彼岸の White lie
プー、ブォ……
ウァァー、
小川の土手沿い一面に咲く彼岸花に囲われ、一本のトロンボーンが鳴る。
しかしながら、これは到底上手い演奏には聴こえなかった。舌突きが甘く音滑りしている。音の連続する箇所の小節を何度も繰り返し練習しているようであった。
マウスピースから一度口を離すと呼吸を整え、少女がもう一度トロンボーンを左手で担ぐ様に構え管を僅か下向きにホールドする。
プー、ブォ……
ウァァー、
変わらず間の抜けた怪音が辺りに鳴り響く。
──くすり、
背後で吹き出し笑う声がする。驚いた少女が演奏を止めて振り返った。
「あ、いやゴメン。邪魔しちゃったかな?」
青年が一人、カジュアルなサイクルウェアにレーサーパンツという恰好が如何にも自転車乗りという感じだ。
その姿を見た少女が──
つうっ、とその頬に涙を流した。
「えっ!ちょっ、ゴメンて!本当、笑って悪かった!」
「……?」
少女が自分の頬を撫でる。
私、なんで泣いてるんだろ?
「俺、楽器の事なんか全然知らないのに失礼だよな!難しそうだし、ソレ」
「……あ、いえ……私こそ、急に泣いたりして、すみません」
学生制服を着た少女が茫っと青年を眺める。
その透き通った瞳にだろうか、はたまた少女を泣かしたことにだろうか、思わず青年がどきりとした。
「な、何かな?」
「初めて、会いましたよね?」
「そうだと思うけど……」
それに自分には見知った学生で後輩など、しかも女子生徒となれば過去にも居た試しがない。
異性の交友範囲に関してはいつでも極めて局所的だ。
「その制服、御鏡第二だよね?」
「私の学校、知ってるんですか?」
「俺、その辺り地元だよ」
少女が意外だという顔をする。
「こんな離れたところで、ご近所さんに出会うとは思いませんでした」
「はは、そうだね。でも俺、高校は明京まで通ってたから第二に後輩なんて居ないよ。それもこんな可愛い子」
「えー、田舎の町まで歳下をナンパしに来たんですか?」
「いやいや!そうじゃないけど!」
青年が慌てた様をすると今度は少女がくすりと笑う。
やり返してやったと言わんばかりか。
「冗談ですよ」
「……あー、いやぁ、参ったね」
青年が少女から視線を外し川辺りに沿って群生する彼岸花に目をやる。
秋風が立ち、赤い散形花序の列が波打ちグラデーションを奏でる。根も茎もしっかりしており風が止むと直ぐにしゃんと元の位置へ戻った。
「あっ」
すると少女が突然はっとして、側にあるトロンボーンのリュックケースへ颯爽と駆け寄る。
蓋を開けるとけたたましいアラーム音と携帯の振動が鳴っていた。青年の立つ場所にもそれはよく聴こえた。
「いけないっ、遅刻しちゃう!」
「学校?」
制服を着ているのだからそういうことだろう。
「アラーム設定しておいたのに……ケースの中に入れちゃってて音が聴こえなかった……」
「ここから遠いの?」
「歩いて三十分はかからないとは思いますけど、それくらい……今からだと間に合わないかも……」
「ちょい、待ち」
言うと青年が近くのカラマツに立て掛けていたロードバイクを側の車道まで転がしてくる。秋に入ったが紅葉には早く針葉樹にまだまだ青さがあり、薄ら茶色が色づき始めていた。
バイクの芯になっているトップチューブの下に括り付けていたポーチから足置きを二本取り出すと後輪の両脇にそれをレンチで締め付ける。
「立ち乗りだけど、後ろに乗りなよ。スカート、後輪に巻き込まないように気を付けて」
「え……でも、二人乗りって違反なんじゃ……」
中学生以上の自転車二人乗りは道路交通法違反になり三千円の罰金となる。
が、
「こんっっなド田舎でそんな心配する?このままだと学校に遅刻しちゃうんでしょ?」
「そうだけど……」
それに男の子と自転車の二人乗りなんて小学生の低学年以来だ。
正直、少し気恥ずかしい。
「俺のせいで遅刻させるのはなぁ……」
「いや、別にそうじゃないですよ!えっと……じゃあ、お願いしますね」
行ってトロンボーンをリュックケースに収めるとそれを背負い込み少女がハブに足を掛けた。
シルバーウィークに入り昌原優斗は念願の、とは正直大袈裟ではあったが坂登りに初挑戦した。
