第三章(2)
数ヶ月ぶりに帰ってきたアフィルメスの首都・アルメリア。中心部に立てられた城に懐かしさを覚えつつ、リーファ達は城内へと通された。
見慣れた回廊を横切り、会談の場であろう部屋へと向かう。
城の者達からの奇異な視線。何やら感心したような家臣達の声。そしてその中に混じる、畏怖と侮蔑をあらわにした気配。それらは全て、レイアに向いている。
彼女の斜め後ろを歩いていたリーファは、そっと横顔を窺った。
威厳のある顔つき、そう言えば聞こえは良いだろう。しかし、普段のレイアを知ったリーファにしてみれば、人形めいた、感情も何もないただ人の形をした何かに見えた。
(必要なこと、っていうのは分かってるんだけどな……)
この城の王子、カルロも時にこういった顔をする。それは頂点に立つ者として必要だからだ。他者に舐められないように、誰からも頂点に立つ者として認められるように。
だがカルロの場合、リーファや親しい者の前では極普通の少年に戻っていた。よく笑い、よく怒り、よく泣き、当たり前の感情を当たり前に出していた彼。それに対して、レイアはどうだろう。
彼女は笑う。優しげな微笑をよく見せる。恥ずかしがりもする。顔を真っ赤にして声を高くしたこともあった。けれど、一つ間をおいた後に見せるのは、どこか悲しげな笑み。
(それに、泣いてるところは見たことないな)
どれほどに悲しそうな笑みを見せても、どれほどにおかしいと感じても、彼女の泣いた姿は見たことがない。
今、女王の仮面を被っているかのように、笑顔という名の仮面を被る。
リーファは、時々その笑顔に憤りを感じていた。彼女がリーファを長年の親しい者と同様に扱い、微笑みかけてくれるからこそ、本来の姿を見せてくれないことが、少し、苛立ちを募らせていた。
「こちらでございます」
案内役の男の言葉に、リーファはハッと視線を戻した。目の前の扉。謁見の間ではない。まして、王が賓客を招くための部屋ですらない。普段、家臣が上客の接待をするために用いていた部屋だ。
(……ちょっと待て、ってことは)
考えたのもつかの間、案内役が扉を空ける。
レイアが一歩目を踏み出すより早く、内側から言葉がかけられた。
「お待ちしておりました。アレネス国女王、レイア・フィル・ジ・アレネス様」
これでもかと言うほど腰を折り曲げ、けれど言葉の端にどこか見下したような色を滲ませた男。彼が顔を上げると同時に、リーファは唯一外に出ている目をスッと細めた。
「アフィルメス国宰相、ザーグ・ジュラルと申します」
どちらかと言えば背は低く、初老の域に入った男。ただし、目の輝きだけはその年に似合わぬギラギラしたもの。
怪我をした前国王を助けたのが出会いだったと言う。魔法の才もあり、旅人だったザーグは見識も広く、彼を重用したと聞いた。リーファとて、その才能は認めていた。
彼が変わったのは、おそらく先代の王が亡くなってからだ。
レイアはすぐに答えを返すのかと思いきや、部屋の隅から隅までを眺めた。その行動に誰も口を挟めぬまましばしの沈黙。そして、彼女の目がザーグに向けられる。
「失礼ですが、国王陛下は?」
口を開いたのはレイアではなく、マルファスの方だった。レイアもザーグから視線をはずさぬまま、それが自分の言であることを暗に伝えている。
「……陛下は病床に臥しておられ、全てこの私が代行させて頂いております」
「アフィルメス国は王子、カルロ殿下がおられたはずですが?」
間を空けぬマルファスの切り替えしに、ザーグはうっすらと笑みを見せた。まるでその質問は最初から予期してたかのように。
「本日、殿下は所用で外に出かけられております」
「わざわざアレネス国から女王陛下が参られたというのに、アフィルメスの王族はそれよりも大切な用事がある、と?」
「何分、カルロ様はまだ若く……不勉強な部分がございまして」
そんなわけないだろう、とリーファは叫びそうになった。
カルロに勉学を教えたのは自分だ。基本的な教育も、魔法に関することも、ましてアレネス国の重要性を話さなかったわけがない。何より、カルロは優秀だった。自分がどう動くべきかよく分かっている青年だった。だからこそリーファも国に彼を残し、出たのだ。
(こいつ……っ!)
