黄金の凱旋
この町はトリスティア王国に仕える諸侯貴族の一人、バスティーユ伯爵の治めるバスティーユ領の中で、やや西方に位置していて、キリアスと呼ばれている。
少し北に行けば、一年中残雪の積もる高山脈デシア、別名“雪溶けを知らぬ山”が、クライス子爵の治めるクライス領との境界を分かちている。
北に高山脈があるおかげで北風が吹かず、アルタイトの中でも比較的温暖な気候にあるこの町には鉄と偶然の支配者ミロスを祀る祠が四方に立てられていて、町民たちは年に一度、この祠に巡礼をしにいく決まりがあった。
これは納税と同じくらい、厳格な制度だった。
ミロスは簡単に言えば戦神であり、武器を打つための鉄と、戦場での偶然、即ち運を司っているのだ。
バスティーユ伯爵は取り立てて税などを高く厳しく定める男ではなかったが、大の戦争好きで知られていて、トリスティア王の招集があるたびに嬉々として自慢の軍勢を引き連れ王都に赴くのだが、大抵はそれらの兵は泊まる宿もなく、窮屈な兵舎での数週間を余儀無くされた。
いざ戦争となれば、年の収穫を左右するほど大勢の男たちを徴収して兵士とし、自らが先頭を立って狂気繚乱とばかりに戦っていた。
いつ死んでもおかしくないような戦乱ぶりを評されるバスティーユ伯爵だが、今年ですでに58まで生きており、戦神ミロスの絶大な加護によるものだと言われている。
さて、そんな戦好きの伯爵が治めるキリアスの町の一人の青年、アルクの父親は、日が沈んでからも帰らない不良息子の無事を案じて、ソワソワと落ち着きがなかった。
それだけに見前には出さなかったものの、アルクが帰ってきた時の安心感は、説明する言葉が簡単には見つからないほどのものだった。
「た、ただいま〜」
アルクが、そおっとドアを開けると、どっかりとドアの方を向いて椅子に仁王立ち、いや仁王座りしている父親の姿があった。
彼の茶髪は父親譲りだったが、青い瞳と中背は母親似だった。
父親はデシア山脈の鉱山で働いており、体つきがガッシリとしていて、背もかなり高い。
「遅い!
こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたんだ!
この不良息子め!」
父親は、低く厳しい声で怒鳴る。
彼の父親、名をジョシュアと言った。
アルクはビクっとして、慌てて謝る。
「ご、ごめん、バナレフの話を聞いていたら、つい遅くなっちゃって」
アルクがそう説明すると、ジョシュアは驚いたように立ち上がった。
「何、バナレフ?
彼が帰ってきていたのか?」
「え?ああ、うん。
昨日の夜、着いたらしいよ」
アルクの言葉にジョシュアは途端に嬉しそうに破顔し、笑い声をあげた。
「はっはっは。
バナレフも人が悪い。
帰って来ていたんなら、言ってくれりゃあ良かったのに。
かつての友人によ」
自分の父親があの魔法使いと友人だったということは、アルクも知っていた。
昔、父親がまだ若い頃、共に旅をしたことがあったそうな。
しかし、その時からバナレフの見た目は全く変わっていないらしい。
「飯は台所にパンとハム、それにサラダが置いてある。
俺はもう寝るが、体を洗いたいんなら、外の桶から水を汲んできてあっためな。
次、こんな時間に帰ってきたら、今度こそ承知しないからな。
日没前には家に戻れ。
いいな?」
口ではそう言っていたが、っかり機嫌が直ったのか、嬉しそうな表情でそう言うので、何も説得力はなかった。
しかし、アルクは素直に頷いておいた。
「はい、父さん」
それからアルクは台所にあったパンにハムと野菜を挟んだ、簡単なサンドイッチを作って、ペロリと平らげた。
年頃の青年だ、これだけでは無論満腹というわけにはいかなかった。
しかしこの時代、まさか息子が食卓の粗末さに文句をつけられる訳もなく、アルクは黙って口の周りを舌で舐めたあと、毛布を床に敷いて、その上に寝転がった。
薄暗い天井を眺めながら、アルクはため息をついた。
毎夜、この時間床につくと、母親の姿が頭をよぎるのだ。
彼の母親は数年前、敵国ローレランとの戦争の際、殺された。
彼には、亡骸さえ拝ませてもらうことを許されなかった。
それ以来、床につく時間になると、幼い頃自分を寝かしつけていた母親の顔が頭に浮かぶのだ。
母親が生きている時には、一度として思い出すことのないような、ありふれた記憶だったのだが。
アルクは、取り払うようにもう一度ため息をつき、そしてまぶたを閉じた。
忘れてしまうのが一番なのだと、彼はよく知っていた。
以前は頻繁に記憶が蘇ったが、最近になって、だんだんと記憶は薄れてきていた。
心の傷が時間によって癒されようとしているのだと、アルクは実感していた。
それなら、その方がいいのかもしれない。
アルクはゴロリと寝返ると、そのまま静かに寝息を立て始めた。
「起きろ!
