第一章(2)
夕暮れ時を過ぎ、夜の帳が空を包んでいく。
そんなことを、空ではなく身を突き刺す寒さでリーファは知った。
「……やばい、夜が来た」
これで夜を迎えるのは、アフィルメスを出てからおよそ百回。ようやく大陸を東西に分断する山脈の入り口に辿り着いた。
そう、辿り着いたのは良い。ここは深い樹海。追っ手を振り払い、魔力痕と足取りをできる限り消し、ここに入ってしまえばそう簡単には見つからない。が、
「いや~、まいった」
目の前は木。後ろも木。右も木。左も木。斜めも木。道がない。つまり――
「迷った?」
疑問系で問うても行く道が分からないのは迷ったと言うのだろう。馬も疲れたのかあまり足を動かす気がないようだ。しかも山脈の近くは気候が変わりやすく寒い。まして樹海の中は光もなく、寝泊りする場所もない。
「この辺りは確か土地自体が魔力を持ってるんだよな。うかつに魔法使うと変な空間できるかもしれない……それに……」
リーファは地図を広げた。自分達の住む大陸の西側の地図。一番右端は今いる山脈。この先、東側にもまだ大陸は広がっているがその先は分からない。未開の土地だ。
リーファは木々の隙間から、近すぎて壁のように見える山脈を振り仰いだ。
この山脈は高い。実は登りきった者もいないほど高い。一部最南端は平地で通れる部分があるらしいが、そこは霊魂族の住む死世界という場所。迂闊に入れば自らも死霊となって現世に彷徨い続ける。
そしてその反対側、山脈の北側部分は大きな空白が覆っている。
「原初の一族が住まう閉鎖された国、アレネス国か……」
この世界は、原始の王と呼ばれる者達によって創られたと伝えられている。植物も、動物も、人間も、他の種族も、世界の全てを。
器を創りし王・バラグレオ
命を注ぎし王・ファルゲーニス
力を与えし王・ミルゲフォルナ
知を築きし王・ストレカッツァ
これらの王が全てを創りあげていると。
この王達と唯一邂逅することを許され、彼らによって初めて生み出された人間の一族。それが、アレネス国に住む『原初の一族』と呼ばれる者達だ。
噂によれば、原初の一族は巨大な魔力を持ち、高等魔法である召喚すら当たり前に使うという。
「世間一般上、大国と呼ばれるのはアフィルメス。けれど……あの国は」
彼の国はアフィルメスが起こるよりもっと早くに国を作り、整えていたとされる。
だが、それほどの統治力を持ちながら、原初の一族は決して自国から出ることはない。外の者もこの国に入ることを決して許されない。そのせいで詳細は分からないのだ。
世の魔導士が何度手を出しても解けない洗練された結界。そしてその内側、国の周りを覆う迷いの霧に阻まれる、と幾人かが体験したと豪語する夢物語のような話だけが流れている。
「ここに近づくのも得策じゃないな。やっぱり南を通って東の大陸に渡るのが無難か? でも俺まだ死霊にはなりたくないし……」
手近な大木の根元に腰を下ろし、集めた枝で焚き火をする。馬は近くに繋いであるし、食料は大きな町に行った時、いくつか仕事を請け負って買いためておいた。
しかし、ずっともつわけではない。定職につくなら大きな町だが、そんな所に行けば手配書が撒き散らされていて捕まるだろう。
「もうこうなったら、自給自足の畑仕事でもするか。のんびりした田舎で」
焼けた肉を頬張りながらリーファは考える。そんな暮らしも良いかもしれない。ぎすぎすした国の上で頭を悩ませるより、そんな風に穏やかな幸せも良いかと思う。
「ま、とりあえず」
と、何を思ったか、食べ終えたリーファは焚き火を足で消した。次いで、木に立てかけてあった杖を手に取る。
「嫌な来客を追い払ってから考えるか」
苦笑しつつ振り返ったその先。闇に埋もれた中で光る紅い目。
「おや、こんな所に人間とは珍しい」
「おや、こんな所に魔族も珍しい」
スウッと闇から抜け出すように出てきたのは、大きく言えば人型。だが、およそ人間とは言えない毛むくじゃらの顔と体、牛のように突き出た角、長すぎる手と爪、そしてその病的な体の色は、普通ならとりあえず恐怖に叫んで逃げ出すものだ。
