第五章(9)
霧の中を抜け、リーファは息も絶え絶えに城の前についた。途中、アフィルメスの軍勢の声も聞こえた。おそらく結界は破られたのだろう。だが、まだここまでは来ていない。
リーファは、ポケットに入れていた指輪を握り締めた。アウリュのくれたこれが、今までいくつか攻撃を跳ね返している。祈りの間に行くには必要だ。
二、三度深呼吸をして、リーファは再び駆け出した。もう慣れた城の回廊を走りぬけ、祈りの間へと続く場所に飛び出す。リーファの存在を感じたのか、撃退用の魔法陣が発動した。しかしその防御を指輪に任し、リーファは体当たりするように大扉を押し開ける。
目の前の祭壇に、白い衣装を着た華奢な少女の背が見えた。
「レイア!」
転がり込むように部屋へ入り、彼女めがけて手を伸ばす。だが、こちらを振り向いたレイアはいつもと変わらない声音で呟いた。
「阻め」
その一言で、リーファの目の前に見えない壁が出現する。結界だ。
「くそっ、レイア!」
壁に手をつき、もう一度名前を呼べば、彼女は困ったように笑いながら近づいてきた。
「もう、マルファスに止めるように言ったのに。アウリュね、その防御の魔法具渡したの」
拍子抜けするほどに軽い声。今まで聞いた話は全部嘘だったのでは、と勘違いしそうになるほど、変わらないレイアの態度。
けれど彼女が身につけている装飾品は間違いなく重要な意味を持っていて、彼女の明るさとは裏腹に暗い現実が目の前にあった。
「レイア……」
「来ちゃうかな、とは思ってた。リーファってば意外に無茶するし」
リーファが壁についた手に、レイアはそっと己の手を重ねてきた。ぴったりと合わさる二人の手。けれど、絶対に触れることのない手。
「止めに来てくれたの?」
「守るって、約束しただろう。なのに、何も言わないなんて……っ」
こんなにも傍にいるのに、触れることすら叶わない。助けたいと思ったのに、守りたいと言ったのに、何もできない。
リーファは壁に額をつけ、吐き出すように言葉を紡いだ。そんなリーファを見ながら、レイアはやはり困ったように顔を覗きこんでくる。
「言ったら、リーファは止めるだろうなって思ってたから」
「当たり前だ! どうして君だけが犠牲になる。あれだけ他の人の幸せを願っておきながら、原初の一族にだってその権利があるって言っておきながらっ、どうしてレイアだけが!」
それ以上、続ける言葉はなかった。何度聞いても、原初の一族だからと答えられるような気がした。女王だから、と。それが役目だから、と。
「私は、ずっと前から知っていたわ。お父様達がなくなった直後よ。死ぬって知って、私もどうしてって思った。何で私がって……」
「だったら……一緒に行こう。他の誰が君を責めても……俺が傍にいるからっ」
そう告げても、彼女は首を振って笑う。
「ダメよ。だって私がやらなきゃ世界が崩れちゃう。せっかく皆に幸せになって欲しいって言ったのに、それが無意味になってしまうわ。私は、皆を……この世界の皆を守りたいの」
芯のある言葉だった。きっと嘘じゃない。でも、微笑むレイアにリーファは首を振った。
今の言葉も彼女の本心だ。けれど――
「レイア、今は二人だけだ」
「え?」
きょとん、としたレイアに、リーファは苦笑して見せた。
上手くできたかは分からない。それでも、いつものように、レイアが縋ってこられるような自分を作った。
「言っただろう? 俺はただのレイアを望むって」
笑っていたレイアの頬が固まった。次いで、いやいやと拒むように首を振って後ずさろうとする。
「レイア」
強く名前を呼べば、彼女の足が止まった。まだ壁越しに触れている手をなで、今にも壊れてしまいそうなレイアの瞳を正面から見据えた。
「俺の前では、泣いて良いんだ」
「っ!」
振り上げられた顔から、一滴の涙が零れ落ちた。それを追うように、銀灰色の目から次々と溢れ出す透明な雫。