今何時だと思ってる!」
寝覚めのアルクを迎えたのは、耳がジンジンするほど大きな、父親の声だった。
アルクは寝ぼけたように目を細めて、窓の外を見る。
木々を照らす明るい日光が、すでに高く登っていた。
「飯はあるもので作ってくれ。
盗られるものもねえが、外に出るなら鍵をかけろ。
日暮れまでには家に帰れ。
いいな?」
ジョシュアは、自分でも何度言ったか数えきれないほど、毎日、この言葉を息子に言い聞かせていた。
アルクも、いつもの事なので寝ぼけながらも頷く。
「んじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
アルクに見送られて、ジョシュアはいつものようにデシア山脈の鉱山に向かっていった。
父親がいなくなると、アルクは頭をボサボサと掻きながら、家の脇に置いてある桶の水を汲んで顔を洗った。
今日はどうも寝覚めが悪かった。
昨日、遅くに帰ったということもあるのかもしれないが、それにしても父親が出かける時間と言えばもう昼前だろう。
あまり良い兆候とはいえなかった。
アルクはあくびをしながら、台所に向かう。
「大したものはないな。
昨日のハムの残りは……早めに食べとかないとな。
あとは、そうだな。
パンとチーズでトーストでも焼くか。
飲み物はミルクがいいな」
アルクは台所の保存棚を漁りながら、適当にそう独言し、簡単に朝飯を作り始めた。
ハムチーズトーストとミルク半杯を綺麗に食べ尽くすと、アルクは顔を洗った残りの水で皿とコップを洗って、棚に戻しておいた。
それから、家にいるというのも退屈なので、面白いことがないかと、外に出かけようかと思っていた時だった。
トントン、とドアをノックする音があった。
誰がきたのか全く見当がつかなかったが、不用心にすぐにドアを開ける。
外には、何処かで見たことがあるような、長身の男が立っていた。
男はアルクを見下ろすと、低い声で聞いた。
「ジョシュア・テンバートはいるか?」
男の放つ異様な雰囲気にたじろぎながらも、アルクは首を振る。
「いません。
今は、出かけてます」
男はそう言われると、小さく頷き、そして懐から小さな折紙を取り出した。
封筒に入れられていて、蝋で厳重に封がしてあった。
「帰ってきたら、これを渡してくれ」
男はアルクにそれを押し付けると、アルクが何か言うのも待たずに、さっさと歩いて行ってしまった。
アルクは何となく封書の内容が気になったが、盗み見るのも忍びなく、机の上にポイと放って、さっさと遊びにいくことにした。
今日も皆、あの緑の丘の上に集まっていた。
バナレフの姿はなかったが、何か楽しそうに喋っている。
そのうち、一人の青年がアルクに気づいて手を振った。
「アルク、遅かったな。
もうお昼だぜ?」
青年は、アルクにそう言った。
「悪い悪い、リトア
ちょっと寝坊しちゃってさ」
リトアと呼ばれたこの青年の本名は、リトア・トラソルネ。
宿屋を経営するスランの長男坊だ。
他にも、酒屋の次男ランフリンや、牛飼いの一人息子のエリヤ、鍛冶屋の末娘のエリナなど、ほとんどのメンバーは揃っていた。
「あと来てないのは……ライルとネムスだけか?」
リトアが、メンバーを見回す。
「あと、ナジャがいない」
ランフリンが言った。
リトアは、それを聞いて頷くと、立ち上がった。
「よし、まずはその三人を連れて来よう。
ライルとネムスは俺とエリヤが連れてくる。
おい、アルク!」
リトアは、アルクを指差して言う。
「何だよ、大きな声を出して」
「最愛のナジャはお前が連れて来いよ〜」
リトアがそう言うと、周りの全員が一斉に声をあげて笑い出した。
アルクは真っ赤になって抗弁する。
「ば、馬鹿野郎!!