実は自転車乗りとしてはまだ日は浅く、最初は近所の御鏡市内のサイクリングコースをぐるぐると回る程度だった。就職してから最初の一年、趣味といえば撮り溜めしたアニメ観賞と部屋に並ぶキャラクターフィギュアの収集に誰もチャンネル登録しないようなマイナーなゲームプレイ実況動画をネットに上げるなど、優斗は正しく二次元オタクで休日に外出する事がほとんど無くなってしまった。ふとこれは不味いと思い立ち、高校時代の友人が最寄り駅近場のディスカウントショップで社員をやっていると言うので有名メーカーの一台を新品同様のアウトレットで安く仕入れて貰えるよう頼んだのだ。
「じゃあ優斗さんは、権現町の途中のイロハ坂を登るのが目当てで此処に来たんですか?」
足置きに立ち乗りし優斗の肩に手を掛ける常之瀬凛音が風を受け、学校のある方角を眺める。
目的地の近くまで後は緩い下り坂だったのが二人乗りする優斗の脚にも幸いしていた。
「そ、だから権現町に着いた時点で俺の秋休みほとんど終わりなんだけど」
「観光でこの辺り、彼岸花でちょっと有名ではありますよ」
「それも自転車旅行ついでに見ようかなってね。民宿で一部屋借りてて明後日帰ろうと思ってる」
「あー、じゃあ私達と同じ頃に御鏡市に帰りますよ」
少し蛇行しながら速度を落とし、そろそろ視界に入って来ている木造の古い校舎を目指している。
意外と早く着き凛音の遅刻は免れたが、二人共直ぐに解散するのが何処か惜しい気になっていた。
「こっちの学校、生徒が少なくって」
「そりゃ、そうだろうね」
「それで御鏡第二の吹奏楽部がシルバーウィークに合同練習でこっちに来たんですよ。協奏楽器が少ないからかさ増しっていうか」
「あー、それか」
御鏡市から伸びているローカル路線だが、西東京の某霊山入り口までが最終駅でその奥の権現町までは道路車両でしか入って来れないだろう。
地元から優斗は自転車一本でここまで来たが、凛音の場合は学校の送迎バスに乗って来た。
「?……『それ』かって?」
一瞬、優斗が口を噤んだが、
「いや、まぁ大して面白い話しじゃないよ」
「聞きたいです」
「ホント、つまんない話しだよ。聞いたらきっと白けちゃうって」
この話題を切り上げようとする優斗に、すると凛音が少しむくれ、しかし自転車の後輪に乗るせい優斗が彼女の表情に気付かない。
それを分からせてやろうと、
がばっとペダルを漕ぐ優斗の背に抱きついた。
「うぉっ!ちょっと、真っ直ぐ立って!」
「ほら、話さないと危ないですよ?」
仄かにフリージアの甘く柔らかい香りがした。
トロンボーンまで背負い込んでいるせい、重心が前のめりになる。
「分かった!分かったから!真っ直ぐ立って、凛音」
「殊勝ですね、優斗さん」
ようやく凛音が優斗の背から身体を離す。
少し勿体無い気がしたが、
「あのな……」
平静を装い、
「で、何ですか『それ』って?」
「……まあ、夢を視て、さ」
「夢、ですか?」
思い出す様にして優斗がゆっくりと、この下り坂でブレーキを強めていく。
学校までの時間は充分にあった。
「権現町に着く前にイロハ坂を登るだろ?」
曲がりくねる坂道の総称が『イロハ坂』だ。
「……はい」
「そこで下って来た走り屋の車に跳ねられて崖下に突き落される夢を視ちゃってさ、寝覚めの悪いこと」
「……」
ぎゅうっと、優斗の肩を掴む凛音の手に力がかかった。
──知ってる。
「それだけなんだけど」
「嘘」
知ってる。
「え?」
「なんでも、ないです」
その夢には続きがある。
凛音は、知っていた。
古い木造の校舎、その足元まで着いた二人。
仕切る柵の無い正門だけの正面玄関口に掲げられた銘板には町立権現中高等学校の名が記されていた。
「此処まで、ありがとうございました」
「いや遅刻しなくて良かったよ。じゃあ俺は行くから」
名残り惜しさはあったが優斗には凛音を引き留める理由も特になかった。
行こうとしてペダルに足を掛けようとすると、
「あのっ!」
凛音から強く声をかけられる。
「な、なに?」
「私、明日も朝は同じ時間にあの小川で練習してますからっ」
来て欲しいと言っているのか?
