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第五章(3)

 どんよりと重苦しい空を見上げながら、アウリュは自分の腕を見た。黒の服に覆われた手。その手が一瞬、見えないはずの地面を透かして見せる。

 グッと握れば、まだ感触がしっかりとある。それに、知らず安堵の息が漏れた。


「アウリュ……?」


 かけられた声に顔を上げた。すぐいつもの無表情を作り、駆け寄ってくるレイチェルを受け止める。


「ビックリしたわ。家の前に黒い塊がいるんだもの。誰かがゴミを置いたのかと」

「お前……」


 あまりの言い草に、さすがのアウリュも顔を顰めた。仮にも魔王であり恋人をゴミとは。


「冗談よ。でもビックリしたのは本当。いつも来ていたって姿隠してるでしょ」

「ああ……。まずかったか? 人の気配はちゃんとないことを確認したんだが」


 少し言いよどんでから告げると、レイチェルは考え込む仕種をしながら笑った。


「ううん、大丈夫。ごめんね、来ると思ってなかったからちょっと遠出しちゃったの」

「いや、かまわない」


 最近は見えないが、レイチェルの笑顔は暖かな日差しのようだ。それが見れたことに、アウリュも表情を和らげた。

 この間はずいぶんと情緒不安定のように思えたが、今はいつもの明るさを取り戻している。何か吹っ切れたような、不安を全て払拭したような顔だ。


「どこに行っていたんだ?」

「ん~、ちょっとお医者さんに」


 目線を逸らして言うものだから、アウリュは咄嗟にその顎を掴んだ。紅色の瞳でじっと見れば、レイチェルは後ろめたそうに顔を背ける。


「どこか悪いのか?」

「違うわ。どこも悪くないわよ」

「だったら、どうして医者に?」


 目を右往左往させて煮え切らない態度に、アウリュの声はいつもより低くなった。

 だが、さすがはレイチェル。魔王を恋人にしているだけはあるというものだ。アウリュの怒気もなんのその。反対にこちらの頬に触れてグッと顔を近づける。


「今度来てくれたら、その時ちゃんと話すわ」

「……今じゃダメなのか?」

「今度、よ」


 レイチェルの目が、譲らないと言っている。こうなってしまえば、彼女は頑として言わないだろう。そういう頑固なところはレイアにそっくりだ。


「分かった」

「ふふ、ありがとう。ねえ、何か飲む?」

「いや、すぐに行かなければならないんだ」


 軽く首を振ったアウリュに、レイチェルはピタリと止まり、すぐに動き出した。


「そっか、残念。もっと早く帰って来れば良かったわね」

「顔が、見たかっただけだ」


 どこに、と彼女は聞いてこなかった。気にならないのか、それとも、また会う約束をしたからそれで良いと思っているのか、レイチェルの顔からは読み取れない。


「私も、顔が見れて嬉しかった。また来るんでしょう?」


 そっと胸に顔を寄せられ、当たり前のようにアウリュは彼女を抱きしめる。


「ああ、お前の秘密を聞かなければならないからな」

「楽しみにしてて」


 そっと見上げてきた顔に口づけを一つ。次の瞬間に、アウリュは別の場所へと転移した。

 今度は重い空気の雲の中。黒く淀んだそこに、穢れを知らない白の王が現れる。


「良いんですか? もう少し一緒にいなくて」

「まだ、俺には時間がある。今は、見届けなければならんだろう」


 翼を広げ、目指すのはあの幼き女王がいる国。


「そうですね……」

「行くぞ」


 悲しげに微笑するアースと共に、アウリュは飛んだ。先程抱きしめた温もりを、しっかりと記憶の中に刻み込んで。




   ※ ※ ※ ※ ※



 ピチョンッと冷たい滴に、カルロの意識は現実に戻ってきた。体を動かそうとして、忘れていた全身の痛みが一気に押し寄せてくる。


「ぐっ」

「お兄様!」


 起きたことに気づいたエレミルが、その細腕で体を支えてくれた。まだ焦点の合わない目で彼女を見やり、特に外傷がないことに安心する。


「エレミル……ここは?」

「地下牢です。バラン達もあそこに……」


 薄暗い明かりの中に浮かんだのは、冷たい石の壁と鉄格子。向かい側の牢にはバラン達も押し込められていた。

 鉄格子の傍に這い寄って外を見れば、他の牢にもカルロについた者達が入っている。捕まっていない者もいるようだが、極数人だろう。


「バラン……大事ないか?」

「は、い。何とか……」


 簡単な治療は施されているのか、彼は答え返した。