な、何言ってんだよ!」
「ああ〜、愛に打たれた男は怒り〜、心は永遠に彼女の物さ〜、とな。
んじゃ、頼んだぜ〜」
リトアが笑いながらそう言って駆け出すと、他の全員もそれに合わせて逃げるように駆け出した。
癪にさわる笑い声をあげながら。
「あ、待てこの野郎!」
アルクはすぐに追いかけようとしたが、四方に散っていった仲間をいちいち追い回すのも馬鹿馬鹿しくなり、仕方なくナジャを見つけるために丘を降りた。
しかし探すのはいいが、ナジャがどこにいるのかなんて分かるわけもなかった。
彼女の家によってみて、それで居なければお手上げだ。
家にいると言うことは病気か何かの事情があるのだろうが、アルクの記憶が正しければ、ナジャが病気にかかったなんて話しは一度たりとも聞いたことがなかった。
アルクはその理由を充分に納得しているつもりだ。
ナジャの家は、このキリアスの中でも何処か異様な雰囲気がする建物、ということで有名だった。
どうも、彼女の父親の職業に関係しているらしい。
アルクが聞いた話しによると、石を削って売り歩いている職人らしい。
この商売にはアルクは疑問を覚えざるを得なかった。
アルクにとっては、削ろうがなにしようが、石は石だ、という見解だからだ。
石をいくら削ったところで、それがいくらになるのだろうと不思議で仕方なかった。
世の中では、そういう堅気の人間のことをチョウコクカと呼ぶらしい。
こう言っては失礼だが、アルクの目から見ても、ナジャの家は随分奇抜に思えた。
家の形が全体的にとてもカクカクしていて、窓にはガラスがハマっていなかった。
また、くっつけたように不自然に一部屋分壁が突き出ていて、妙な違和感をおぼえる。
屋根も瓦敷ではなく、四方の壁をそのままつなげたようになっていて、煙突すらついていなかった。
この見前では、家として扱うには随分不便に思われた。
アルクは扉の前に立ち、コンコンとノックをした。
……。
…………。
………………。
いくら待っても返事がない。
もう一度、今度は少し強めにノックをする。
すると扉の奥から声が聞こえた。
「ち、ちょっとお待ちくださぁーい!」
聞こえて来たのは聞き慣れた声だった。
しばらくして、扉が開く。
「ごめんなさい。
今はちょっと手が離せなくて……って、アルク?」
そう言いながら慌てた様子で出てきたのは、アルクの捜していた張本人、ナジャだった。
彼女の本名はナジャシア・ミリシオン。
普段は年頃の娘が普通は着ることのないような、男の子ものの身軽な服を着ているのだが(と言っても、身体が大きくないので、それ相応の男子服となる)、今日は家の中だからだろうか、少しお洒落な長袖の白いワンピースを着ていた。
ナジャのこんな格好を見るのは、アルクもはじめてだった。
「どうかしたの?」
ナジャはちょっと首を傾げる。
「どうかしたって……みんな待ってるぜ?」
アルクが手を広げてそう言うと、ナジャは思い出したように頷いた。
「ああ!