ザーグはすでにカルロに何らかの手を出しているのかもしれない。国王と同じように、動けない状況にしているのかもしれない。
その思いに焦り、リーファは口を開けようとした。だが、一瞬早く、沈黙していたレイアが言葉を発する。
「つまり」
静かな、淡々とした冷たい声に、リーファを含め全員の目がそちらに向いた。
「つまり、その王子殿下を諌めることもできない方と、私はお話しするのですね」
「は……?」
さらりと言われた言葉に、ザーグが固まる。その脇をするりと抜けて、レイアは当たり前のように上座に当たる席に座った。その隣にマルファスがつき、後ろにディルス達が控える。一拍遅れたリーファも、慌ててレイアの斜め後ろに立った。
「時間がもったいないですね。お話を窺いましょう。宰相殿」
レイアはわざと『宰相』という言葉を強めに言った。『ザーグ』という個人名も用いない。視線と言外に、『貴方は王ではない』『貴方個人に興味はない』という意味を込めている。
ザーグは一拍をおいて彼女が含めた意味に気づいた。一瞬、カッと顔に血が上り、動きそうになった手を握り締めて止めている。
こんな小娘に。そう憤った感情が目を通して伝わってきた。
だが、対するレイアも態度を変えない。ザーグに視線は向けず、座るのを促すように向かいのソファを見つめるだけ。
リーファはちらりと目だけをレイアに向けた。この角度では彼女の表情を窺うことはできない。けれど、きっとあのキラキラとした銀灰色の瞳は、今、冷たい色しか宿していないだろう。そう思うと、リーファはなぜか悲しくなった。
「では、失礼いたします」
向かい側に座ったザーグ。レイアの気迫に負けじと背筋を伸ばし、ギラついた目を真っ直ぐ彼女に向ける。
話の内容、ザーグの視線、陰謀。それらを決して見逃すまいと耳や目を過敏にさせるリーファ。それでもふと視界に入るレイアに、悲しさと、怒りにも似た不可解な感情が生まれていた。
※ ※ ※ ※ ※
首都アルメリアの上空。決して肉眼では捉えることのできない雲の中。そこに、アウリュとアースの二人がそろっていた。
黒でもない。白でもない。暗鬱とした色の雲。ぐるりと周りを包む雲を見回して、アースが口を開いた。
「負が……ずいぶんと大きくなりましたね。魔族の方に変化は?」
「多少、な。傷の回復に負を取り込もうとした者が、予想以上に取り込み自滅している」
ふぅっと息をついたアウリュ。らしくない、と思いながらも自滅した魔族の数は今も増えている。魔王たる身は、自然とそれを全て把握してしまうのだ。
「神族は?」
「こちらはさほど。ただ、やはり息苦しさや動きづらさを感じる者が増えています」
神族は正の感情から、魔族は負の感情から生まれ、それぞれを糧として生きている。命ある者が発する真逆の感情。それを取り込むことで神族と魔族は生き、人間界のバランスは保たれている。ゆえに、正と負、どちらが増えても減っても、異変は起こってしまう。
ただ、今の状態は常の増減とは比較にならない。そう思いながら、アウリュは雲の先、遥か下方にある城へと目を向けた。
見えなくとも、そこにあるレイア達の気配は手にとるように分かる。
「だが、人間ほど感情に振り回される生き物はいない」
原始の王が、わざと人間をそういう形で生み出したのか定かではない。しかし、人はこの世に存在する種族の中で、最も感情豊かであると言える。良い意味でも、悪い意味でも。
他の種族が、最初から妙に仲間意識が強いか、無頓着かの二つに分かれているのに対し、人間は利や感情の良し悪しによってその態度を変えることがある。生と負の感情に振り回されやすいのだ。
「そうですね。今も、望まずに振り回されている者達がいる」
「意志が定まらぬ者、負に近い感情を多く抱いていた者は、顕著に影響されるからな」
