骨折り男と森の少女
一
骨を折る仕事をしている。文字通りの意味だ。死んだ人間の骨を、この腕でぽきりと真っ二つにする。折るのはほとんどが大腿骨だ。股から膝にかけて伸びているやつで、しなやかな長さと鋭い堅さを持っている。ちょっと手を加えればそれなりの武器になりそうなそれの切断を、私は生業にしていた。どんな職業であれ、需要さえあれば成立する。これはどの国にも共通して言えることである。
仕事はいつも、私の住む町から離れたところで行なっている。とある森の奥深く、誰にも見つからない洞窟の中だ。この仕事は少し厄介なもので、仕事をしているところを誰かに見られるのは非常に具合が悪い。だからそんな辺境までわざわざ、荷車を引いて一人でやってくるわけだ。その荷車には骨がこんもりと積もっている。骨の一本一本には、依頼者の名前が書かれた小さい紙が糊付けされている。タイヤが石につまずくたびに、積まれた骨は不気味な音を立てる。軽くてバランスのとりにくい代物なので、よく何本かが地面に落ちたりする。町から洞窟までおよそ一時間半。移動にはひどく手間がかかるものだ。もうかなり慣れてきたものの、それでもときどき、仕事前にもかかわらずうんざりしてしまうことがあった。
この森に、生き物は生息していない。存在するのは見事に生い茂った自然のみだ。どの時間に訪れても、鳥の声一つ聞こえることがない。動物たちの、名状しがたいうなり声もまったく耳にできない。だからこそ落ち着いて仕事に専念できるわけなのだが、こうなっているのにはきちんとした理由があった。
それは毒だ。森を漂う空気には、生物を死に導く致命的な毒素が含まれており、ここで生存することは不可能となっている。植物も毒を有しており、触れればそれだけで全身が蝕まれ、一瞬と言っていいほどの短時間で絶命してしまう。どうしてこの森に、この森だけに毒が漂っているのか。その理由は明らかになっていない。古くからそうだったようで、言い伝えにも残されている。「壁の町から南方六ネーセスに歩いた先にある、呪われた森。ここは生き物の生きられない土地である。ここを取り巻く空気を吸い込んだ途端、体は紫色となり、目は黄色くなり、脳は蝕まれる」(壁の町は私の住んでいる町で、セーネスというのは距離の単位だ)
だから、ここに来る前に、私は完全防備の体勢を整えておく。空気を口に入れないために、未開人がつけているような鈍色のマスクを着用する。腕や足などに毒が付着しないように、一切のものを通さない丈夫なぶかぶかの防護服を着る。どちらも森に来るにあたって、懇意にしている技術者に特別に作らせたものだ。これらを身につけて、荷車を引きながら洞窟まで歩いてくる。とくに障害があるというわけではないのだが、常に死が隣に待ち構えているために体がこわばり、無駄に疲れてしまう。
どうしてそこまでしてここに来なければならないのだろう。このことを考えたとき、いつも理由として思い浮かぶのが、一人の少女だった。
彼女はこの「呪われた森」に住んでいた。おそらくは世界で唯一、毒を無効化できる人間であろう。ボロボロの白いワンピースを着ており、素足をいつもさらけ出している。金髪の髪を伸ばしっぱなしにして、体のいろんなところが汚れている。見たところ、十二、三歳あたりであろうか。私が仕事をしている最中や、仕事が終わって一休みしているところへ、彼女は毎回のようにやってくるのだ。鈍色のマスクとぶかぶかの服を着た私を見てもの珍しそうな表情を浮かべる。謎めいた行き来をしながら私に近寄り、そしてこう口にするのだった。
「トモダチ」
彼女がここでどういった生活をして、どんなものを食べているのかは想像するしかない。毒を無効化できるのであれば、森に実っている果物でも摘んで食べているのだろう。彼女は言葉をほとんど話せず、私が何か質問をしても答えない。ただ、すました顔で、ときには痛切に訴えるような目つきで、「トモダチ」と言う。それ以外の言葉を彼女が話しているところを、少なくとも私は見たことがなかった。
骨を美しく折るためにはちょっとした準備が必要となる。
まず、頭の中の雑念をすべて振り払う。そして、両手に握った一本の骨を見つめる。ここだと思ったところで、ほんのちょっと、くっと力を入れる。何も考えなくていい。ただそれだけで、骨はいとも簡単に二つに裂かれることになる。骨というのは誰にでも折ることのできるものなのだが、私のように、「さほど力を必要とせずに」折ることのできる者は、おそらく少ないのではないだろうか。だからこそこの仕事が成り立っているわけなのだが。
しかし、雑念を払うときに少しでも精神が乱れてしまうと、もうその日は仕事ができなくなってしまう。それくらいこの仕事は繊細なものなのだ。そしてとても濃密に進められる。一時間ごとに休憩、というわけにはいかず、一度始めたら最後まで通さなければならない。途中で損ねてしまえば、もはやどうにもすることもできず、ただあきらめて次の日に仕事を回すしかないのだ。それが恵まれた能力に対する唯一の欠点である。
少女の存在は、そんな仕事をする私にとって、少なからず負担となっていた。とくに初めのころはそうだった。さあ仕事を始めよう、あるいは、骨を前にして集中しようとするときに、まるで狙ったかのように彼女はやって来た。それでその日は何もできないまま、とぼとぼと町に帰ることになってしまうのだ。それは私をかなり困らせていた。ときには三日連続で仕事のできないときがあったりもした。さすがにそのときは気分を害したものだ。彼女にもつらく当たってしまったかもしれない。ほとんど言葉がわからないとはいえ、感情は人並みに有しているはずだ。つらく当たられれば不快な気持ちになるのは当然であろう。そういうことがあったあと、私は彼女に謝った。それで許してくれたのだろうか、少女は今まで以上に私になつくことになった。私の背中によりかかったり、うずたかく積まれた骨の山をいじくったりした。そして、私の仕事のことを理解するようになり、仕事中に彼女が姿を見せるようなことはかなり減った。