「ま、完全な人型でないところを見ると、あまり強くないんだな」
「身の程知らずな人間のようだ。もう少し利口に進化した方が良かったんじゃないか?」
「あはは、そうだな。人は馬鹿だよ。でも、その馬鹿の負から生まれたのがお前らだ」
「……よく回る口だ」
魔族が言い終わると同時に空気が動いた。リーファは倒れこむように右に飛ぶ。間をおくことなく、先程もたれていた大木が裂けた。
「わお」
おどけたように唇を曲げると、リーファは馬の手綱を解いた。
「行け、あとで迎えに行く」
トン、と馬を樹海の中に送り込み、彼は杖を構える。
うまい具合に離れて行く馬に『いい子だ』と胸中で呟きながら、眼前の敵を見やった。
一応人型をしている魔族。完全なる上級ではないが、中の中ぐらいの実力はあるだろう。
(遊びもほどほどにしないと火傷する、か)
自嘲気味に呟きながら、リーファは魔力を発動した。ゆったりと、体の細胞一つ一つから滲み出す力。小さな粒は隣の粒と融合し、やがて大きな塊となって体全体をめぐりだす。
ざわりと体毛が蠢くと同時に彼の周りを覆ったのは、薄蒼い湧き出した水のような美しい魔力のオーラ。
「なるほど、口先だけではないということか」
「そう言うお前も見ただけで分かるなら、なかなか。実を言うと、あんまり戦いたくないし、引かないか? 人と魔族、決して争わなければならない種族ではないだろう?」
そう、相容れぬ種族ではあるけれど、争わなければならないわけではない。先程の言い合いも売り言葉に買い言葉的なものだ。
「コケにされて黙っている魔族はいない」
「……うわ、やな奴」
グッと腰を落として構えられ、もはや後には引けない。
人には人の、そして魔族には魔族の律が存在する。彼らが友好的になるのは『等価価値のある契約』を交わした相手だけ。それ以外の人間には無関心か。このように侮蔑を顕にするか、だ。
魔族が人間達の負の感情から生まれた、という負い目と、弱みがあるからだろうか。
「行くぞ!」
ザッ、と軽い土を蹴る音と同時に魔族が消えた。樹海の中、高速で移動する魔族の足音と風きり音がする。と、
「っ!」
危ない、と思った瞬間、認識するより先に体が動いた。耳の横を通り過ぎる音。そして左の頬に走った紅い線。
元々、身体能力や魔力で魔族には勝てない。本気でやりましょう、となれば、リーファは一瞬でこの世から消えてなくなるだろう。
ならばなぜ、まだ生きているのか。
「魔法を使えば楽だろうに。嫌な決まりを持っているな、魔族は」
この世界で魔族と神族に課せられた暗黙の決め事。『両種族は魔法を簡単には使えない』
なぜなら、絶大すぎる魔力を持ち合わせているから。
魔法の構成を魔族が人間と同じように考え編み出せば、その規模は有に人間の数十倍から数百倍。そんなものをいつも使っていれば、この世界は数時間で破滅する。そのため、彼らは実力の大半を抑えなければならない。それがこの世界で彼らに課された制約だ。
もちろん、制限されていても強いのだけれど。
「弱みに付け込むのは嫌いだけど、人間の戦術なんでな。使わせてもらう」
未だ見えずとも聞こえる足音に向かって、リーファはにやりと杖を構えて笑った。
「我が言の葉にて誘わん!」
体内の魔力を、言葉と同時に魔法の構成として編み上げる。呪文はどのようなものでもかまわない。自分が編み上げやすい形を言葉にするだけ。ただ、意味のない音だけでは魔法は生まれない。
構成は魔力と魔法を形作る何かしらの『意味ある言葉』で成る。音ではただ魔力を放出しただけだ。まあ、それも原初の一族なら違うのかもしれないが。
「大気の流れ、流転の息吹、刃を纏いし天空の踊り子よ……」
構成は完成した。目を見開き、杖先についた宝玉が淡い光を放つ。と同時に、リーファは体ごと杖を大きく回転させた。
「舞え!」