それは、リーファが初めて見た、レイアという少女の泣き顔。
「怖い、よ」
「うん……」
「どんなに覚悟を決めてもっ、やっぱり、怖くて……っ」
嗚咽交じりに呟く少女の声を、決して聞き漏らすまいとリーファは壁に近づいた。レイアもリーファを求めるように、そっと壁に寄り添う。
こんなに近くにいるのに、涙を拭ってやれないことがもどかしかった。
「死にたく、ないのっ」
「レイア……」
もう一つの、レイアの本音。世界のことを思う彼女と同時に存在する、ただのレイアとしての望み。
「本当はリーファと一緒に生きたい! 死にたくなんかないっ、リーファと一緒に生きて、リーファと一緒に暮らしてっ、リーファにお帰りなさいって言って……っ」
「だったら、行こう! まだ間に合うからっ。俺が守るから!」
口に出したことは全てレイアの望みであるはずなのに、彼女は頑なに首を振った。できない、と何度も何度も呟く。
「どうしてだよっ、原初の一族だから? 役目があるからか!?」
「違う! 私は、リーファに生きて欲しいからっ……」
「俺、に……?」
飛び出した言葉に、リーファは息を詰めた。レイアはリーファを見つめながら、どこかなつかしそうに目を細め、小さく笑う。
「自分が死ぬ夢を見て自暴自棄になってた時、違う夢を見たの。花畑で、金色の髪と青紫の目を持った魔導士と出会う夢……」
呆然としたままのリーファを見て、レイアは頷く。
「そう、貴方のことよ。リーファ」
頬をなでるように持ち上げられた手。それを掴むように、リーファも自分の手を伸ばした。
「何度も何度も、見たの。すっごくかっこ良くて、夢を見てる時は起きたくないって思ってた。それぐらい、私はその人が好きになってた。貴方に会うのが、待ち遠しかった。いつからか、貴方に会うことを目標に生きてた……」
何かを言おうとして、リーファは何も言えなかった。
そんなにも昔から、彼女が自分を知っているなんて思わなかったから。そんな大切な位置に、リーファの存在を置いてくれているなんて知らなかったから。
「実際に会ったら幻滅したりするのかな、って思ってたの。でも逆。どんどん好きになって……隠し通すはずだったことまで全部さらけ出して……」
レイアは照れながらそう言うと、どこかすっきりしたような顔でリーファを見返した。
「死にたくないわ。でも、私は皆に……貴方に生きて欲しい。貴方が生きる世界を守りたいの。どっちも本音よ。嘘じゃない」
それを示すように、レイアは笑う。仮面じゃない、レイアの心のままの笑顔。
「レイア……けど俺はっ」
「ねえリーファ。一つだけ、約束してくれる?」
壁を壊す術がない。レイアの決意を壊す術がない。ここまで来たのに、彼女をかける言葉すらもう浮かんでこなかった。
そんなリーファに、レイアは言う。
「笑っててね」
「そ、んな……!」
できるわけがない。そう言いかけた瞬間、リーファは異変に気づいた。
外から雄々しい声が聞こえる。アフィルメスの軍勢が近づいてきているのだ。そして、それに合わせるようにして光を放った足元。
淡く青い光りを持った、転移魔法の魔法陣。
「レイア!」
「生きて、笑ってて。そして幸せになって……貴方がそうやって生を終えてくれることで、私のやることにも、私の命にも、意味ができるから」
「やめろレイア! 一人で逝くなっ、俺も傍にいるから!」
どれだけ叫んでも、どれだけ壁を叩いても、足元の光りは強まるばかり。
せめて最後まで、彼女の傍にいたいのに。
「レイア……ッ」
もう一度強く壁を叩こうとした瞬間、ふわっと感じる浮遊感。そして、冷たい壁ではなく、優しく手と唇に触れた夢のような温もりを自覚した。
「リーファ、私は貴方を――――」
温もりが離れた瞬間、耳に響いた優しい声。
「レイ……ッ!」
その声に向かって手を伸ばした瞬間、リーファの視界はぶれるように掻き消えた。