他の作業場を見つけてそこに落ち着く、という選択はもう私にはなかった。その理由はすべてあの少女にあった。私は彼女のもとを離れたくなかったのだ。彼女の「トモダチ」という弱々しい声。そんな声を聞いてしまったら、もうどうすることもできないではないか? 彼女がその言葉の意味をわかっているかどうかは疑問だが、それだけを覚えており、連呼しているということは、彼女にとってよほど大事な言葉なのだろう(あるいは、だったのだろう)と思う。それを私は無視できず、まるである看護師と話したいがために、とくに理由もなく病院に通い詰めるような感じで、この森に囚われてしまったのだった。
そんな生活は、危険がいつもそばに控えているとはいえ、楽しくて幸せなものだった。昔から友人の少ない私にとって、彼女の存在はとても大きかったのだ。町に帰ったところで、待っているのは顧客とのビジネスライクな会話と、ほとんど何も置かれていない自宅だけだ。何人かの商人たちとときどき料亭に食べに行ったりはするが、仕事が忙しくなるにつれ、その付き合いもだんだん減っている。そのときには幸福な気持ちでいられるが、あとになってふと自分が一人なのだと実感したとき、言いようのない絶望に襲われる。そんな日々の中で、私を必ず待ってくれているこの少女は、私にとって救いと言ってもいいくらいの大事な存在であった。
少女は日に日に成長を見せていた。私の仕事を手真似でやってみたり、荷車を引くのを手伝ってくれたりした。話しかけた際の反応もどんどん豊かになっていった。表情も出会ったときに比べて何倍にも生き生きとしてきた。彼女はこの森で、長く一人で生活していたのだ。そのせいで、本来の少女らしい輝きを失っていたのだろう。それがみるみる回復していくさまを見るのは私としてもうれしかった。ここに来て良かったとそのときに思うのだった。
しかし、彼女について知っていることはほとんどなかった。名前は何なのか、かつてどこに住んでいたのか。両親は生きているのか、そしてどういう経緯でここへとやって来たのか。彼女に出会ってからもう半年は経つであろうが、未だに多くの謎が残っていた。
彼女がどうしても町に行きたがらないというのも謎の一つだった。ここを去るとき、森の途中までは私についてくるのだが、そろそろ木々の茂みが終わろうというところで、毎回彼女は立ち止まってしまう。そこから先は、まるで見えない壁が彼女を遮っているかのように、決して進もうとしないのだ。それがどういう意味を持っているのか、私にはわからない。原因が彼女自身にあるのか、それとも町にあるのか。あるいはどちらもが複雑に関連しているのか。彼女に問いかけようと試みるのだが、返ってくるのはいつも、もう何度目になるかわからない、たった四文字の言葉のみであった。
二
私の住む町は、周りを高い壁に囲まれている。毒が入ってこないようにするためだ。毒は夜から朝にかけて、呪われた森から流れてくる。森と町は遠く隔たれているのだが、自然が織り成す空気の流れがそういった事態を招いているのだ。陽が沈んで二時間ほど経つと毒はやってきて、朝日が昇るころには綺麗になくなっている。その間、町の門は堅く閉ざされて、一切の出入りが禁じられている。そして太陽が朝の光を投げ込むとき、ベッドから落ちて目を覚ますまぬけな大男みたいにして、門は大きな口を開けるのだった。
毒の含まれた空気は重く、地表を這うようにして流れてくる。よって壁はそれほど高くはなくてもよい。しかし何が起こるかわからないので、町の壁は万全を期して相当高く造られているようだった。この壁がなかったら、明日にはもう町の住人のほとんどは死んでしまうだろう。高台に家を構えている人はどうにか生き残るかもしれないが、町が死ぬという意味において、少数の人々が無事でいるというのはそれほど重要ではない。
そんな事情があって、この町は他の町と孤立している。しかし、そのおかげで町は独自の発展を遂げていった。絶妙に工夫された数々の商売が生まれ、広場は昼ごろになると戸棚をひっくり返したような賑わいを見せるのだ。町と町を移動する仕事も誕生し、彼らのおかげで他の町との交流も増えつつある。危険なのは夜だけで、昼間はまったく問題ないという事実が、他の地域に認知されていったのだ。そうしてこの町は、古くからの伝統を守りながらも近代的な技術も取り入れた独自の風習を持った町へと変化していった。
森に近づくなというのは昔から言われていることだった。接近すれば毒にやられてしまうし、先祖代々その森には神様が住んでいる場所だと考えられていたからだった。いつごろから毒が発生しだしたのかははっきりしないが、何世代も前から森への立ち入りを禁止していたことは確かである。そういうこともあって、私がその森に出入りしていることは、親しくしている人たちも含め、誰にも言うことはできなかった。
