くもりのち、雨。
ぱっとしない日だ、と思った。
窓の外から聞こえてくる野球部のかけ声も、向かいのガソリンスタンドのお兄さんの接客も、なんだかすべてがぱっとしない。いつものうるさいほどの生気はどこへ行ってしまったのか。空が、朝からずっとぐずってるせいだ、とカーテンに手をかけながら独り言ちる。どんより鉛色の雲がこの町を覆って、どちらの方角へ行こうか決めかねているかのようにずっと留まっている。そのくせ、雨は降らない。
いっそ、気が済むまで雨を降らせばいいのに。
梨香はレースのカーテンを閉めながら、恨めし気に心の中でつぶやいた。
梅雨は嫌いではない。雨の中で咲く紫陽花や花菖蒲の花たちは、露をまとって気品を漂わせる。傘を不規則にたたく雨の音は、子守歌みたいに優しく鼓膜を揺らす。
だけど。
雨が降らない曇りの日は、夏のカンカン照りに晴れた日よりも恨めしい。小鳥たちは不安げに今にも泣きだしそうな声で鳴くし、持ち出された傘は使命を果たせないまま、どこかに置き忘れられる。あっちの人もこっちの人も、だらしなく猫背になって無機質なコンクリートの地面と会話して、誰も目も合わせようとしない。こんな日は、ひとりぼっちの自分がひどく無意味な物質の集合体のように感じられて、鳥たちと一緒に啼きたくなる。だから、曇りの日はキライ。
梨香はレンタル屋で借りてきたCDをオーディオにかけて、窓辺から離れたソファに腰を下ろした。
ここのところ仕事の取引先との食事会やら大して親しくもない知り合いの誕生日会やらで忙しくて、家に帰っても寝るだけの毎日だった。だからこの週末は一人でゆっくり過ごそうとずいぶん前から心に決め、昨日レンタル屋でDVDとCDを二枚ずつ借りてきたのだ。どうせ外に出てもつまらないんだから、それなら家の中で空想の世界に浸っていたほうが有意義だ。
CDのうち一枚は最近流行っているバンドの新作アルバム。友人いわく、ハスキーで絶妙な低音ボイスのボーカルがこのバンドのウリらしい。しつこく勧められて、それほど言うならばと思い借りてはみたものの聞く気になれず、結局こっちは後回しだ。
スピーカーから空気を伝って肌に触れるメロディは、優しく梨香の頬を撫でる風のように心地よい。ブームが去って、今や一昔前の人となってしまった中年歌手の奏でる音楽はどこか哀愁を纏っているが、それでも、梨香にはハスキーな絶妙低音ボイスよりもずっと素敵に感じられた。
しばらくは本でも読もう。
読みかけの文庫本に手を伸ばしふせんの挟まったページを開いてみるが、長いこと読みかけで放置してあったせいで、どこまで読んだのか全く思い出せない。しかたないのでもう一度最初から読み返すことに決め、表題のページに戻った。
こりゃあ、読み終わるころにはお昼過ぎてるな。と思いつつ、もうひとつページをめくる。中年歌手は、もうすぐ一曲目のサビを奏でようとしていた。
* * *
ザーッという地面をたたく音で、はっと我に返る。気づけば窓の外はもやに覆われ、ほとんど黒に近い分厚い雲が太陽光を遮断していた。
――雨だ。梨香は読んでいた本にふせんを挟み、カーテンを開けた。
マンションの裏にある小さな公園では、突然の雨にあわてる子供たちが我先にと公園を飛び出す。 野球部の練習は終わったのだろうか。公園の奥、中学校のグラウンドはすでに雨を受けるだけの広大な大地と化している。 自分の目的地を知っているかのように、勢いを伴ってまっすぐ地面に落ちる雨はあっという間に亜麻色のグラウンドを褐色に、灰色のコンクリートを黒に染めていく。
窓越しでも分かる。このガラス一枚の向こう側は、ひんやり冷たい空気が支配しているに違いない。あぁ、と梨香はうっとり目を閉じる。早くこのガラス窓を開けて雨のかおりを肺いっぱいに吸い込みたい衝動にかられる。 きっと雨がつれてきた冷ややかな空気は肺からじんわりと体中に染み渡って、私の体温を奪うだろう。
知らず知らずのうちに吸い込んでいた空気を吐き出して、梨香はカーテンを閉めた。
そこで、スピーカーの中の中年歌手がアルバムの9曲目をたった今歌い終えたことに気付く。アコースティックギターの伴奏のやさしい音色が、少しずつ静かになって消える。 やっぱり、いい歌手だ。と梨香は思う。40分近く読書の裏で流れていたのに全く気に障らなかった。なのに、こうして耳を澄ましてみれば確かな存在感をもつ音を奏でる。 聴者に聞くことを無理強いしない音。それは、なにかの音によく似ていると思う。それが何の音だったか、梨香には思い出せない。
まぁいいや。とりあえず、外に出よう。せっかく雨が降ったのだから。
オーディオの停止ボタンを押して、壁にひっかけてあった薄手のカーディガンを羽織る。玄関に立てかけてある数種類の傘の中から、透明のビニール傘をつかみドアを開けた。 瞬間、つんと雨のにおいが鼻の奥に広がる。サンダルから覗く足に跳ね返った雨粒は、驚くほどに冷たい。それでも全然嫌じゃなかった。まるで世界のぜんぶが私を誘う甘美な誘惑のようだ。 行く先など決まっているはずもないのに、より心地よく雨を感じられる場所を目指して足がひとりでに動いていた。
ばたたたた、たたん、たたた。ビニール傘に反響する不規則なリズムが、傘のはじきから手のひらに伝わる。 こんなに近くで感じているのに、いくつになってもそのリズムをつかめない自分を、梨香はもどかしいと思う。しかし同時に、誰にもつかめないこのリズムが好きだとも思う。誰にも、何にも媚びない音。 リズムはつかめなくても、傘をさして目的もないまま歩く自分が、そのときだけは誰よりもこの音の近くにいる気がした。
やっぱり、ひとりぼっちの休日は雨が一番だ。今日はこのままずっと、私が眠りにつくまで雨が降ればいい。
そう考える自分を、ちょっとおかしな女みたいだと小さく嘲笑して、濡れたヒールを鳴らす。まだ時計は12時を過ぎたばかり。ひとりぼっちの休日は始まったところなのだ。