彼女のあどけないが、真剣な表情に思わず胸が締め付けられるようだった。
「権現町に居る間のシルバーウィークの中一日だけ休みなんです、だから……」
「分かった、行くよ。君の演奏をもうちょっと聴きたいなと思ってたし」
また嘘を吐く。
凛音がむぅっと優斗を上目遣いで睨見つける。
「本当、ホントだって」
目の泳ぐ優斗が凛音から視線を外しまだ紅葉には染まらない秋の初頭の山々を眺める。
けれど彼の嘘は優しい白い嘘だ。凛音はそういう嘘になら幾らだって塗れてもいいと思った。
「私、優斗さんと行きたい所があるんです。だから……」
「?」
「自転車、乗って来て欲しいです。また優斗さんの後ろに乗りたい」
あの夢の続きは──
曲がりくねる坂を走る暴走車が自転車に接触し跳ねた後、事故から逃げる様にして更にスピードを上げて坂道を下降し、
学生を乗せた送迎バスと衝突した。
優斗はそれを凛音には言わなかった。
けれど凛音はその夢を知っていた。
彼が視た夢と同じものを彼女もまた視ていたのだ。
「おいっ、バイト!編集部のリスト作ったか!?」
「……あ、はい。出来上がってます」
「声小さいぞ、とっととそれ寄越せ!」
昌原優斗の仕事はいわゆる『ジョブ管理』だ。
大手出版社に派遣され就業先の内部事業とは異なり、手の回らない顧客(出版社側)のスケジュール・フロー・報連相の管理を肩代わりする。
「俺が届けましょうか?」
「あ゙?バイトが何言ってんだ」
誠意のつもりで言った。
先輩の指導役が明らかな拒否を示した。業務指示リストを作成したのは優斗だったが、編集部は出版社の中でも花形部署だ。手柄を持って行き彼らに「自分がやりました」と見せつけたいらしい。
こうやって成果を横取りし新人を何人も辞めさせて、のうのうと自らは現場に居座って来た者だ。優斗を「バイト」と罵り能力の低い扱いに仕立て上げ、いつでもマウンティングが絶えなかった。
就職に焦ったのが運の尽きだ。
実家の父はアルコール依存症で物を投げつけるなど家庭内での爆発が頻繁だった。とにかく理由の無いところでキレた。酒が無くなってもキレた。高校が私立だったせい、学校が休みの日になるだけで「お前のおかげで金がかかるんだ」とキレた。無駄な車や家や土地を持とうとして、それを母と止めようとするとキレた。
そのくせ肝臓が悪いのを理由に仕事を休みがちで「お前らに飯を食わせてやっているのは俺のおかげだ」と怠慢な態度だ。生活費はほとんどを母のパートと母方の実家からの借金、半ば国から騙し取っているような医療保険。
市営団地に住み「こんな貧相な団地に住まなきゃいけないのはお前達を抱えて生活しているからだ」と毎日のように周りに責任を擦り付ける。
奨学金を当て何とか高校を卒業したが優斗にはその先での就職が必須だった。
いつかささやかに就職出来た時、家を出て貸与型だった方の奨学金を返済しある程度の薄給でも慎ましく生活出来ると、そう思っていたのだが。
派遣会社に雇用されたが就業先の派遣チームが悪かった。恐らく彼一人で何人もそして何年も新人を辞めさせてきたに違いない。
その最初の一年、優斗は密かに別の『準備』を始めた。
民宿を出てロードバイクに跨る。感触は依然として良い。アウトレットだが新品さながら、というよりコレはただディスプレイされていただけの未使用の一台だから当然だ。
今日も後輪に凛音を乗せる。車体を見回し異常が無いことを確認すると、風を切るように発進した。
昨日の小川に着いたがトロンボーンの音は聴こえてこなかった。
変わりに川辺りからはさらさらと風に煽られる彼岸花の葉擦れがこそばゆく鼓膜に触る。
いないのか?