そうだった。
ごめん、今日は行けないと思う……。
みんなには、そう伝えといて」
ナジャは困ったような顔をして、胸の前で手を合わせて言う。
「行けないって、どうしてさ?」
「お母さんが病気にかかっちゃって」
「ははあ……」
アルクはつい、ため息をついてしまった。
たとえいくらナジャが病気にかからなかったとしても、彼女の母親はそうはいかなかったというわけだ。
「病気って、どんな病気?」
アルクがそう尋ねると、ナジャはまた少し首を傾げた。
「うん、最近流行り始めた伝染病で、確か……ナントカ病って言ったんだけど」
通常の場合、ナントカで物事が通じることは稀だが、今回の場合は少しわけが違った。
最近流行り始めた病は一つしかないからだ。
「まさか、燃血病……?」
燃血病。
オーク族が持っている菌が人間やエルフなどの他種族に感染すると発症する病気。
血液中の白血球を栄養源として食い尽くしてしてしまうため、対抗手段がない。
エルドロンからやって来た旅人が菌源となり、去年から特にアルタイト地方で広まりはじめた病気だ。
「そ、そんな名前だったかも……」
「ば、馬鹿!!」
アルクは野外であることも厭わずに大声で怒鳴り散らした。
「燃血病は感染病だぞ!
お前だって発症するかも……。
お母さんは何て……?」
「よ、よくわからないけど、私がいくと迷惑そうな顔をするの。
でも、お父さんは帰って来ないし、お医者さんは呼んだけど打てる薬が無いって言うし、私がやるしかないじゃない?」
「駄目だよ。
燃血病にかかった人間には近づいちゃいけないんだ。
お医者はそう言わなかったのかい?」
「ち、近づくなとは言っていたけど……」
「じゃあ、何で近寄ったんだよ!!」
アルクはこれまでにないほどの剣幕で、さらに怒鳴る。
あまりのことに、ナジャはビクッと肩を震わせた。
アルクはハッと我に帰って、自分の口に手を当てる。
「あ、わ、悪い。
と、とにかく僕が今からもっといい医者を連れてくるから、それまで、その……お母さんに近づくなよ」
アルクはそう念を押すと、ナジャが何か言うのも待たずに駆け出した。
「彼なら、治せるはずだ……」
彼は、この町の高台や丘陵地帯を特別好んでいた。
日がな一日、町を一望出来る草むらに座り込んで、大抵は物思いにふけるか、パイプ草をふかしたりして一日を過ごしていた。
今日も彼はいつも通りに、昨日とはまた別の丘の上で腰を降ろして、暖かな日光と柔らかな芝生に体を預けていた。
しかし何を思ったかふと頭をあげて、その驚くほど良い視力で町を眺めると、何やら訳ありげにこちらに走ってくる若者の姿があった。
「あの青年もなかなか忙しいの」
彼は少し可笑しそうに笑うと、ゆっくりと腰を持ち上げた。
青年は間も無く、彼の予想した通り丘を駆け上がってきた。
「バナレフ!
ああ、良かった。
ここにいてくれて助かったよ」
「随分、急ぎの用みたいじゃの。
お前の父さんがワイバーンに襲われた時でさえ、そんなに慌ててはいなかったぞ?」
「そ、そうなんだよ。
とにかく、急いで来てくれない?」
アルクがそう言うと、バナレフはさもおかしそうに笑った。
「この老い先短いじじいを走らせるつもりか?