私がこの町に住むようになったのは、ちょうど十八の誕生日を迎えた日からだった。別のとある町に住んでいた私とその家族は、かなり貧しい日々を過ごしていた。毎日のわずかな稼ぎに悪戦苦闘する日々。父の仕事だけではとても間に合わなかったので、私も十二の歳から働きはじめていた。町の商人のところに行って、犬のようにこき使われたのを今でも覚えている。私はだんだんとその町から出ようと思いはじめていた。調べてみると、その町は国の中でもとびきり貧困な町だという。そこで、他の町にどうにかして移住し、新しい地で豊かな生活を手に入れてみせると意気込んでいたのだった。
当時の流行り病や、長時間労働による過労死などもあり、私の家族は次々に倒れていった。体の弱かった姉がまず亡くなり、あとを追うようにして母も死んでしまった。その何年かあとに父がついに倒れてしまうと、残されたのは私と一人の妹だけになっていた。それからしばらくは私の稼ぎで何とか食いつないでいたが、私が十八になる二週間前、今年で十五になるはずだった妹が病気で亡くなった。家族は全員いなくなってしまい、ついに私一人だけになってしまった。そこで私は思い切って、こっそりと町を抜けだし、今住んでいる町に来た、というわけだ。
町はどこでもよかった。ただ、身分を偽るときに、「壁の町」がかなり便利なところだっただけだ。毒の影響もあり、町の人口はかなり少ない。とても緩い条件で移民として受け入れられたので、好都合だったのだ。
そこに私は住居を借りて、生活を始めることとなった。初めのうちは子供からの経験を活かして商人の手伝いをしていたのだが、それでは昔と変わらないではないかと思いはじめてきた。それに、嫌な顔をした人間に従ったり、彼らに怒鳴られたりするのもたくさんだった。そこで、何か新しいことを始めようかという気になったのだ。それが「骨折り稼業」だった、というわけだ。
この国では昔から、死んだ者の骨を折るという慣習があった。大腿骨や上腕骨など、まっすぐで長いものを二つに割って、片方を死体の入った柩に戻し、もう片方を親族がもらい受ける。そうすることで死者は親しい者たちとの結びつきを失わずにいられることができ、死後の世界を極楽に過ごすことができる。加えて、折られた骨がお守りの役目も果たし、病気などの苦難から逃れることができる。この国にしかない特有の伝統であって、人々は今も頑なにそれに従っていた。無論、私も例外ではない。
以前から、骨を折る役目は親族のものだと考えられてきた。それが当然のことと思われてきた。だが、時代が進むにつれて、この作業が億劫になる人が増えてきてしまった。より美しく、均等に、要領よく折られた骨が最も良いとされているのだが、面倒な人は手と足を使って荒々しく折ってみせたり、何のためらいもなく何か堅いものにでもぶつけて折ったりする人間が増加した。また、折られる骨は長ければ長いほど良いと昔から言われているのだが、その言われがだんだん無視されはじめて、ただまっすぐという条件だけを満たしている、比較的折ることがたやすい指骨ばかりが折られるようになった。骨を折る作業というのは、常人にとってみればかなりの苦労が必要なのだ。
また、各地方からさまざまな文化が入りこんでいくにつれて、人々の思想も変化しつつある。伝統を重んじるとはいえ、それには限界があったのだ。若者はそんな伝統はあまり重要視しない。骨を折るということが何だか妙なもののように感じてしまう。そうして、あまりやりたくはないが、伝統だということで、とりあえず簡単に済ませておこう……。こういう傾向を持つ者が近年になってどんどん増えていった。言い伝えを後世に伝える年寄り連中などはもちろん我慢がならない。もっとまじめにやれ、大きな骨を折れ、と叫びつづける。
そこで私の登場である。私はなぜだかわからないが、昔から骨を折ることが得意であった。誰よりも美しく、均等に、要領よく折ることができた。家族を埋葬するときにも、私があまりに美しく骨を折ったものだから、それを見た人たちはずいぶんと驚いていたのを思いだす。綺麗に折れた骨というのは誰からも喜ばれるもので、このビジネスは見事に成功したのだった。ただ、他人に骨折りを任せるというのは当然のことながら伝統に反しているので、いわば裏の世界でこの仕事が行なわれることとなった。初めのうちは注文数も少ないものだったが、有名になるにつれて依頼は増加していった。慣習に反しているという後を引く思いがあるにはあったが、助かった、君のおかげで僕は救われる、と礼を言う人々の笑顔を見たときには、そのような背徳感はすっかり失われてしまうのだった。
あるとき、私は奇妙な注文を受けることになる。自分が死んだら、自分の骨を折ってその片方をもらってくれないか、というものだ。依頼者は老人の男性だった。杖をつき、腰は曲がり、頭は見事に禿げている。だが目つきは鋭く、数々の修羅場を乗り越えてきた強靭さが感じられる人物だった。
「私には家族がおらん」とその老人は言った。私の事務所に入ってきてすぐの言葉だ。そのあとで彼はゆっくりとソファーに腰を下ろした。「何年も前に、私のもとを離れてしまったのだ。どこかでまだ生きているのかもしれんが、探すのも面倒でな。あんたが骨をもらってくれれば、私としてはそれで満足なんだよ。伝統にはやや反しているかもしれんがな」
私はコーヒーを二つ作って、テーブルに置いた。それから老人の向かいに静かに座った。
「親族の身元がわからない場合、第三者の手に骨を委ねるというのは、昔からたびたび行なわれてきていることです。いわば暗黙的に。ですので、その行為の良し悪しというのは簡単には決められるものではありません」
「そうだな」と老人は重々しくうなずいた。
「ですが」と私は続ける。「どうして私なのでしょう? なぜ、あなたとは初対面であるはずの私が、そのような頼みを受けることになるのでしょうか? 依頼を引き受ける引き受けないという問題は置いておいて、まずはその決意に至った理由をお伺いしたいのですが」