多感であるからこそ、他の種族に比べいち早く影響を受けてしまう人間。
最近では、負に圧倒され暴挙を働く者、情緒不安定な者が大量に出始めた。それは、あの城の中でも同じこと。
精神訓練を受けている魔導士や、戦士はまだ大丈夫なようだが、それもいつまでもつか。
アウリュは黄金の目がついた左手を、グッと握った。
「自分のせいだ、と考えたりしていますか?」
アースがこちらを向いた。見えるのに、おそらく一生光を見ることのない白い布に覆われた彼の目。それでも、アースはしっかりこちらを捉えている。
「人間の間で戦争が起こらなければ、レイアの両親が生きていれば、レイアがもう少し早く生まれていれば、貴方が彼女に……レイチェルさんに会わなければ、と」
言われて、アウリュは少し顔を背けた。思わなかったことがないわけではない。
アースはそんなアウリュを見て、しばらく黙っていた。そして、ゆっくり手を挙げて頭を撫でてくる。それは、親が子に、兄が弟にするような仕種。
アウリュは少し目を見開き、アースを見返した。
「もし、と思ってしまう心は止められないでしょう。ですが、私は『今』を間違っていたと否定して欲しくはありません。そんなことを言えば、レイアも怒りますよ」
アースの口元が微笑した。
想像すれば、容易に浮かんでくるあの幼き女王の怒り顔。きっと小さい時と変わらず、ぷっくりと頬を膨らませ、怖くない瞳で睨んでくるのだろう。
苦笑して、まだ頭を撫でていたアースの手をゆっくりと退ける。
彼は神王、自分は魔王。対極に位置し、容姿も性格も、率いる種族すら違う二人。
それでもアウリュは、アースが己の兄弟で良かったと思った。
(こんな感情を抱くようになったのも……あいつのおかげか)
不意に浮かんだ、愛しいと思う少女の顔。それと同時に、アウリュは下に目を向けた。
「アウリュ?」
「いや……」
一瞬感じた、レイチェルの気配。だが、この大国に彼女の気配があるはずはない。郊外に住んでいるが、生活に必要な物は近くの村か町で事足りると本人が言っていた。いくらなんでも、魔法と軍事に強いこの首都までやってくる理由はない。
アウリュはそう考え、気のせいだと結論付け、城に目を向けた。
「ところで、レイアの期待はあの王子に届くのか?」
「どうでしょう。けれど、彼が前を見なければレイアの頑張りは無駄になる。あの王子は、この先の礎として重要な人です。同じ過ちを繰り返さないためにも……」
レイアと話している宰相。そして、未だ部屋から出ようと奮闘しているこの国の王子。
この二人、考え方は違うが、共通している部分もある。
(負に捕らわれ、さあ、どうする?)
己でも気づかぬ奥底の感情をさらけ出し始めた二人。レイアは、王子である青年に会いに来たのだろう。彼女の知っている未来に、あの王子の力が必要だと判断したから。
「部屋から出るのに、少し協力してあげましょうか」
「…………神や魔が、あまり干渉するのは良いことではないはずだが?」
「バレなければ良いでしょう?」
朗らかに言ってのけるアースに、アウリュは少し眩暈を覚えた。
魔族も神族も、人間の上下関係がどうなろうと知ったことではない。ただ、アウリュとアースにとってレイアは親しい人間だ。そして、できる限り力を貸したいとも思っている。
その気持ちは分かるのだが、ここまで軽い神々の王で良いのだろうか。
「……細心の注意を払え。アフィルメス国に神がついた、などとなっては面倒だ」
「もちろんです」
嬉々として力を貸し始めたアース。アウリュはそれを確認しつつ、レイアの傍に立つ青年にも目を向けた。
宰相の男に注意しながら、レイアにも目を向け、何事かを考えている金髪の青年。
「せめて、お前にだけは知ってもらわねばな」
そう、小さく呟き、アウリュはもう一度、左手をきつく握り締めた。