無理を言う」
「そ、そんな。
急いでるんだよ!」
「見れば分かる。
誰もゆっくりお茶を飲もうなんて言ってはおらん」
バナレフは落ち着いた様子で言うと、ゆっくりアルクに向かって手を伸ばした。
「ほれ、捕まれ」
バナレフは、笑顔でそう言う。
アルクは、バナレフの差し出した手をそっと掴む。
途端に、視界が真っ白になった。
眩しいくらいの日光も、柔らかな芝生も、澄み切った青空も、何もかもが見えなくなった。
そして気がつけば、彼は先ほど飛び出したナジャの家の前に立っていた。
「ほうほう、まさかここに飛ぶとはの。
お前さんの頼みが気になるのう」
バナレフはそう言って快活に笑った。
「さ、早く」
アルクは、いきなりナジャの家の扉をガタンと開ける。
バナレフと、中にいたナジャが驚いて同時にアルクを見る。
「ほほっ。
ノックも無しとは、荒っぽい」
バナレフは冗談じみた声でそう言ったが、アルクはそれには答えずにナジャに近寄った。
「お母さんは?」
ナジャは頷くと、改めてバナレフを見やる。
「バナレフ。
お着きになっていたんですね?
お元気そうで」
ナジャはそう言いながら、ワンピースのスカートの裾を両手で持って膝を折る。
バナレフはそれを見て、愉快そうに笑った。
「ナジャ、しばらく見ない内に美しいレディになったようじゃな。
それにしても、何じゃ、アルク。
お主ら二人を見ていると、昔のお前の父さんと母さんを見るようで、何だか涙が……」
「バナレフッ!!」
アルクとナジャが同時に、顔を真っ赤にしてバナレフの言葉を遮った。
バナレフは片手で二人をなだめながら、子どもっぽく笑った。
「いや、すまんすまん。
それで、わしを呼んだのはまた、どういった要件かな?」
「そ、そうだった。
ナジャ、早く」
アルクが慌ててそう言うと、ナジャもそれに頷いた。
「それにしても、何でこんなにややこしい造りなんだ?」
アルクは、あまりに不可解だと言いたげな顔をする。
先導するように早足で階段を登りながら、ナジャは答えた。
「この家、お父さんが設計したのよ。
私のお父さん、変な趣味をしてるから。
これが芸術だと言って、何も聞かなかったらしいの」
「それにしたって……」
アルクはため息をつく。
わざわざ二階に上がるのに、一度、螺旋階段で四階まで上がって、そこから三階に降り、白壁にガラスのハマっていない窓が規則的に並ぶ、殺風景であり、また嫌味なほど長い廊下を渡ってから、さらに下に降りなければ行けなかった。
バナレフは迷路のような階段を登り下りしながらも、息一つ乱さずに笑う。
「上に上がるのに階段を下ったのは、生まれてこの方、指の数ほどもないわい。
庶民の家ともなると、はじめてじゃな」
「こんな構造だからお客様が来た時なんか、いつもお待ちしてもらっているの」
「ああ、だからさっきも……」
アルクは納得したように頷く。
ナジャはやっと最後の階段を下り終えると、階段からすぐの部屋の前で立ち止まった。
「さあ、ここがお母さんの部屋よ。
アルク、あなたの言っていた医者って言うのはバナレフの事ね?」
「そ、そうだ、バナレフ、あなたならナジャのお母さんの病気を治せるかと思って呼んだんだけど……」
アルクは、少し不安げな表情になって言う。
最初に確認しておけば良かった、とアルクは今になって思った。
「おやおや、どうやら何か勘違いしているようじゃの。
わしはメイジであってプリーストではない。
医療に関するならば、彼らに聞く方が余程収穫があろうて」
バナレフは、口をへの字に曲げて首を振る。
アルクとナジャの表情が途端に悪くなる。
バナレフはその様子を見て意地悪そうに笑った。
「ま、たかだか数十年生きた程度の魔法使いならそう言うじゃろうな。
じゃが、わしを誰じゃと思っとる。
かつて、「アルタイトの黒い杖」と呼ばれたこの大魔術師を」
バナレフは、髭をさすりながらそう言う。
アルクとナジャの顔に血の気が戻る。
アルクに至っては短い時間に表情を変えすぎたせいで、顔の筋肉が痛くなっていたほどだった。
「どれ、まずは見てみねばどうにもなるまい」
バナレフがそう言うと、ナジャは頷いて、静かに扉を開けた。
部屋の中も白一色だった。
壁はもちろん、窓の前におかれた小さなテーブルや、それに付き従うように置かれているイス、ベッドのシーツや毛布までが全て真っ白だった。
そして、純白のベッドに一人の女性が苦しそうに横たわっていた。
彼女はこちらを見向きもせずに、か細い声で言う。
「ナジャ、また来たのね?」
そして苦しそうに息を吐く。
バナレフは真っ白なベッドへゆっくりと近づいていった。
そして、彼女の枕元に立つ。
「エシア、久方ぶりじゃのう」
バナレフは優しい声で言う。
彼女はそれを聞いて、驚いたように目を見開いた。
「バナレフ……?