「うむ」と彼は言って、コーヒーを一口飲んだ。しばらく口に含んだコーヒーの味を堪能する。喉を通ったところで、彼は話を始めた。
「それはな、私には仲の良い友人というものが、これといって存在しておらんからだ。そういう人があるのなら迷いなくそいつに頼むのだろうが、残念なことに今はもういなくなってしまった。……一人、親友と呼んでもよさそうな男がいたのだが、彼は数年前に死んでしまってな。それ以来、私は新しい人々との交流をまったく持たなかった。孤独に時間を潰して、そうして今に至っている。だから、骨をもらい受けるよう頼めるような人物はおらんのだ。この理由がまず一つ」
「それだけでは、私に頼む理由にはなっていません」
「もちろん。理由は他にもある」と老人は再びコーヒーに手を伸ばした。何か重大な話をする際、儀式的にコーヒーを口に含む癖が、どうやら彼にはあるらしい。
「あんたがこの仕事を始めたきっかけというのは、一体何だったのだろう? どういういきさつがあって、あんたは骨を折る仕事をするようになったのか? お主の折った骨というのは、かつて見たことのないほどの芸術的な価値を持っておると噂には聞く。それには何かしらの秘密めいた技術が使われておるのだろう。しかし、それが自然発生的に生まれたものだとは、私にはどうしても思えんのだ。この仕事をする男というのは、もしかしたら過去に、骨にまつわる、もっと意味を広げれば人間に関わる、相当に深い傷というものを負ったのではないだろうか? だから、その傷を、いわば癒すために、骨を折りつづけているのではないだろうか? 私はこう考えた。そんな男なら、おそらくは信用ができる。自分と似た痛みを抱えているから、頼ることができる。だから私は、このような奇妙な依頼を持ってあんたのところへやって来たのだ」
私は老人をじっと見つめていた。彼も私も、負っている傷はおそらく同じものなのだろう。彼も私も、経過は違えどどちらも家族を失っている。それも、自分の力では変えることのできない不条理な理由によって。依頼をどうするかという決定は、私の中ですでに済まされていた。
「わかりました。今回はその依頼を引き受けることにしましょう。手続きがありますので、もうしばらく待っていてください」
「よかった」と老人は深く息をついた。「しかし、あんたならきっと承諾してくれるだろうと思っていたよ」
私は何枚かの書類を事務机から出して、老人に渡した。契約書の文面を、老人は思い切り顔を近づけて読んでいる。よほどの近視なのだろう。しかし眼鏡はつけないようだ。時間がかかったが、最後に彼は、ペンで書類にサインをした。それから、名前やら住所やらの情報を別の書類に書いていく。彼の家はここからさほど離れていないところにあるらしかった。
「では契約通り、明日からあなたの家を訪ねさせていただきます。時間の指定やその他の要望などはありますか? できる限りあなたの方に都合を合わせますが」
「あんたの好きな時間に訪ねてきてくれて大丈夫だ。どうせ家からあまり出ないしな」
「そうですか」
こうして契約は完了した。彼はコーヒーを飲み干して立ちあがる(彼は契約をするあいだに二杯のおかわりをした)。しかるべき金額を払い、事務所から出ていこうとした。その手前で彼はふと立ち止まる。背後に立つ私の方に顔を向けたあと、彼は右のズボンのポケットをいじりはじめた。何だろう、としばらく見守っていると、ポケットから何かが取り出される。大事そうに見つめたあと、彼はそれを私に差し出してきた。
「これを、受け取ってくれんか」
それはペンダントだった。彼のものではおそらくない。明らかに女性が身につけるような代物だからだ。丸く磨かれたエメラルドが穏やかな光を発し、それを包み込むようにして小さい宝石の欠片が周りに散りばめられている。この色は私を惹きつけた。老人に渡されたあとも、私は自分の手に乗せられたペンダントから目が離せなかった。まるで生まれて初めて流れ星を目撃したみたいな驚きがあった。
「これは?」と私は老人に質問をする。その声はどこか別の場所から発されたもののように思えた。
「これはな、かつての家族が唯一残していったものだ」と彼は言った。「今から十二、三年前、孫の生誕に合わせてオーダーメイドで作らせた。どういうわけか、出ていった家族はこれを忘れていってしまったのだ……。私に残された最後の彼らとの繋がり、とも言えるだろう。取りに戻ってくるかとも思ったのだが、結局家族は私のもとへは戻らなかった」
老人はそこで一息ついた。
「無論、売ってしまっても構わない。見た目ではわからんかもしれないが、かなり価値のあるものだからな。この手のものを集める輩にとっては至高の一品だろう、とくに今の時期は狙い目だ。その判断はあんたに任せる。
だが――もし気が変わって、そして私のことを少しでも思いだしてくれるならば、どうか私の代わりに、行方不明の家族のもとへこれを届けてやってほしい。もうほとんど動けなくなった私の意志を受け継いでほしい」
老人はそれだけを話してしまうと、音を立てずに事務所から出ていった。私はしばらくその場から動けなかった。私の手に収まっているペンダントは一段と重みを増したようでもある。それは単なる気分的な差異からもたらされる架空の重みではないような気がした。ペンダントは実際に、彼の思いを受けて重くなったのだ。
私はそれを机にしまった。そしてこれからどうしようかと考えあぐねた。そのせいで、これから予定していた書類整理の仕事は、正直なところ、まったく進めることができなかった。