 王子としては無縁だった牢屋。自分の入っている一室を見回し、カルロは気づいた。端に汚い布をかけられて横たわっている人物がいる。


「父上!」


 動かない左腕を支えながら近寄ると、彼はうっすらと目を開けてカルロを見返した。ぎこちなく動いた手が、カルロの頬についた泥を拭ってくれる。


「申し訳ありませんっ、父上。貴方まで!」

「良い……」


 掠れた声。それでも、父の声は温かかった。


「エレミル、今外がどうなっているか分かるか?」


 問いかけるカルロに、エレミルは力なく首を振った。


「いいえ。お兄様は三日ほど眠っておられたと思います。外が見えないのでどれぐらいの時間が経ったかは……」

「アレネスへの侵攻は?」

「それは、まだかと。つい先程、イラついているザーグの声を耳にしましたから」


 ということは、おそらくザーグが思っていたほど素早い進軍ができていないのだろう。アレネスの結界や守りが、予想以上に強固なのだ。


「お兄様、左肩を」


 エレミルはそう言って、胸につけていた飾りを右手で握り、左手をカルロの肩に当てた。


「地をなぜる風は癒しの息吹となれ……」


 エレミルが呟くと同時に、左肩が温かくなり痛みが引く。エレミルは攻撃魔法より、防御や治癒魔法を得意としていた。持っているのは杖と同じ働きをする宝石だ。


「隠していたのか?」

「ええ。これだけは常に。お役に立てて良かった……」


 涙ぐむ妹の頭を抱きかかえ、カルロは考えをめぐらした。

 まだアレネスに侵攻はしていない。アレネスの方も動いていないのだろうか。争うつもりはないのか。だが、降伏することもないだろうと思う。


 あの国の女王は強い。民を守ることを一番に考えるだろう。自分ならどうする? 守るために争うか? それとも――


「何とかして、ここを出よう……」

「お兄様? ですが……」

「バランは軍がアレネスへ入れば、僕を殺しに来ると言った。その時、この牢は開く。こんなに狭い場所に来るんだ。供も少ないだろう」


 声を潜め、見張りに聞えないよう呟く。エレミルに言っているというよりは、自分の計画を自分に言い聞かせているようだった。


「でも、それはアレネスへ侵攻できた時。もう争いは始まっていますっ」

「いや……きっとそれはない」

「え?」


 なぜだろう。カルロには分かった。あの女王は戦わないと思った。民に犠牲を出させないだろうと思った。会談の時、彼女と正面から向き合ったからだろうか。レイアという女王が取る行動を、カルロはどこかで確信していた。

 戦いは起こらない。なら、自分がするべきことは侵攻しているアフィルメス軍を引かせることだ。この牢から出て、あのザーグを倒して。


『非情になること、切り捨てること、利用すること。今のカルロに足りなくて、持たなくてはならないものだ。それを教えただけ。これが、俺がお前に教えられる最後のことだ』


 別れ際に、リーファからもらった最後の教え。カルロはそれを思い浮かべ、両の手をグッと握った。


「エレミル。お前は父上の傍についててあげて欲しい。その時が来れば、僕が何とかする」

「お兄様、でもっ」


 彼女は、おそらく自分が何をするか感じ取ったのだろう。今までなら人任せにしていたこと。命令し、時にはリーファがやっていたかもしれないこと。

 それを、この手でやることになる。


 無意識に震える拳を、カルロは大きく息を吸うことで止めた。

 怖い。失敗するかもしれない。助けて欲しい。そんな感情が胸の内で渦巻いている。けれど、カルロはもう決めていた。


(今僕が命を賭けなくてどうするっ。怖がっているだけじゃ、自分のやるべきことから逃げてるだけじゃ何も守れない!)


 目の前にいるのは、大切な父と妹。そして、カルロを信じてついてきてくれた部下であり、大事な民だ。そして、アレネスに侵攻しようとしている彼らも、カルロが守るべき民に変わりはない。

 無闇な殺生をさせてはならない。誰もが笑っていられる国を造りたいなら。


「リーファ……」


 今、リーファはあの女王を助けようと動いているはず。そういう男だ。それなのに、彼を尊敬している自分が何もしないままなんて、今度会った時に格好がつかない。


「約束は、守る」


 必ず、彼も暮らせる国にすると。そう約束した。

 カルロは決意し、作る。王子の仮面でもない。ただのカルロでもない。一国の、誰よりも尊敬される治世者としての顔を。


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