杖の奇跡にしたがって揺れ動く大気と気圧。そして――
「グッ!?」
「そこか!」
全方向に放った真空刃に魔族がかかった。目の端に写る紅い一筋の線。リーファはそれめがけて間合いをつめた。右手が魔族の体毛を掴む。杖先が角の間にピタリと当てられた。
「我が言の葉にて誘わん! 猛き意志、深淵の灯火、猛火となりて邪を打ち砕け!」
「ガァァァァッ!」
魔族の額と杖の間で轟音と共に烈火が炸裂した。雄叫びを上げて吹き飛ぶ魔族を尻目に、リーファは素早く構え直す。この程度で死んだり引いてくれたりする相手なら苦労はしないのだが。
「おのれ……おのれぇっ!」
「ああ……やっぱダメか」
半ばげんなりしながら、リーファは咆哮を挙げる魔族を見やった。
魔族、神族という種族に心臓はない。脳もない。いや、実際はあるのかもしれないが、それが人間と同じ形、同じ場所にあるわけではないのだ。
もっと言えば、今目に見えている姿が本当の姿とも限らない。彼らの住まう次元、いわゆる『魔界・神界』と、その他の種族が住まう次元は根本的に違うらしく、彼らはこの次元で存在しやすい姿をとっているに過ぎない。
上級者が人間の姿をとるのは、この次元で人間が一番過ごしやすい形なのだろう。
つまり、魔族・神族を死に至らしめるのは容易ではないということだ。人間の急所のような物の変わりに、彼らにも『核』と呼ばれる部分があるのだが、如何せんそれを見つけるのがまた簡単ではない。
「ちまちま攻撃してたら核に当たるまで時間かかるし、かと言って蒸発させるような魔法使ったらこの場所で何が起こるか……」
う~ん、とあまり困っているような顔をせず唸るリーファ。その時、ふと先程までとは違う圧迫感を感じた。
「何だ?」
ざわりと揺らめく木々の葉。それが次々と枯れ、大地に降り注ぐ。いや、大地ですら、まるで生気を奪われたかのように黒く染まりひび割れていく。
「これは!?」
異様な光景に顔を魔族に向ければ、そこにもまた不可解な光景が広がっていた。
「ユル……サン……ユルサアァァァァン!」
「っ!」
魔族が咆哮した途端、突風がリーファを襲った。咄嗟に顔を覆う。薄く開けた目に見えたものは、信じられないほど体毛が伸び、筋肉が隆起した魔族。体毛は生き物のようにうねり、その深紅の目は、すでに自我を失っているように見える。
「まさか……暴走してるのか?」
こちらを気にもせず幾度か咆哮を上げる魔族。彼らは、命ある者が発する負の感情を糧にして生きている。下級の者は吸いすぎてこのように荒れ狂う場合もあった。だが、中級の魔族が、しかも先程までまともだった魔族が、いきなり暴走することなど――
「まずいっ」
突然、魔族の体毛がこちらに襲い掛かってきた。それを横に飛んで避けた瞬間、体毛の通った空間がぐにゃりと歪む。高密度の魔力のぶつかり合いで、空間に影響が出たのだ。
ここにいては歪んだ空間に引きずりこまれ、あらぬ所に放り出される可能性がある。最悪歪んでできた時空の狭間に一生閉じ込められてしまう。
リーファは迷いもなく駆け出した。魔族を倒すより、この場から逃げる方が優先だ。
「ガアァァァァァ!」
「なっ!」
咆哮と共に飛来するのは無数の炎の球。逃げながらもそれを捉えてしまったリーファは、影響を起こさない程の魔力を杖に溜めて受け流す。が、それを流した後に迫る魔族。
この程度の魔力でしのげるわけがない。そう判断した時、リーファはいつもと同じ行動をとってしまった。
「我が言の葉にて紡がっ…………あ」
時すでに遅し。
防御魔法のために練り上げた魔力が、ぎりぎりで保っていた空間に最後の活を与える。
「さ、最悪……」
目前に迫っていた魔族の顔が歪む。地面を踏みしめていた足が中空に投げ出される。
ぐにゃりとした空間に意識を飲まれながらも、リーファは最後にきっちりと吐き捨てた。
「魔族ならもっと負の感情に強くなっとけ、馬鹿野郎!」
ぅ・ぅ・ぅ・ぅ……と哀れなエコーを残し、数秒後、樹海の中には静寂が戻った。