三
翌日になって気づいたことだが、老人の顔つきは、どこかで見たような覚えがあった。もちろん、彼とは完全に初対面だ。だが、私の知る誰かと顔のつくりが似ているような、何かと何かが脳の中で一致しているような、そんな感覚に私は陥ることになった。
それは朝、老人の家を訪ねたときに一層強くなった。彼はすやすやと眠っていたが、その寝顔は私に何かを思いださせるようだった。詳しく、正確にどこと指摘はできないのだが、何かを想起させる。それはまさに、目的のものはすぐ近くにあるのだが、手を伸ばすとひょいと避けてしまうもどかしさと一致していた。
こんなことがあったあと、私はいつものように森へと向かった。未開人がつけているような鈍色のマスクと一切のものを通さない丈夫なぶかぶかの防護服を身につけ、せっせと荷車を引いていく。ようやく朝の日射しが地表を照らしはじめるような時間帯だ。町の門が開くとほぼ同時に出発することにしている。でないと、いろいろと面倒だからだ。誰かに尾行されて呼び止められることが起こる可能性があるし、なるべく自分のこの格好を他人に見られたくない。荷車にしても、一応布をかぶせて見えなくしてはいるが、いつそれがはだけて中のものが露出してしまうかわからない。用心には用心を重ねるべきだ。
一、二時間歩いて、森の奥の洞窟に辿り着く。荷車を停止させて、その場にどっかりと腰を下ろす。一度呼吸を整える必要がありそうだった。ここまで来た疲れもあるし、それ以外の、いわば精神的な疲れもある。深呼吸をしながら、自分が落ち着いていくのを確かめていった。
呼吸が安定したところで、私は骨を一本持った。依頼された骨の中ではわりに長くて立派なものだ。若くして死んでしまったのかもしれない。私は目をつぶって集中し、ここだと思ったところで力を入れた。骨は簡単に二つに割れた。
私は次々と骨を折っていく。おおよそ、三分で一本の割合だ。休憩なしで最後まで行なわれることになり、だいたい二時間ほどでその日の仕事は終わることになる。なぜか私は、一日に骨を三十本ほどまでしか折ることができないのだ。それ以上はもう精神が持たず、うまくこなすことができなくなってしまう。だから、毎日そのくらいの時間で仕事が終了することになっていた。
それ以外の時間は、書類を制作したり、懇意にしている商人たちのところに顔を出したり、散歩をしたりする。午前中にはもう主要な仕事は片づいてしまう。他の仕事に比べて空白の時間が多くなってしまうのは、ある意味では仕方のないことだった。特殊な能力を必要とするものは、無制限に酷使することができない。無理をしてしまえば、途端にその能力がなくなってしまう危険性がある。
仕事が終わるまで、少女は姿を見せなかったようだ(なぜなら、三十本が終わるまで、集中は途切れることがなかったから)。私は彼女を待つために、もうしばらく洞窟内でのんびり座っていることにした。
何十分かが経ったあとで彼女はやって来た。
最初、彼女は洞窟の影からちょこんと顔をのぞかせるだけだった。私が仕事中でないことがわかると、彼女は喜びに微笑みながら近づいてきた。服装はいつもと変わらない。数ヵ所に汚れのあるワンピース。靴は履いていない。裸の足を元気に動かしながら、とたとたと走ってくる。その光景は見ていて微笑ましい。
金色の髪は、走るときに綺麗な波を描く。残像がいつまでもそこに残り、それらが連結して一本の川の流れとなっていく。光の川だ。彼女はそのような美しさを尾のように引きながら、私の後ろへと回った。そこには骨の積まれた荷車がある。彼女は荷車から一本の骨を抜き取って、私の横に座りこんだ。体がとても軽いのか、座るときに音をほとんど出さなかった。
そうして、私の真似をして、神妙な顔つきで目をつぶる。三十秒ほどじっと何かを待って、突然目をかっと見開く。握った骨に力を入れているのがわかる。しかし、彼女には私のような能力は具わっておらず、しかも少女一人の力であるので、骨はびくともしなかった。残念そうに、彼女は私を見る。それに対して私はにっこりと笑みを返した。
彼女はだいたいそういう遊びを、ここに来て行なっている。彼女自身がとても楽しんでいるようなので、私は何も言わない。だいたい、それで何か迷惑になるというようなことはないのだ。この女の子の幸福そうな表情を見ているだけで、私としては満足だ。それ以上のことは何も望まない。ただ眺めているだけで、こちらも幸せになってくる。
太陽が高く昇りつめ、そろそろ帰ろうかという時間になる。そこで私は、意を決してポケットの中からペンダントを取り出した。もしかすると、彼女が老人の孫娘なのではないかと思っていたからだ。二人は、どこがとはきちんと言えないのだが、何となく似ている。朝の時点では気づかなかったが、今彼女と話していて、ようやくそのことを確信できたのだった。「これに、見覚えはないだろうか?」と私は率直に訊ねてみた。
ペンダントを渡された少女は、何とも言いがたい複雑な表情を浮かべていた。同世代の少年から、宝物だと言われて気味の悪い昆虫を渡されたときのような顔をしている。彼女はそれをじっと見つめているのだが、果たして本当に目の前のものを見ているのかどうかは疑問だ。目に映ったものではないどこかを丹念に見定めているような雰囲気が彼女にあった。
最終的に彼女は首を横に振った。それはあらゆる反論をはねのける断固とした否定だった。彼女はこのペンダントの持ち主ではなかったのだ。それを押しつけるようにして私に返してくる。むっつりした、どこか納得のいかない不満そうな顔つきで、私を睨んでいる。その視線が何を意味しているのか、私にはどうも釈然としなかった。
