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朝は静かすぎた。
北壁に残った煤は、夜の出来事を夢のように薄めている。だが石の継ぎ目には、まだ細い灰が詰まり、触れれば指先が黒く染まった。
遼は指を擦り合わせる。
さらり、と乾いた粉。
「……軽いな」
昨夜の“種”とは違う。重みがない。核を砕いたことで、ただの殻になったのだろう。
リシアが近づく。
「兵の三名が軽い熱だ。だが黒は出ていない」
「煙を吸ったな。水を多めに飲ませろ。塩も少し足せ」
「塩を?」
「流れを戻す」
リシアは一瞬だけ考え、すぐに頷く。もう彼の言葉を疑わない。
中庭では鍋が冷えている。
底にこびりついた黒は、拭っても落ちない。
遼は爪で削る。
硬い。
「……焦げじゃねえな」
匂いを嗅ぐ。
苦味の奥に、鉄の匂い。血に近い。
シェルフィが背後から言う。
「森の井戸の残りと同じ匂いだ」
「やっぱりか」
遼は鍋を逆さにし、石畳へ叩く。
ご、と鈍い音。
欠片が一つ、落ちた。
豆ほどの大きさ。
黒い。
だが昨夜砕いた“種”よりも、輪郭が曖昧だ。
「残滓か」
シェルフィが膝をつく。
「砕けた核の、破片」
「増えるか?」
「わからない。だが森では、残った欠片から芽吹いた例がある」
遼は息を吐く。
「厄介だな」
リシアが低く問う。
「燃やすか」
「燃えねえ」
遼は欠片を指で弾く。
石に当たり、乾いた音を立てる。
「こいつは“止まりたがる”。火にくべても、芯が残る」
「ではどうする」
遼は鍋を見る。
昨夜、黒を動かしたのは“流れ”だった。
水。火。苦味。
止まったものを、強制的に循環へ引きずり込む。
「煮る」
リシアが呆れ半分で息をつく。
「やはりそれか」
「だが昨日のは応急だ」
遼は欠片を拾い上げる。
重さはほとんどない。
だが指先が、わずかに冷える。
「これは“食える”」
二人が同時に顔を上げる。
「正気か」
「食うわけじゃねえ」
遼は笑う。
「“食わせる”」
意味を理解するまで、数秒。
シェルフィが目を細める。
「菌か」
「そうだ。腐りにも天敵がある」
森で井戸を浄めたとき、豆は沈んだ。発酵は“良い腐り”だ。
ならば。
「悪い腐りに、良い腐りをぶつける」
リシアが腕を組む。
「兵の腹でやるなよ」
「やらねえ」
遼は立ち上がる。
「培養だ」
その言葉は、この世界にない。
昼。
中庭に即席の棚が組まれる。
布。木箱。陶器の壺。
遼は井戸水を沸かし、焙煎豆の残りをすべて砕いた。
「在庫はこれで終わりだぞ」
リシアが言う。
「わかってる」
遼は静かに答える。
「だから量産する」
「豆をか?」
「違う。“仕組み”をだ」
彼は壺に湯を注ぎ、豆を入れ、布で覆う。
そこへ、黒い欠片を落とした。
しゅ、と微かな音。
液面がわずかに波打つ。
「観察する」
シェルフィが覗き込む。
「危険だ」
「だから隔離する」
遼は棚の一角を縄で囲む。
「触るな。近づくな。三日置く」
「三日?」
「変化を見るには、それくらい要る」
リシアが眉をひそめる。
「その間にまた出たら」
「また煮る」
遼は即答した。
そして付け加える。
「だが次は、材料がいる」
「何がだ」
彼は北壁を見る。
煤の向こう。
まだ薄く残る黒い筋。
「砂糖」
二人が黙る。
この世界で、砂糖は貴族の薬。
庶民が口にするものではない。
「甘味は“流れを早める”」
遼は続ける。
「苦味だけじゃ遅い。加速がいる」
リシアの目が細くなる。
「王都の領域だ」
「だろうな」
遼は笑う。
「なら取りに行く」
「簡単に言うな」
「簡単じゃねえ。だが必要だ」
彼は空になった豆袋を握る。
「昨日の戦いで証明された。止まるものは、増える」
静寂。
兵たちが遠巻きにこちらを見ている。
昨夜、黒に侵された壁の前で煮えた鍋を振るった男。
料理人。
だが今は、別の顔をしている。
「王都は嫌うぞ」
リシアが言う。
「嫌われるのは慣れてる」
遼は肩をすくめる。
「だが商いは嫌われても、止まらねえ」
風が吹く。
壺の布が、わずかに揺れる。
その下で、黒い欠片が沈んでいる。
動くか。
止まるか。
どちらに転んでも、答えは一つ。
拡げる。
森と砦の問題では終わらせない。
腐りに値段をつける。
流れに市場をつける。
リシアが静かに問う。
「王都へ行く気か」
遼は北壁から視線を外さず答える。
「ああ」
「戦になるぞ」
「商談だ」
短い沈黙。
やがてリシアが笑う。
「お前はやはり異邦人だ」
「違う」
遼は言う。
「俺は商人だ」
そのとき。
棚の壺のひとつが、微かに音を立てた。
とく、とく、と。
内部で泡が弾ける。
シェルフィが息を呑む。
「……動いた」
遼は振り向かない。
「当たり前だ」
彼の目は、すでに森の向こう。
王都の方向を見ていた。
赤い月は消えた。
だが遠くの空に、薄く残る線。
あれが“市場”だと、彼は知っている。
煮える影は砕けた。
だが残り火には、値段がつく。
そして値段がつけば、流れは止まらない。




