉に、拓海がキョトンと言う。
「見てたよ?高嶋さん」
「は?」
玲一の見開いた目に、拓海はあーあと呟く。
「扉の前に居たよ。俺に気づいて走って行っちゃったけど」
ヤバい。
玲一は遥を追って校舎の外に出た。遥の居そうな場所はすぐにわかる。
裏庭。桜の木の下。案の定そこにいた。
根元にうずくまり、膝を抱えている彼女を見つけて、チクリと罪悪感にかられて。
「まさか本気で俺がやると思った?」
近づいて聞けば、遥は俯いたまま首を振る、が小さく答えた。
「でも面倒臭くなったらやるかも、とは」
(……本当に、俺の性格をよく掴んでる)
内心痛いところをつかれたが、玲一は平静を装って言う。
「やらないよ。お前が泣くのはわかってるし……第一、もう遥としかしたくないし」
玲一の声に、遥はゆっくり顔を上げた。彼女が泣いてはいなかったことにホッとした。しかし遥の方は彼の顔を見て、その目に驚きを浮かべる。
「玲一、顔困ってる。珍しい……」
自覚はある。今多分、とてつもなく情けない顔をしているはず。それだけ、この愛しい恋人に振り回されているのだ。……彼女からしてみれば振り回されてるのは自分の方だ、と思うだろうが。
遥の目線に合わせてしゃがみこみ、玲一は頬杖をつく。
「俺を焦らせるのも、困らせられるのも、お前だけだな」
遥はやっと笑う。
「それ嬉しいかも」
そして玲一にだけ聞こえるような声で囁く。
「ね、冴木センセ?私今、すごく先生と……キスしたい」
小さく首を傾げて、上目遣いでこちらを見つめる姿に、玲一は苦笑する。ドコで覚えたんだ、ソレは。どうせいつも玲一がからかうのを根に持って、動揺させてやろうと思ったのだろう。こんな誰が来るかも分からない校舎裏で彼女がそんなことを本気で強請るわけが無い。……残念ながら。
だから玲一も、仕返しを試みた。
「そんな風に誘って、キスだけで俺が止まると思う?」
「っ……もう……」
からかい半分でしかけた遥のほうが赤面するのを見て、意地悪く笑う。
可愛くてたまらない。本気でこのまま空き教室に連れ込もうかなどと、不埒なことを考えた矢先。
「遥ちゃん?」
聞き慣れない声がした。