もしやと思い期待していたのだが、彼女が違うと言うのなら違うのだろう。私は黙ってペンダントをポケットに戻す。一旦この問題は忘れて、もうしばらく彼女と遊ぶことにした。
その後の彼女は、明らかに動揺しているようだった。普段の彼女を知っていれば、この変化は容易に気づくことができる。今の彼女には、いつも持っている子供っぽさ、あどけなさといったものがすっかり欠けているのだった。何か達観したような、いさぎよくあきらめのついたような表情を彼女は浮かべている。彼女が何を思っているのか想像したくなかった。たぶん私にとってあまり良くないことであろうからだ。
その日以来、私は骨を折ることができなくなってしまった。
理由はあまりはっきりしない。翌日、私は同じように森に向かい、洞窟の中に腰を下ろす。数ある骨のうちの一本を手に持って、いつも通り集中する。ここだと思ったところで力を有効に込めてみる。だが、骨はびくともしてくれないのだった。骨を変えてみたり、姿勢を改善してみても結果は変わらない。はてと首をかしげた私は、その日の仕事をすべて明日に回すほかなかった。前例のないことだったが、このようなことも起こるものなのだろう。今日はたまたま調子が悪かっただけだ。そう自分を納得させて、何もせずに森をあとにする。
しかし、次の日になっても事態は良くならなかった。骨はもう折れてはくれない。私と骨とのこれまでの繋がりが、ふとした障害からぷっつりと切れてしまったようだった。このときにようやく不安な気持ちになる。私はもう一生骨を折ることができないのではないか? この仕事を続けることができないのではないか? 不安をどうにかして消そうと、憑りつかれたように骨に依存していくのだが、骨が私の呼びかけに応えてくれることはもはやなかった。さらに、これと連動するかのようにして、あの少女も私の前から姿を消してしまった。
私はひとまず、仕事の注文を停止することにした。今のままではまともに商売をすることができないからだ。いろんな人にも迷惑がかかってしまうし、いざ再開したときにあまりに仕事が山積しているのも厄介になる。
何とかして原因をつきとめなければならなかった。そして、私の思いつく唯一の原因というのは、彼女の態度の変化とその後の消失に絞られているのだった。
私は毎日、ペンダントを譲ってくれた老人を訪ねた。彼に会うたびに私は質問をした。家族のことについて。当時の彼らがどういう様子をしていたかについて。だが彼は、ほとんどの質問にきちんとした答えを出してくれなかった。そもそも、話せる状態ではなくなっていたのだ。ペンダントを渡してからの彼の調子は、みるみる悪くなっていった。彼は自分の限界を悟って、その一歩手前で私にペンダントを託した、というわけになる。彼は寝たきりの生活を繰り返した。そんな彼をさすがに放っておくわけにはいかない。そこで私は隣の家に住んでいる婦人に、彼の介護を手伝ってもらうことにした。金は私が払い、毎日彼の世話をしてやってくれないかと頼んだのだ。手伝いの婦人はとても友好的で、私の頼みに快諾してくれた。彼女はまだ若く、三十代前半ほどに見える。どうやら私に少なからず好意を抱いているようだった。しかし、今はそのことに関わっている暇はない。婦人には悪いが、私の関心は完全にあの少女だけに絞られている。
森にも欠かさずに足を運んだ。洞窟でずっと待ち呆けたり、森の中を歩き回ったりして少女の痕跡を辿った。しかし、彼女の姿はまったく見当たらなくなっていた。一日中探し続けた日もあったのだが、その日に得られたものは何もなく、ただ空しさが増しただけだった。
私はどんどん平常心をなくしていった。冷静にならなければとは思う。しかし、いつまで経っても解決の道筋が見えない状況で落ち着いていられるわけがなかった。焦れば焦るほど、真実が私から遠ざかっていくような錯覚に苦しめられた。
少女は見つからない。老人はますます衰弱していく。そのような調子で、二週間ほどがあっという間に過ぎてしまった。
老人が死んだのは、仕事を休みだしてから十五日目のことだった。
四
正式な葬儀は行なわれることがなかった。老人はほとんど誰にも知られないままにひっそりと死んで、ひっそりと柩に入れられた。職人によって骨を取り出され、魂の抜けた肉体は地中に埋まることとなった。
彼には申し訳ないと思う。なぜなら、今の私に、この骨を二つに裂くことができないからだ。彼には悪いが、もう少し待ってもらうしかない。問題が解決したら、何よりもまっさきに彼の骨を折ることを、私は胸に固く誓った。
それまで手伝いをしてくれた婦人は非常に残念そうな表情を浮かべていた。しかし、その表情の中には、ようやく束縛から解放されたといううれしさが若干含まれているような気がした。
私は役所の許可をもらって、彼の家を訪ねることにした。その目的は、彼とその家族にまつわる手がかりを見つけるためだ。今のままでは一生解決できそうにない。少女の行方もきっとわからないままだ。そもそも、あの少女が何ら関係のないことだって十分ありうる。何か一つでも、決定的な証拠となりうるようなものが、私には必要だったのだ。
老人の家に着くとすぐに捜索を始めた。引き出しをすべて開けて、中のものを丹念にチェックしていく。もしかしたら怒った老人が亡霊となって、私に呪いをかけてくるかもしれない。そんな想像をしてしまうほどの、自分でもやりすぎだと思うくらいの、荒々しい探索だった。彼には悪いが、徹底的に調べさせてもらう。