優斗が辺りを見回すと──居た。
まだ遠く、昨日よりもっと小川の水面へ近付き静かに立っていた。学生服がこの田舎町の自然の中でこと目立つ。
「おはよう、凛音」
その側に寄り声をかける。
「おはようございます、優斗さん」
振り返り朝の挨拶をする凛音に優斗が心無しかほっとしていた。
昨日、初対面で急に泣かれたことがどうにも脳裏にこびり付いているらしい。
「今朝は楽器、練習してなかったの?」
「あー、そうですね……」
凛音が少し言い難そうにする。
「二人乗りしてもらうのに、荷物持つのも悪いかなぁって思って……」
「なるほどね」
「あー、優斗さん今私が練習サボったみたいな笑い方した!」
「いやしてない!してないって!」
「向こうに着くまでに登ったり下ったりして大変かなと思って気をつかったのに〜」
遠いのか?
気になったが、
「……迷惑でした?」
「いや、そんなことは……」
どうせこの田舎町では他にやる事もない、という優斗だったが、それは凛音も同じではないのだろうか?
恐らく彼女がこの権現町に来るのは高校一年の頃から吹奏楽部が権現町と合同練習している関係を考えても一度目ではないはずだ。
行きたい場所があると凛音は言った。
そこへは高校の友人達とは行かなかったのだろうか。
二人が昨日と同じ様に自転車に跨り、しかし今日の出発は緩い登り坂からの発車となった。
「んっ!と……」
凛音を後輪の足置きに乗せた初速の一漕ぎが重い。
「優斗さん、頑張れ〜」
背中から黄色い声援。
「速度が、乗ればっ……」
ギアをローから入り強くゆっくりとペダルを踏み込んでいく。
ちきちきとチェーンが音を鳴らし、然し流石に準新型のロードバイクだ。良い一品を友人に用意して貰った。
自転車が重さを感じないそこそこの速度に乗り始める。
「ふぅ……いやはや、正也に感謝だな」
「?」
「あー、コレ売ってくれた友人にさ」
「この自転車、知り合いから買ったんですか?」
「何でも売ってる店にソイツが働いててね。仲卸でわざわざ新品に近いやつを探してくれたんだよ」
背中で凛音が嬉しそうにしているのが分かった。
「優斗さん、良い友達がいるんですね」
「あんま、連絡取って無かったんだけどさ……まぁ、昔から良い奴だよアイツ」
田園風景の中を緩いアップダウンを繰り返し二人を乗せた自転車が進んで行く。
山岳の麓を流れる様に、彼岸花が小川に沿って群生するがまるでこの跡を二人が追っているようなそんな道程だった。
「学校の友達とは『そこ』には行ったことはないの?」
優斗が聞くと、
「んー、そこって……心霊スポットっていうか……」
「そうなの?」
「優斗さん、お化け苦手?」
「いや、全く」
視えないものを信じるような、そんな信心深さを持ち合わせてもいない。社会人になってから余計にその神仏を敬うような感覚は次第に麻痺していった。
それどころかこの世で最も怖いもの、それはやはり生きている人間なのだと、父や職場を反面教師にして優斗は学んだ。
途中から道が二手に、そして一本は山の方向へ分かれていた。
「そっちです」
進む道を示す手が優斗の視界に入る様、凛音が前のめりになりその背にもたれ掛かって来る。
後ろの首筋に彼女の髪が触れ、こそばゆい。
また一緒にフリージアの香りが鼻を突いた。
「山だよ、そっちは」
「そうですよ?」
いや、登りがキツそうだが?
