第一章(5)
時刻は、リーファが目を覚ます少し前に遡る。
まだ昼を過ぎたばかりの頃、一人の男が空を見上げた。
青空の下には似合わない、全身黒の装い。黒の髪に、こめかみと額から生えた三本の黒い角。そして透き通る白い肌に、血のような紅色の目。そしてなぜか、左手の甲に黄金の瞳がついていた。
一目見て人間ではないと分かる。彼の姿をこんな所で見れば、人間も、また他の種族も驚きで声をなくすだろう。彼は本来ほとんど地上に姿を現さない者。闇の世界に身をおくべきはずの者。彼は――
「アウリュ?」
隣からかけられた声に、彼は目を向けた。
アウリュルシードという名の、魔王が。
「レイチェル」
「何が、『レイチェル……』よ。さっきから上の空で」
ムッと頬を膨らませる彼女に、アウリュは少しだけ口角をあげた。彼女と出会ってから覚えた、微笑というもの。
それは不思議な光景だった。
人ならざる魔王に、人の子が当たり前のように寄り添う姿。人の子はとても幸せそうで、魔王もまた、愛おしそうに彼女を見つめている。
「それで? 最愛の恋人が隣にいるのに、何を思ってたのかしら?」
その『恋人』という言葉。人が聞けばレイチェルを『異端者』と呼び、魔族が聞けば激怒するだろう。しかし、アウリュは否定しない。ただ、優しく彼女の頭を撫で、また遠くを見つめた。
「出会った。レイアと、あの男が」
「レイアって……前に言ってた原初の一族っていうところの女王様よね? 出会った?」
「前から知ってはいたがな、出会うことは。最後の安らぎだ……」
左手の黄金の瞳を見ながら、アウリュはポツリポツリと呟く。
「まったく~、相変わらず貴方の話は要領を得ないわ。解釈しにくくて大変よ」
「お前は、あまり知らなくても良いことだ」
フッと笑い、アウリュは音もなく立ち上がった。黒い翼を取り出しふわりと浮かぶ。
「今日はもう行く」
「今度はいつ会えそうなの……?」
二人が会うのはとても困難だ。ここはあまり人目のない場所だから良いが、魔族の目も誤魔化さなければならない。そうしなければ、レイチェルは魔族の爪に消されてしまう。
不安げに見上げてくる彼女を引き寄せ、アウリュはそっと額に唇を落とした。
「一週間後、夜にでも会いに行く」
「約束……よ」
「ああ」
低く心地のよい声を残し、瞬きした次の瞬間にアウリュは消えていた。
残されたのは、ただ、儚げに祈る少女一人だった。