8
王都から戻る道は、行きよりも長く感じられた。
荷車に積んだ壺は三つ。中身は砂糖。白く乾いた結晶が、布の下でかすかに擦れ合う音を立てている。
ただの甘味料。
だが遼にとっては、刃物よりも危うい代物だった。
砦の門が見えたころ、甘い香りがほんのわずかに漂った。気のせいかもしれない。それでも、遼の胸はざわつく。
「戻ったぞ!」
門番が声を上げる。
兵士たちが駆け寄ってくる。
「本当に甘いものを持ってきたのか!?」
「嘘だったら承知しないぞ!」
笑い混じりの怒号。
遼は荷車を止め、布を外す。壺の蓋を少しだけ開ける。
ふわり、と乾いた甘い匂いが流れ出す。
兵士たちの顔が、一瞬で変わる。
「……なんだ、この匂い」
「花みたいだ」
「いや、もっと……腹にくる」
普段は塩と干し肉ばかりの生活だ。甘味は祭りのときの果実酒くらいしかない。
遼は静かに言う。
「今日は試作だ。食わせる。ただし騒ぐな」
「無理だろ!」
すでに騒いでいる。
中庭に炉を組む。
薪をくべると、ぱちぱちと乾いた音が響く。煙がゆらりと立ち上り、夕方の空に溶けていく。
大鍋を置き、いつもの発酵液を注ぐ。
とろり、とした黒褐色の液体が底で波打つ。
火が入り、ゆっくりと温度が上がる。
最初は酸味のある刺激臭が立ち上る。鼻を刺すような匂い。
兵士の一人が顔をしかめる。
「いつもの匂いだな」
「待て」
遼は壺から砂糖をすくう。
木匙に山盛り一杯。
光を受けて、粒がきらりと輝く。
鍋へ落とす。
しゃらり、と細かい音がした。
白が黒に溶ける。
しばらくかき混ぜる。
すると、匂いが変わった。
尖った酸味が丸くなる。
焦げる寸前の甘い香りが、湯気と一緒に立ちのぼる。
「……違う」
誰かが呟く。
空気が変わったのだ。
次に黒豚の薄切り肉を入れる。
じゅ、と音がして、脂が浮かぶ。
甘辛い湯気が広がる。
肉の色が灰色から艶のある茶色へ変わっていく。
遼は箸で一枚持ち上げ、指先で軽く押す。弾力が戻る。
「いいな」
さらに鍋を増やす。
別の鍋では団子を茹でる。
白い生地を丸め、熱湯へ落とす。
最初は底に沈み、やがてふわりと浮かび上がる。
湯の中でころころと回る姿は、妙に愛嬌があった。
茹で上がりを木桶に移し、甘醤油ダレを絡める。
とろり、と光沢が出る。
表面に照りが走る。
兵士たちの喉が一斉に鳴る。
最初の皿は、リシアに渡した。
彼女は静かに肉を口へ運ぶ。
歯が沈み、脂が溶ける。
甘味が舌を包み、すぐ後に塩気と発酵の深みが追いかけてくる。
彼女は噛む。
ゆっくり、二度、三度。
そして飲み込む。
「……これは、危険だ」
「どう危険だ」
「止まらん」
もう一枚、無言で取る。
兵士たちがどっと押し寄せる。
一口。
目を見開く。
「甘い!」
「だがくどくない!」
「肉が柔らかいぞ!」
団子を頬張った若い兵が、目を丸くする。
外はもっちり、中は熱く、甘辛いタレがじわりと染み出す。
「……うまい」
その声は、戦場で聞くものではない。
笑い声が広がる。
普段は無言で食う連中が、皿を奪い合いながら声を上げる。
甘味は、空気を変えた。
翌日、砦の外に屋台を出した。
木の台に布をかけ、鍋を並べる。
湯気が立ち、甘い匂いが風に乗る。
最初に近づいたのは子どもだった。
裸足の少年が鼻をひくつかせる。
「何の匂い?」
「食うか」
小さな団子を一本差し出す。
恐る恐る口へ。
噛む。
目が大きく開く。
「……あまい!」
叫ぶように言った。
後ろの母親が慌てて近づく。
「いくらだい」
価格は抑えた。
砂糖は貴重だが、量を絞り、発酵で支える。
母親が銅貨を置く。
団子を受け取り、一口。
彼女の表情がほどける。
「これは……」
噂は早い。
一刻もせぬうちに列ができた。
昼には完売。
夕方には追加を求める声。
遼は帳簿を開く。
利益は薄い。
だが回転が速い。
銅貨が重なる音が、妙に心地よい。
夜。
鍋を洗いながら、遼は考える。
甘味は贅沢だ。
だが、贅沢を“日常の手前”まで落とせば、依存は生まれる。
依存は需要になる。
需要は流れになる。
その流れは、もう止まらない。
ふと、森を見る。
赤い線は薄い。
だが完全には消えていない。
経済の流れと、森の異変。
別の何かが、静かに動いている。
甘い匂いが夜風に残る。
団子はただの菓子だ。
だが今日、砦の空気は確実に変わった。
腹を満たすだけではない。
心を少しだけ、上向かせた。
遼は手を拭き、空を見上げる。
「次は、保存だな」
甘味は入口。
本丸は流通。
そして、その先にあるのは――




