昼下がりの保健室
ある晴れた日の昼休み。
「待って、ダメだよ……誰か来たら」
周りをはばかる小さな声が、自分に近付く恋人に囁く。
見られたら困るのは、ここが高校の保健室だからで。
カーテンを引いたベッドに押し倒されているのは女生徒で、その上に覆い被さってキスしているのは白衣を着た教師だから。
女生徒――高嶋遥は困惑の表情で咎める。
「ね、センセ?ダメだってば玲一……」
しかしその抵抗に力は入らない。
白衣の男は楽しそうに眼鏡を外して胸ポケットに仕舞った。
「あ、なんかちょっとクるね、このシチュエーション」
「あ、あのね、れーいち~?」
養護教諭の冴木玲一は、遥の抗議など意に介さずキスを繰り返した。
「最近邪魔が入ってばかりだからな。これくらい息抜きさせろよ」
微笑む彼に遥は甘い。頬を染めて、仕方ないな、と力を抜く。その様子に玲一が微笑んで、唇を寄せた。
「あ」
何が彼女を刺激したのか、遥が思わず首を仰け反らせた時、
「こんちはー冴木センセー!オレ腹痛くて、も~死にそー!」
盛大に扉を開け放って、入ってきた男子生徒がいた。
「またか……」
玲一はピクリと顔を上げた。遥に布団を被せて自分はカーテンから出る。
「死ねば」
玲一は乱入してきた男子生徒に、明らかに不機嫌な顔で、極めてシンプルな一言を吐き捨てた。
「ひでーな。教育者のセリフかそれ?」
男子生徒――松本拓海が呆れながら言う。
彼はきちんと扉を閉めてから、玲一と、カーテンから顔を覗かせた遥を一瞥して言う。
「神聖なる学びやでエロ三昧すんなよセンセー」
「羨ましいだろう、万年フラレ小僧」
「先生っ!」
すかさず切り返した玲一を、遥が真っ赤な顔をしてたしなめるように呼んだ。一方拓海は思いもよらない、いやある意味思い通りすぎる反撃に落ち込む。図星だったようだ。
「冴木先生の意地悪……」
「いや、お前の自爆だよね」
拓海が気を取り直して玲一に言う。
「だいたいさあ、俺が来てやってるからヘンな噂が立たずに済んでるんだろ」
遥は保健室に毎日入り浸りなのだ。早朝や、昼休み、放課後。いくら人目を忍んでいても限界がある。事情を知った拓海が保健委員になり、こうして遥と共に出入りすることで、『保健委員の仕事で呼ばれている』と周りに認識させているのは事実だ。
「そうね。ありがとう、松本君」
遥がにこりと微笑み、拓海に言った。拓海は照れた様子で遥に笑顔を向ける。
「いやあ、高嶋さんのためなら保健委員でも捕鯨委員でも、何でもやるよ!」
「別に松本君に、鯨の保護まで求めないよ……」
「礼なんかいらないよ遥。松本君は下心だらけなんだもんな~?」
玲一が冷たくあしらう。拓海は遥に憧れていて、何度となく振られながらも未だ諦めきれない身なのだ。言い当てられてぐ、と悔しそうにした拓海だったが、諦めたように溜め息をつく。
「にしても、本当に冴木先生は怖いもんなしだよな。校内でイチャつくなんて」
呆れ顔で続けた。
「あんたは職に未練なんてないかもしれないけど、バレた時被害を被るのは高嶋さんだぜ。退学とかさあ」
「ちょっと、松本君」
遥は慌てて拓海を止める。玲一はふん、と鼻を鳴らした。
「そんなことお前に言われるまでもない。生意気だね、松本のクセに」
「何?今の差別発言ッスか。オトナ気ないですね、教師のクセに」
拓海がニヤリと笑った。どうだ、刃向かってやったぞ。健吾に自慢してやろう。
しかし玲一の方が上手だった。
「……遥ぁ、今すぐキスしろ」
「すんませんっした!!俺の前でだけは止めて、先生!そんなん見せられたら立ち直れねぇよ!!」
男二人の争いなど耳に入らず、遥は考え込んでいた。
自分が思うよりずっと、玲一にとって私は足を引っ張る存在なのでは?確かにこれだけ玲一と居れば、二人の仲を疑う生徒も、少なくない。玲一はバレても良いなどと言うが、そうなった時、社会的に加害者として扱われるのは彼だ。
このまま一緒に居て、いいのかな。
傍にいると決めているけど。それがもし、彼のためにならないとしたら……。
簡単に答えは出てきそうになかった。
拓海が居なくなると、玲一が遥を呼んだ。
「遥、手出して」
言われるまま手のひらを向ければ、そこに銀色に光る鍵を乗せられる。
「玲一、これ……」
「俺の部屋の鍵」
「えっ」
言われた言葉に驚く。玲一と付き合い始めて半年近く経つが、彼の部屋に入ったことはなかった。保健室で毎日会っているし、夏休みも玲一は部活動をしている生徒のために出勤していたから、遥もそれに付き合っていて、外で会ったりなどはしていない。 “保健室の先生”だって色々忙しい。ましてや教師と生徒の恋愛なんて、
公に出来るわけもない。外で会えなくとも、遥は特にそれに不満を感じたことはなかった。
だって、『冴木先生』と出逢わなかったら、今私はここに居ないかもしれない。だから、保健室以外の場所があるなんて、思ってもみなかった。
思わず茫然と、鍵を見つめる。
「松本の言うことももっともだしな。バカだけど」
「これ、用意してくれてたの?」
遥の問いに、緩やかな笑みを返す玲一。
ああ、ほんとにこの人のこういうところが。
「かなわないなあ……」
呟く遥をクス、と笑って玲一が眺めた。少し意地悪に口の端を上げる。
「自宅なんかから出て来るの見られたら、それこそ言い逃れできないけどな」
思わず鍵を握りこんで隠してしまう遥を見て、彼は声を上げて笑った。
「そうなったらそうなったでもいいんだよ、遥チャン。お前はお前の望むようにすれば」
ポンと遥の頭に手をのせて、玲一が言う。
「俺が全部叶えてやるから。……可能な範囲で」
遥は胸が締め付けられる。このひとは、私を愛してくれてる。
「じゃあ早速行こうか」
玲一が立ち上がった。
「え?」
遥はキョトンと聞き返し、玲一の言葉の意味に気付く。
「いっ……今から?」
今日は土曜で午前授業だ。昼休みをとったところで、遥は部活もしていないから、確かに時間的には寄り道する余裕は充分あるが。
「一度行って見なきゃ、次から気兼ねなく来られないだろ」
玲一は首を傾げて言う。
「そう……かも」
いつか連れて行ってくれる、とか曖昧なものではなく、いきなり現実的になったことに遥は嬉しそうに頷いて、
「でも……制服はヤバいよね。私一回帰って着替え……」
もっと現実的な問題点に気付く。玲一はくすくすと笑って、言った。
「大丈夫、おいで。デートしよう」