あなた、帰って来ていたの?
ああ、万理と運命のエシャヒスは、まだ私を見放してはいなかった……!」
彼女は、目から大粒の涙をこぼして言う。
バナレフは微笑むと、静かに彼女の額に手をかざした。
「まだ進行中の燃血病か。
この身体で随分無理をしたようじゃな」
バナレフはそう言ってから、静かに何事か唱え出した。
口ずさむような、鼻歌を歌うような小さな声で、アルクやナジャには理解できない言葉を口にする。
すると、何とバナレフがかざした手のひらに光が集まっていく。
その光は少しずつ彼女の身体に吸い込まれていった。
バナレフはそれを見て頷くと、ゆっくりとかざしていた手のひらを降ろした。
「これで病気の症状はおさまった。
もうほとんど大丈夫じゃろう」
バナレフがそう言うが、彼女は何も答えない。
スースーと気持ち良さそうな寝息をたてて眠っていたのだ。
ナジャがそれをみて胸をなでおろす。
バナレフはナジャの方を振り返ると、懐から妙な小瓶を取り出して言った。
「じゃが、菌はまだ死んではおらん。
活動を停止させただけじゃ。
一日一度、小さじ一杯、水に溶かしてこれを飲ませなさい」
バナレフはそう言って、小瓶をナジャに手渡した。
瓶のラベルには奇妙な文字が書いてある。
中身は白い粉のようだった。
「これは?」
「青カビからとれた薬じゃ。
まだ、あまり流通してはおらんがな。
ブルトーニの商人から特別に譲ってもらったものじゃ。
菌を殺す力がある」
ナジャは驚いて小瓶を見つめた。
「そ、そんな貴重な物を?」
「気にするでない。
エシアとは古い仲じゃ。
無論、病気が治った頃を見計らって返してもらいにくるがの」
バナレフはそう言うと、また愉快そうに笑った。
「すごいね、バナレフは」
螺旋階段を下りながら、アルクは言う。
バナレフは、はて、と首を傾げる。
「何のことかの?」
「何のことって……。
今さっきのことじゃないか」
「おぬしの言っていることの意味がよくわからん。
さっきのこと、と言うのは、エシアの病気をわしが治したことを言っているのか?」
アルクは、それしかないだろ、と言うように頷いた。
「人が人を助けることの何がすごい?
