知るということ side 玲一
遥が保健室に現れたのはそれからすぐのこと。
担任から預かったプリントを差し出す彼女の姿、玲一と話し、警戒した顔や途方にくれた顔、姉のことを語る瞳。それをいくつも間近で見て、玲一はなんとなく危機感を感じる。
このまま深入りしてはダメだ。からかって、わざと異性だと意識させてやる。普段他の生徒に接する時には絶対に踏み込まない距離を、易々と超えてみせた。そうすれば賢いこの少女は、玲一から離れるだろう。
けれど思いとは裏腹に、彼女が背を向けた瞬間に無意識にその腕を掴んでいた。
ーー傍に、置きたい。頭を掠めた欲求に、咄嗟に言葉が出る。
「遥、お前俺の下僕……いやいや、保健委員になりなさい」
軽口に紛れさせるのが精一杯で。玲一は遥に惹かれていく自分を自覚していた。距離を置こうとする彼の理性はあっけなく崩壊。遥の表情一つ一つに目を奪われる。彼女だけを特別に名前で呼んで、戸惑いながらだんだん打ち解けてくれる少女に、ハマった。そうとしか言いようが無い。この感情にはっきりと名前を付けるのは危険だと分かっていた。
女子高生など子供にしか見えないと思っていたのに、遥が女にしか見えない。その志も、強さも弱さも、姉への想いも。全て愛おしく美しく思えてならない。
(これは、ヤバいよな)
遥に桜のことを聞かれるたびに、ごまかしていたが、それも限界にきていた。
その時にはもう、自分の浅ましさに気付いていた。
遥を傷つけたくないということだけが理由ではない。桜の近くにいて、みすみす死なせたことを、遥に責められるのがーー憎まれるのが、怖かった。それほど、彼女は玲一にとって大きな存在になっていたのだ。
大人のズルさで、桜のことを本当に知りたいのかとワザと突きつけて、彼女がそうするのを分かっていて、遥を遠ざけた。
……結局は、やったそばから後悔して、姿を見れば声をかけていた。
離れようとすれば、余計にその姿が目について。
(やっぱり可愛いな、こいつ……)
そして、遥の口から、出た言葉。
「先生は桜と仲が良かったって聞きました。……本当は、知ってるんじゃないですか?桜が死んだ理由」
不覚にも、遥に見とれていた玲一は、不意打ちに動揺を隠せなかった。
そして困ったことに、遥はそれを見逃すような子ではない。
「知って、るんですね?」
「言えない」
伝えたら、きっと傷付く。
「どうして!?」
伝えたら、きっと泣く。
「言えない」
遥。お前を、泣かせたくない。
遥は玲一の前から逃げるように去っていってしまって。罪悪感が胸にのしかかる。
「逃げたいのはこっちだってのに」
呟いても、楽にはならなかった。分かっている。遥に糾弾されるのは怖い。けれど責められて、この罪悪感から楽になってしまいたい。叶うなら彼女に許されたい。でもそんな自分勝手な感情で、守るべき少女を傷つけるわけにいかない。
遥に去られた玲一に、声をかけてきた、教師の谷村。玲一は彼が桜の恋人だと気付いていた。桜がハッキリと言った訳ではないが、彼女の話す“彼氏”はどう聞いても同年代の高校生の話ではなかったし、生前の桜と一緒にいた時に、よく谷村の視線を感じていたのだ。
ーーそして谷村は、学園で不正を行っている者候補としてブラックリストに載っている。
「随分彼女にこだわるようですけど……」
白々しい谷村の言葉に、不快さを覚える。ぬけぬけと、よくも。担任である谷村だって、遥が水樹桜の妹だと知っているはずなのに。
「可愛い生徒だからな。あいつも――水樹も」
桜を死なせたことへの皮肉と、遥へ手出しするなと牽制して。
ふと、窓の外に、交差した校舎側の廊下で、遥が男子生徒と連れ立って歩いているのが見えた。一瞬、じり、と胸がうずくのを気付かないフリをして玲一は目をそらす。
(綺麗な子だから、……モテるだろうな)
遥は桜とは違うタイプだが、それでもかなりの美少女だ。
(……クソ。イラつく)
「もう……遅い」
一瞬、心を見透かされたのかと思った。玲一が谷村を見れば、彼は窓の外を見ている。先ほどまで玲一が見ていた遥のいた方角ーーその視線を辿れば、向かいの特別教室棟が見えた。
(遥……?)