目移りする程はある坂が優斗の眼前に広がる。
「そこまで奥には行きませんから、優斗さん!ガンバですよ!」
「うへぇ〜」
進む道は森林がより濃くなっていた。
確かに少し坂を登っただけで直ぐに視界は開けたが、同時にアスファルトの舗装もそこで途切れていた。
坂の入り口を森で囲われ奥が見えなかったが、いざそこ此処へ着いてみると辺りは少し森林を伐採され、二人を出迎えたのはトンネルと放棄された廃路線に駅名の無い造りの簡素な臨時ホームだった。
「此処に、来たかったの?」
優斗が深く暗いトンネルの先を見据える。
古く朽ちた枕木の上に錆びたレールが乗り遠くトンネルの奥にまで伸びている。その向こう側は全く見えない。
「この権現町に明治か大正ぐらいだかの伝承があって、ここがその出発点だって学校で聞きました……」
「伝承?」
「彼岸花、有名ですよねこの町」
遠方から正に今の時期が見頃であり、観光客の足もちらほらある。言ってみれば優斗もその中の一人だ。
見渡せばその辺りに自生している。川沿いに咲いているもののほとんどは水害防止に大昔の人達が植えた株が勝手に繁殖したもので本来、彼岸花は水場回りにはその生息を展開しない。
だが彼岸花は美しい散形花序の見た目に反して根は意外にも強固で土台を固める性質があり、また彼岸の時期には『川や海を隔てて魂が存在している』という宗教的な逸話があることから彼岸花をそこに植えることが好まれたのだろう。
「その権現町の彼岸花が同じ夢を他人に視せるっていう話しがあるんです」
「同じ、夢……?」
「そう『銀河鉄道の夜』みたいな……」
「宮沢賢治の?」
「知っていますか?」
「んー、まぁ、あらすじぐらいかな」
風が吹くと、こおっとまるでトンネルが鳴いているような底知れぬ異音を奥から放つ。
恐ろしい、とは思わなかったが確かに心霊スポット感はある。
「ここ、昔は山を開削する為の拠点駅だったんですよ」
「それが、何か夢と関係あるの?」
優斗は凛音とは目を合わせなかった。
「当時は山の採掘事故が多くて、それが彼岸の頃には作業員の皆が前日に同じ夢を視たんです」
「……それって、事故の?」
「そう、その予知夢を視れる事で多くの作業員が事故を未然に回避出来たんだって言う権現町の伝承です」
「いや、でもそれだと……」
銀河鉄道の夜は──
主人公のジョバンニからすれば星空の丘の上で視た親友カンパネルラとの夢の意識共有だが、
カンパネルラの視点で言えば死の間際の『臨死体験』をジョバンニに届けたものだ。
──採掘事故に見舞われた者が居て、
その者の臨死体験を残された人達が視た、という事になる。
「優斗さんと同じ夢を、私も視たんです」
「……」
「どうして……何も言ってくれないんですか?」
あの夢の続きを優斗は凛音には言わなかった。
それを言ってしまえば、きっと彼女は──
蠍は他の多くの虫を捕らえ、それらを自らが生きる糧とした。
ある時、イタチに襲われた蠍は必死に逃げ井戸の中に飛び込んだがそこから這い上がれなくなってしまった。
井戸の底から夜空を見上げ、これまで多くの生命を奪ってきた蠍は、今度は他の誰かの為の幸せを灯す光に成りたいと、そう願った。
その赤い星のように、ジョバンニとカンパネルラもまた同じ想いを銀河の旅で描いたのだ。
旅館で他の吹奏楽部の学友達と夕食を取った凛音だが部屋に戻る気にはなれず、独りでに夜の表へと出る。
小川に沿って咲く彼岸花を追って街灯は間隔が遠く、ほとんど月明かりだけの夜道を歩く。
温暖化とはいえ夜は流石にもう肌寒い時期になっていた。何か上に羽織ってくれば良かったなと今更、二手に分かれた道の山の方角へと入って行く頃に凛音が思った。
その廃駅だったはずの臨時ホームに──
一車両だけの電車が一本、静かに停車していた。
中に誰かが一人、乗車している。
いや、彼がそこに居ることを知っていて凛音は此処に来たのだ。
「優斗さん」
「……凛音?」
扉が閉まり、発車した。
あの職場で優斗は一年間、異動願いを出す為の『準備』を入念に行なった。
最初に何も用意をしなかった嘆願書は本社で簡単に弾かれた。入りたての新人が入社一年目で社会を甘く見、根性の無い事を言っていると派遣の人事部は職場のハラスメントを認めたくない様だった。