そして、台所を見回っていたところだった。流し台の上方にある戸棚。見たところ何も入っていないように見えるのだが、念のために奥まで手を入れてみた。やはり空っぽだったか……そう思っていたとき、ふと何かが手に引っかかった。急いでそれを取り出してみる。その正体は手紙だった。
私はすぐさまそれを読んでみることにした。
おじいちゃんへ
――は元気でいます。お父さんも、お母さんも、ちょっと病気かもしれないけど、いちおう大丈夫です。お母さんの手伝いをしなくちゃならないから、なかなか勉強はできないけど、心配はいらないよ? 私、頭はいいから。たぶんだけど。
私たちの来た町は、おじいちゃんと住んでいたところよりも、少し厳しいところです。仕事はあるのですが、全部がすごく力を使う仕事で、そのせいかお父さんの調子が悪くなってしまいました。空気もよごれているみたいで、お母さんもせきが止まりません。これからどうなるのか、ちょっぴり不安です。でも、きっと大丈夫。看病をがんばっていれば、絶対に良くなります。おじいちゃんも、病気には本当に気をつけてね。
会えないのはさみしいけど、お父さんが決めたことだから、仕方がありません。わがままを言ってはいけません。それに、もうちょっとしたら、またおじいちゃんのところに行くことにもなると思います。病気が良くなって、仕事が落ち着いたら、必ず会いに行きます。それまで少しだけ待っててね。
それじゃ。
――より
私は手紙を最後まで読んだあと、それを丁寧に折りたたんでポケットにしまう。この少女は手紙にどのような思いを託したのだろう? 老人はどうして、孫娘からの手紙を誰にも見つからないところに隠したのだろう? わけもなく戸棚を眺めてみるが、当然答えが返ってくることはない。もう、自力で答えを探し出すしかないのだ。
家に戻ったあと、手紙とペンダントを机に並べてみる。この二つに共通するようなところはまったくない。それぞれが独立して存在しているような印象を受ける。しかし、どこかに繋がりがあるはずなのだ。それを見つけなければならない。私はその日、コーヒーを飲みながら朝まで起きていた。夜が明け、小鳥が外でチュンチュン鳴きだすまで、ずっとこのことについて考えていたのだ。しかし、ついに何も思いつくことはなかった。手紙は重要なヒントになりえるかとも思っていたのだが、どうやら解決の糸口にはなりそうになかった。
だが、一晩考えつづけたおかげで、私の中で何かが吹っ切れたようだった。絡まっていた導線がほぐれ、置かれるべき位置に置かれたといった感じだ。さまざまなものが混入されてどろどろになった容器が、何も入っていない新しい容器にすこんと交換されたようでもある。時計を確認すると、時刻は六時十七分だった。町の門が開くのは六時三十分である。私はすぐに森に向かおうと思った。これは直観だった。今すぐにそこに向かわなければならない予感がしている。急いで支度をして、私は朝食も摂らないままに家を飛び出していった。
森はこの二週間でだいぶ冷え込んだようだ。秋が終わり、冬がやってこようとしている。町にはまだ寒気が流れてきていないが、そろそろ厚着を用意してもいい頃合いかもしれない。手の平をこすり合わせながら、私はどんどん森の奥へと進んでいった。
私の目は少女の行方ばかりを追っていた。あちらこちらに視線を移動させて、彼女の陰影を求め続ける。ここに人が立ち入ることはない。人影が見えたら、それはほぼ間違いなく彼女なのだ。木々はうっそうとしていて、なかなか全体を見渡すことができない。しかし、朝のきらびやかな日差しが私の探索をサポートしてくれていた。何もかもがうまくいくような確信をこのときに抱いた。
今回、洞窟へは行かないつもりだ。行ったところで、彼女はその周辺にはいないだろうだからだ。今日はそこから離れた場所に向かっている。まだ立ち入ったことのない、もっと奥まった場所へと進んでいく。森の最深部へと手を伸ばしていく。なぜだかはわからないが、そこに私の求めているものがあるような気がした。ポケットの中に入っている手紙とペンダントが、それを伝えてくれているようだった。
晴れやかな気候だ。太陽の光線が茂みの隙間から漏れ出ており、地表をライトアップしている。そこには名もなき花がよく咲いていた。この寒い中、未だに生命を保っているような頑固で元気な花だ。私はそれらの花と少女の姿を重ねてみた。この二つを合わせるとき、私の脳裏に浮かぶのは、常に決まっていた。つまり、一面に咲き乱れている花畑を、彼女が走り回っている光景だ。その光景はずいぶんと綺麗なものだった。まるで想像の世界とは思えないくらいだった。そして、この景色をじっと見ていると、私はたまらなく悲しくなってしまった。理由はわからなかった。
そんなことを考えながら歩いていった先に、私はあるものを発見した。
それは人骨だった。大きさからして、まだ子供だったのだろう。地面にうつぶせになっており、顔は横を向いている。両手を前に伸ばしており、何かを決死の思いで掴もうとしていた様子がうかがえる。死んでからかなり経過しているようで、肉はもうすっかりなくなっていた。あるいは毒が、この人間の肉体を通常以上に早く腐らせてしまったのかもしれない。
その骨が身につけているワンピースは、長年の時を経てわけのわからない色に変化していた。かろうじてそれが、もとは白いものだったのだということがわかる。私でなかったら、もしかするとその事実に気づかなかったかもしれない。それは死人を着飾る神聖な衣装のように見えた。あるいは、その骨が以前はどういう人間であったのかを教える、流暢な物語の語り手のようでもあった。