ふと先程遥がついていった男子生徒を思い出す。確か三年の、問題ばかり起こしている連中の一人だ。彼らが向かっていった方向に気付く。桜が、連れ込まれた特別教室はどこだったって……?
「遥」
彼女の名を呟いたのは、反射だった。そして彼女の身に何が起こるのか悟って、一気にざあっと血が逆流するような感覚に襲われる。
「谷村……」
硬い声で、彼を呼べば、谷村は歪んだ笑みを浮かべて、繰り返した。
「もう、遅い」
一瞬でわき上がった怒りに目が、眩む。こいつは、また。
「――ッ!」
玲一は走り出した。
谷村に構っている暇はない。今は殴り飛ばす時間さえ惜しい。桜の死因を調べている遥は、当事者たちには目障りだろう。彼女に危険が迫っているのだと、今更気づいた。桜がされたように、もっとも手っ取り早く手ひどい方法で、口封じされる可能性があるのだと。
「……っ面倒くせ、俺のガラじゃねっての……」
ぼやきながらも足は止めない。少女の無事を願って。
「桜は、自殺なの?」
襲われかけていた遥を救った玲一だったが、彼女の問いに一瞬目を閉じる。床に倒されたまま、衣服の乱れすらそのままに、涙を流して茫然と呟く遥。
こんな彼女を見たかったんじゃない。
「桜ちゃんがいない。だから生きてる意味なんてない」
そんな言葉を聞きたかったんじゃない。遥。
「ああ、そうかよ。じゃあお前が自分を要らないなら、俺が好きにしてもいいよな」
絶望なんてするな。俺を見ろ。
玲一は何故か無性に腹立たしくて、遥の首に噛みつくようにキスする。
めちゃくちゃにしたい。けれど大事にもしたい。せめてこの想いだけでも伝わるように、唇に、指先に愛しさを込める。
「このままヤラれるつもり?」
玲一は手を止めて、遥に問う。
正直言えば、このまま抱いてしまいたい。遥の心と体に、自分の存在を刻んでしまいたい。
(俺を、見ろよ)
でも欲望を貫けば、この先ずっと遥の笑顔を見られないままだ。その方がキツい気がした。
「やだって言ったら、やめるの?……やめて、くれるの?」
やっと彼女が玲一を見た。遥に認識されたことに、玲一はかすかな喜びを感じる。
「今更止まらない」
そう、この熱は、多分もう止められない。ここで踏みとどまらなければ、どこまでも、遥に惹かれていく。
遥、お前が逃げるなら、追わない。これが、最後のチャンスだ。
「でもやめるよ」
そう言った玲一は、遥を見て虚を突かれた。
(笑ってる……)
遥は涙をこぼしながら、それでも笑っていた。その笑顔に見とれ、玲一は安堵した。
「冴木先生……私に理由をくれる?生きる理由……」
そう言った遥の瞳は、玲一へ縋るようで、彼はたまらない気持ちになる。
遥は玲一のキスを避けなかった。俺のために生きろという言葉に微笑んだ。
その笑顔の美しさに、玲一は期待する。自意識過剰でなければ、遥も玲一に惹かれている。恋人なら今まで何人かいたし、言い寄ってくる女はいくらでもいた。それぞれ上手くやってきた。けれどこんなに焦がれる気持ちは知らない。思春期の少年のように、どうしていいかわからずにもてあますような。彼女の視線一つで感情が左右されるような。
しかし遥は逃げない。それが答えなら。もう、堕ち続ける。止まらない、離さない。どこまでも、惹かれ続ける。
「で、続けていいの」
(……馬鹿だ、俺)
情けない顔をしている自覚はある。けれど遥は微笑んで、玲一へ唇をよせた。遥からのぎこちないキス。そんなもの一つで、驚くほど心臓が大きな音を立てた。
(ああ、もう馬鹿でもいい)
満たされていくのを感じながら、玲一は遥を抱いた。
後戻りは出来ない。ーーするつもりも、無かった。
ーーもう、この感情は誤摩化せない。見ないフリなんて出来ない。こんなにも心乱される存在は、他に知らない。
俺は、この子が好きなんだ。
遥に、恋をしている。