おぬしならば、助けなかったというのか?」
予想外の返答にアルクはたじろいだ。
「誰もが当然するようなことをすごいとは言わん。
結果が別れようとも、人は当然、人の命を救おうとするもの。
力があればそれは成り、力がなければそれは成らぬ。
しかしながら、根底にある精神は同じ。
何もすごい事ではない。
おぬしがもし、わしのことを褒め称えるならば、わしの力を褒め称えるべきなのだろう」
アルクはそこで一度頷く。
「しかし、これはわし自身の力ではない。
自然と神の力を借りて行う業じゃ。
人は単体では生けぬ種族。
メロイムの加護があり、ジェロネノスの加護があり、大自然の恩恵があり、そうやって他者の力を借りて生きていくものだ。
かつての英雄レドナンドがそうであったように。
わしを称えるならば、わしに助力し、わしに恵み、わしを生かしてきた全ての存在を称えねばならぬ」
バナレフはそう言うと、何かを思い出すように杖をさすった。
よく見れば、その杖はボロボロで所々焼け焦げた後があった。
「でも」
そこで、前を歩いていたナジャが口を開く。
「私はあなたを称えるわ。バナレフ。
人に感謝されること、それは人にとって最も崇高なことだと思うの。
私はあなたに感謝する。そして、同時にあなたを称えます」
バナレフは驚いて目を見開いたが、それは隣にいたアルクも同じだった。
信じられない、という顔で口を開けて立ち止まる。
振り返ったナジャの顔がまるで聖人のように見えたからだ。
しかし、すぐにそこにはふくれっ面をした少女が、聖人を踏み倒して現れた。
「お母さんの受け売りよ。
意外そうな顔をして、失礼ね」
ナジャはそう言うと、プイと後ろを向いてさっさと歩き出した。
バナレフはそれを聞いて、面白いような、驚いたような微妙な声色で笑う。
「これはこれは、一本とられたのう。
ミリシオン嬢はその見前にたがわぬ教養を身につけておられる」
バナレフはからかうような調子で、横目でアルクを見ながら言った。
アルクは惨めな表情で嘆息するほかなかった。
「それにしても大変ね」
扉の前に立ったアルクに、ナジャは言う。
アルクは首を傾げて聞いた。
「大変?」
「ええ。
この前来たばかりだったのに……また行かなきゃならないなんて……。
うちのお父さんは、まだ帰って来ないからどうにもならないんだけど」
ナジャは、少し口ごもりながら言う。
アルクは何と無く嫌な予感がしたが、さらに聞いた。
「来る?行く?
何のこと?」
「え?」
ナジャは不思議そうに顔をあげる。
「まだ、来ていないの?」
「だから、何がさ?」
「その……伯爵様の使節よ」
「伯爵様の……?」
アルクはそこでハッと思い返す。
「まさか……」
「休戦もつかの間、また大きな抗争があったみたい。
伯爵様が兵を集めるって。
うちにも来たわ」
「ああ!そうか!
何で気づかなかったんだ!!」
アルクは、昼に家にやって来た男の事を思い出す。
どこかで見たことがあるような気がしたのも当然、伯爵の使節といえば、幾度となくキリアスにやって来ていたからだ。
「マズイ。
ぼ、僕はもう行かなきゃ。
じゃあね、ナジャ。
あ、あとバナレフ!
今日はどうも」
アルクはそれだけ言って、一目散に駆け出した。
遠ざかって行く背中を眺めながら、バナレフは笑う。
「本当に忙しい奴じゃ」
微笑むバナレフに、ナジャが声をかけた。
「あ、あの……」
「はて、何かな?」
「母の容態が戻ったら、改めてお礼に行きますね」
ナジャはそう言うと、丁寧に頭を下げた。
「ほっほ。
礼ならあの青年に言ってやりなさい。
わしは本を書くので忙しくてな」
「アルクに……?」
「そうじゃ。
わしではなく、な」
バナレフはまた、何が可笑しいのかほっほと笑った。
あの手紙、いっそ燃やしてしまえば良かったのだろうか?
夕刻間近の家路を駆けながら、アルクは思う。
しかし、燃やしたからといってどうなるだろう?
結局最後には、あの偉そうな使節の大旦那が直接やって来て話をつけるに違いない。
「クソったれ!」
アルクがいきなりそう吐き捨てたので、周りの人たちは驚いてアルクの方を見たが、アルクはお構いもせずに通りを駆け抜けた。