陽の光に照らされることによって、それはおぞましいというよりも美しいもののように感られた。一切の無駄を削った完結した美しさだ。それ以上のものは何も必要としてない。どこをいじっても、その美は瞬く間に失われてしまうだろう。私はその骨に近寄った。骨は近づく私をじっと観察しているように見える。傍らに腰を下ろしたあと、その人骨を仔細に眺めていった。それはある女の子の面影を思いださせるようなものだった。
私は骨から目を外して、深いため息をついた。さっきまで私の頭を支配していた妄想はすっかり変わってしまっていた。走り回る少女は肉の削げた骸骨に変化している。そいつが笑顔を浮かべながら、より鮮やかさを増した花畑で楽しそうに飛び跳ねていた。骸に表情があるのかはわからない。しかし、少なくとも想像の中の骸骨は、笑顔だった。このユーモラスな光景は、不幸なものではなく幸福なものとして私には見えていた。
自分を戸惑わせているものの正体が、あまりはっきりしない。体中で何かが蠢いているのはわかる。しかし、実態をうまく捉えることができない。こんな気持ちになるのは生まれて初めてだった。悲しみがこみあげてくると同時に、嬉しさが溢れてくる。突如冷静な自分が登場したかと思えば、狂った痴呆ぎみの自分が彼を押しのけて出現する。傍らの骨を見つめると、その蠢きが一旦停止する。だが、目を離したら再び混乱が始まってしまう。花畑を散歩する骸骨のイメージがその合い間に挟み込まれる。
入り乱れた感情を整理するために、私は立ち上がる。このまま座ったままでいたら、私はどうにかなってしまいそうだった。しばらく周辺をうろついて、自分の精神が落ち着いてくるのを待つ。いろいろに顔を変える感情の波はそれで徐々に収まっていった。花畑と骸骨は消えることがなかった。
そこでようやく、安らかな気分で死体の隣に座ることができた。もうあの混沌はなくなっている。寝ていなくて、多少なりとも頭がぼんやりしていたせいもあるのかもしれない。歩いたことで脳が目覚め、それで変な想像が消えてくれたのかもしれない。いずれにせよ、非常に助かる思いだった。あのままでは確実に狂っていただろうからだ。
結局のところ、私と一緒に過ごしていたあの少女は何者だったのだろうか? この骨が、生前の自分の体を借りて私のところに来ていたとでもいうのだろうか? それとも、実際に彼女は生きていて、この骨と彼女とはまったく関係がないということなのだろうか……? 私にはわからない。彼女に実際に聞いてみないことには何もかもがはっきりしない。それに、問いかけてみたところで、返ってくるのはいつも同じ返事だけなのだ。再び私の前に現れたとしても、それで問題が解決するということはないのだ。
そういえば、と私は思う。少女の言っていた、「トモダチ」とはどういう意味だったのだろうか? この森には誰も住んでいなかったから、毎日のようにここを訪れる私と仲良くなりたかったという意識の表れだったのだろうか? それとも、他の理由があってのことなのかも……いいや、もうこのことについて悩むのはよそう。仮定に仮定を重ねても、真実はさらに色褪せるだけだ。事実だけを受け止めることにしよう。あの少女はもういない。私の隣には死んだ人間の骨がある。
私はポケットの中から手紙とペンダントを取り出した。手紙は骸の右手に、ペンダントは首に、それぞれ置く。これによって、その骨はさらにメッセージ性を増したようだった。こちらに訴えかけてくる力が、何倍にも増加したようだった。
今まで生きてきた中で、最も穏やかな気持ちだった。まるで焼野原を眺めているようだ。そこには何もない。すべては燃えてしまった。だが、その代わりにどこへでも行くことができる。新しくものを建てることができる。そういった、何もかもを失った絶望と何もかもを手に入れた希望とを、今の私は同時に抱えていた。
その勢いに任せて、というわけでもないのだが、半ば無意識に、私はその骨の脚の部分を手に持った。大腿骨は簡単に取り外すことができた。両腕を前に突き出して、神に捧げ物でもするかのような格好をとる。胡坐をかいて、目をつぶり、極度の集中に自分を浸す。懐かしい感覚だ。まだ私の中に残っていたのだ。それでさらに静謐な気持ちになることができた。この状態を維持したまま、ある瞬間が来たとき、くっと手に力を込める。
骨は二つに綺麗に割れた。
私はそのうちの一つを、もとの場所に戻した。もう片方は自分のポケットに入れた。名残惜しいが、そろそろここを発たなければならないようだ。溜まりに溜まった骨の山が私を待っている。仕事の再会を心待ちにしている人々が、少なからずいる。彼らのために、私はもう行かなくてはならない。
最後に、その骨を上から眺めてみた。生きていたころはどのような人間だったのかと想像する。服装からして女の子だったということは確実だ。きっと家族思いの大変健気な少女だったのだろう。好奇心に満ちた瞳で、毎日のようにあちこちを走り回る様子が容易に想像できる。常に楽しそうで、幸福な心持ちでいるのだ。彼女にとって、周りの世界は驚きに溢れている。何もかもが素晴らしく、色鮮やかに見えていたに違いない……。そんなイメージを積み重ねていくと、次第に私のよく知る少女の姿となっていく。どうやら、もう彼女のことを頭から追い払うことはできそうにないみたいだ。何が真実なのかということは関係なく、少女は私の中で生き続けていた。
「私たちは、トモダチになれただろうか」
森全体に向かってそう問いかけると、どこかで少女が笑顔を浮かべた気がした。