遥の痛み
次の日。遥がいつものように保健室から戻れば、クラスメイトの槙原ユミが、心配そうに聞いてきた。
「遥、大丈夫?貧血?」
さすがに毎日保健委員の仕事、と言えるわけもなく、遥は度々そう言っては、保健室に行く口実を作っていた。今日もユミは遥の体調が良くないと思ったようだ。彼女はクラス委員を務めるくらい、面倒見が良い。
ごめんね。
友達に嘘をついていることに罪悪感を感じる。
「ありがとう、大丈夫」
にこりと微笑めばユミも安心したようだ。
ちなみに一言でも遥が不調を訴えれば、家まで送って行くと立候補しそうだった男子共をぐるりと見回してざまあみろ、と思う。美少女な友人に付き添えるのは女子の友人の特権なのだ。
「次、教室移動だよ」
「え?嘘、そうだっけ。待って」
校内遭難しかけた前科を持つ遥は、慌ててユミについて行く。
「なんでここは無駄に広いのかな~……」
「遥まだ覚えられないの?」
隙のなさそうな美少女は案外うっかりなところもある。ギャップ可愛い。ブツブツ呟く遥を面白そうに眺めて、ユミは口を開いた。
「まあ仕方ないよ~。今でこそ普通の子もいるけど、ここは元々セレブとかが通うための学校だったらしいもん。未だに代議士の娘とか社長令息とかも多いしさ~。そのあたりの生徒や親から、綺麗で広い校舎がいいって希望があったり、専門授業のための教室もばんばん増やしたみたいよ。今じゃ有数の進学校だし、他の近隣高校に比べたらちょっと治外法権っぽいっしょ」
そう、だから遥も編入試験では大変な思いをしたのだ。
あの時は必死だったけど、よく編入できたと思う。
けれど、じゃあ。と、ここでふと疑問に思う。
そんなとこの理事長にスカウトされた冴木玲一って、何者なんだろう……。
しかも冴木先生ってば、理事長の話するとき、遠慮のかけらもないというか、たまに無礼を通り越して、もうあなたが王様ですか?みたいな態度だし。
実際に理事長と玲一が相対しているところは見たことがないが、多分本人に対してもあの調子なのだろう。狐呼ばわりするあの不遜さは、到底雇い主への態度とは思えない。
「今度聞いてみようかな……。いやでも知らないほうが幸せかも」
「遥~あ、何ブツブツ言ってんの~?」
ふと遥は、ユミがいつもは近寄らない上階に向かっていることに気付く。
「……」
急に自分の足が重くなったような気がした。
二階、三階……。
眉根を寄せて、ためらいながら、前を歩く友人に問い掛ける。
「ユミ、次の授業って……どこで?」
ユミは振り返って怪訝な顔をする。
「四階の第二視聴覚室だよ。知らなかった?」
「四階、の」
遥は足を止めた。一瞬でそれがどこのことか、認識した。
指先が震え出すのを止められない。息が、詰まる。
ユミが気付いて階段を戻って来た。
「遥、顔真っ白だよ!」
「あ……」
あの教室。桜が死ぬ直接の原因となった、場所。
遥自身も襲われかけた、あの教室。
「いや……」
こわい。
遥の背に冷たい汗が噴き出した。
事件後しばらくしてから、時折こんな風にどうしようもなく恐怖を感じることがあった。決まってそれは一人の時で、玲一の傍にいる間には感じなかった。だから忘れかけていたのに……。
「……っ」
息苦しい。視界がどんどん白くなっていく。
「……っ、は」
自分が過呼吸を起こしかけているのに気付くが、コントロールできない。
「遥!」
冴木センセ……。
目の前が真っ白になり、崩れ落ちた瞬間――力強い腕が彼女を支えた。
「大丈夫か。ゆっくり息しろ。あんまり深く吸うな」
「冴木センセ……?」
その声に、一気に気が抜ける。見えない視界の中、縋りつくように彼の白衣の袖を掴んだ。彼女の様子を見ていた誰かが呼んでくれたようだ。ユミは、テンパってオロオロと遥と玲一を見る。玲一は女子生徒の手元を見た。
「槙原、その紙袋貸して」
「え?え?これお菓子だよ、先生。え?食べるの?」
「中身はいらない」
混乱している彼女に構わず、ばらばらと中身を出して、空き袋だけを受け取る。
「それより冴木先生~!どうしよ、遥が~っ!いや~死なないで遥ぁぁ~!」
ユミ……なんか凄いこと言ってる……。
遥の頭の隅はいやに冷静だ。過呼吸は初めてではない。時間が経てば治ることも知っている。けれど、ひどく苦しい。玲一はユミから貰った紙袋で、遥に二酸化炭素を吸引させようとする。
「は……高嶋、これ吸えるか?」
しかし彼女はうまく力が入らずに、くたりとするだけで。ユミが血相を変えた。
「は、遥ーー!?」
「槙原、お前ちょっと落ち着け。んで授業行きなさい。こっちは大丈夫だから」
「だって先生、遥が!!死んじゃう!」
「死なない。ね、先生に任せて下さい。……ここじゃ落ち着かねぇな」
玲一はユミを促して、遥を抱き上げた。
騒ぎに寄ってきたまわりの女子からきゃあ、と小さく歓声のような悲鳴のような声があがるが、遥にも玲一にも気にする余裕はない。遥を抱いたまま、玲一は足早に保健室へ向かう。
「あ~もう無駄に広いんだよ、ココはっ……」
先程の遥が同じ呟きを漏らしていたとは知らず、玲一は舌打ちする。目的地へ着くと、構わずに長い脚でドアを蹴り開け、ベッドへそっと遥を下ろした。
遥は額に汗を浮かべ、ここへ来るまでにグッタリと意識を失ったままで、蒼白な顔が痛々しい。
遥があの事件にトラウマを抱えていたのは気付いていた。だからこそ水瀬に診せたというのに。
水瀬にも言われているように、ゆっくり時間をかけて癒やしてやるしかない、と思っていたが……。しかし実際苦しんでいる彼女を見れば、何もしてやれないのが歯がゆかった。
額にべったりと張り付いた髪をよけてやると、遥がうっすらと目を開ける。
「遥……」
玲一が呼ぶと、遥は一瞬びくりと震えた。視界に彼を認めると安心したように微笑む。目元が潤んだ。
「冴木センセ……」
どうにか、してやりたいのに。
伸ばされた指を絡めとって、玲一は溜め息を吐く。
「遥、俺を信じる?」