それから優斗はボイスレコーダーを持ち、業務で起こる会話の逐一を撮り、また出版社側の編集部の人達から合間を見て『ジョブ管理』に関する聴取を行なった。優斗の密かな動きに対し編集部の人達は好意的だった。派遣チームの新人がこれまでにも何人と辞めているのだ、就業先の人間にこそ不信を抱かれていて当然だった。
出来上がった証拠と資料をまとめて再び本社の人事部へと投げた。訴えるだとか損害賠償を請求するだとか大袈裟なことはない。ただ職場が異動出来ればいい。望むのはたったそれだけ。
その頃、世の中である大手総合広告会社で新卒社員のうつ病による過労死が報道され多くの非難を集めた。この後押しを受けて、優斗の訴えを恐れた人事部は遂にこの異動願いを受け入れた。
その時、人知れずささやかに優斗は会社に『勝った』のだ。
異動先で優斗は直ぐに新人の指導役に繰り上げられた。薄給は相変わらずだったが、着実に手取りは増えていた。新しい職場環境も悪くなかった。有給を消化する間も与えられた。
その有給をシルバーウィークに当て、優斗は権現町へとやって来たのだ。
発車した一本車両の電車が直ぐにトンネルへと入ると、明かりもなく中は真っ暗になった。
「嫌っ!」
凛音が耳を塞ぎ闇に恐れた。
がたがたと車両が窓を揺らし、トンネルを通り抜けようとする空間の閉鎖的な奇音。
「凛音、大丈夫だから」
優斗がその背を抱きドア越しにもたれる。
僅かに震えていた凛音は彼の胸に顔を埋め、闇が去るのをじっと待った。
──それから、ふつと、
トンネルを抜け視界が開けた。
その先は辺り一面、彼岸花で咲く草原だった。
「どうして……」
レールだけがずっと、遥か永久の向こうにまで伸びている。
「どうして彼岸でしか会えなかったの!?」
彼女が自分に付いてくるのを恐れた。
だから優斗は視た夢の続きをあの時、自らの口で凛音には語らなかった。
「君は目を覚まさなきゃいけない。他の皆もあのバスに乗っているんだろ?」
「優斗さんが、此処にしか居ないのに!」
「俺は……」
あの赤い星のように、
「君の幸せを灯す光に成りたいんだと想うよ」
「あらすじぐらいしか、知らないって……」
また嘘を吐く。
蠍座の赤い星が願った想いは、銀河鉄道の夜に出てくる宮沢賢治自身が創った寓話だ。
その彼岸でなければ二人は出会えなかったから。
車体が揺れて目を覚ました。
送迎バスがイロハ坂に差し掛かったのだ。
「あー、凛音やっと起きた〜」
隣りに座る吹奏楽部の学友が少し飽きれた様子だった。御鏡第二を出てからずっと車内で眠りこけていたらしい。
「いけないっ」
「ちょっと凛音、まだ移動中だよ!?」
窓側の座席だった凛音は強引に隣りの女子生徒を押しやるとバスの通路に出て運転席へと駆け寄る。
「常之瀬さん、運転中の離席は危ないですよ!」
顧問の教師から注意を受けるが、
「バスをっ、速度を落として下さい!」
「?」
「お願いっ!」
彼女の悲痛な表情に運転手が驚く。
思わず、自然とシフトレバーに手がかかりギアを初速まで落とした。
──突然、
改造車がフロントガラスの視界に飛び込んでくる!
「っ!?」
破裂するかのようなけたたましい金属の打ち付ける爆音が鳴り響くと、車体がそこで止まった。
プー、ブォ……
ウァァー、
小川の土手沿い一面に咲く彼岸花に囲われ、一本のトロンボーンが鳴る。
あの後、坂を下って来た暴走車はバスには間一髪で接触しなかった。
変わりに改造車は崖側のガードレールにめり込む様に突っ込むが、辛うじて車体は引っ掛かり奇跡的に運転手だった若い走り屋の青年も骨折の重傷を免れなかったが命に別状はないということだった。
「上の方で、あの車が自転車に接触しませんでしたか!?」
凛音は事故現場に警察が来ると真っ先にそれを聞いた。
「今調査しています。加害者も一度病院に運びますので少し待って下さい」
何もかもが、今は分からなかった。
「……練習、しないと……」
その事故の兆候を報せる為に出会ったはずの彼の存在を、だが今は凛音以外には誰も彼を知る者がいなかった。
そんな虚しいことが本当に起こり得るのだろうか?
プー、ブォ……
ウァァー、
変わらず間の抜けた怪音が辺りに鳴り響く。
──くすり、
背後で吹き出し笑う声がする。
「……また、嘘吐いた」
彼女の幸せを灯す光に成りたいと彼は言った。
それなら彼女の幸せは?
振り返り頬伝う涙だが、今度はとびっきりの笑顔で彼との出会いを迎えてみせた。
それは彼岸の、
悲願の──




