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月下の台所ー異世界辺境食記ー  作者: おこげ


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6/16

6

朝は静かすぎた。

 北壁に残った煤は、夜の出来事を夢のように薄めている。だが石の継ぎ目には、まだ細い灰が詰まり、触れれば指先が黒く染まった。

 遼は指を擦り合わせる。

 さらり、と乾いた粉。

「……軽いな」

 昨夜の“種”とは違う。重みがない。核を砕いたことで、ただの殻になったのだろう。

 リシアが近づく。

「兵の三名が軽い熱だ。だが黒は出ていない」

「煙を吸ったな。水を多めに飲ませろ。塩も少し足せ」

「塩を?」

「流れを戻す」

 リシアは一瞬だけ考え、すぐに頷く。もう彼の言葉を疑わない。

 中庭では鍋が冷えている。

 底にこびりついた黒は、拭っても落ちない。

 遼は爪で削る。

 硬い。

「……焦げじゃねえな」

 匂いを嗅ぐ。

 苦味の奥に、鉄の匂い。血に近い。

 シェルフィが背後から言う。

「森の井戸の残りと同じ匂いだ」

「やっぱりか」

 遼は鍋を逆さにし、石畳へ叩く。

 ご、と鈍い音。

 欠片が一つ、落ちた。

 豆ほどの大きさ。

 黒い。

 だが昨夜砕いた“種”よりも、輪郭が曖昧だ。

「残滓か」

 シェルフィが膝をつく。

「砕けた核の、破片」

「増えるか?」

「わからない。だが森では、残った欠片から芽吹いた例がある」

 遼は息を吐く。

「厄介だな」

 リシアが低く問う。

「燃やすか」

「燃えねえ」

 遼は欠片を指で弾く。

 石に当たり、乾いた音を立てる。

「こいつは“止まりたがる”。火にくべても、芯が残る」

「ではどうする」

 遼は鍋を見る。

 昨夜、黒を動かしたのは“流れ”だった。

 水。火。苦味。

 止まったものを、強制的に循環へ引きずり込む。

「煮る」

 リシアが呆れ半分で息をつく。

「やはりそれか」

「だが昨日のは応急だ」

 遼は欠片を拾い上げる。

 重さはほとんどない。

 だが指先が、わずかに冷える。

「これは“食える”」

 二人が同時に顔を上げる。

「正気か」

「食うわけじゃねえ」

 遼は笑う。

「“食わせる”」

 意味を理解するまで、数秒。

 シェルフィが目を細める。

「菌か」

「そうだ。腐りにも天敵がある」

 森で井戸を浄めたとき、豆は沈んだ。発酵は“良い腐り”だ。

 ならば。

「悪い腐りに、良い腐りをぶつける」

 リシアが腕を組む。

「兵の腹でやるなよ」

「やらねえ」

 遼は立ち上がる。

「培養だ」

 その言葉は、この世界にない。

 昼。

 中庭に即席の棚が組まれる。

 布。木箱。陶器の壺。

 遼は井戸水を沸かし、焙煎豆の残りをすべて砕いた。

「在庫はこれで終わりだぞ」

 リシアが言う。

「わかってる」

 遼は静かに答える。

「だから量産する」

「豆をか?」

「違う。“仕組み”をだ」

 彼は壺に湯を注ぎ、豆を入れ、布で覆う。

 そこへ、黒い欠片を落とした。

 しゅ、と微かな音。

 液面がわずかに波打つ。

「観察する」

 シェルフィが覗き込む。

「危険だ」

「だから隔離する」

 遼は棚の一角を縄で囲む。

「触るな。近づくな。三日置く」

「三日?」

「変化を見るには、それくらい要る」

 リシアが眉をひそめる。

「その間にまた出たら」

「また煮る」

 遼は即答した。

 そして付け加える。

「だが次は、材料がいる」

「何がだ」

 彼は北壁を見る。

 煤の向こう。

 まだ薄く残る黒い筋。

「砂糖」

 二人が黙る。

 この世界で、砂糖は貴族の薬。

 庶民が口にするものではない。

「甘味は“流れを早める”」

 遼は続ける。

「苦味だけじゃ遅い。加速がいる」

 リシアの目が細くなる。

「王都の領域だ」

「だろうな」

 遼は笑う。

「なら取りに行く」

「簡単に言うな」

「簡単じゃねえ。だが必要だ」

 彼は空になった豆袋を握る。

「昨日の戦いで証明された。止まるものは、増える」

 静寂。

 兵たちが遠巻きにこちらを見ている。

 昨夜、黒に侵された壁の前で煮えた鍋を振るった男。

 料理人。

 だが今は、別の顔をしている。

「王都は嫌うぞ」

 リシアが言う。

「嫌われるのは慣れてる」

 遼は肩をすくめる。

「だが商いは嫌われても、止まらねえ」

 風が吹く。

 壺の布が、わずかに揺れる。

 その下で、黒い欠片が沈んでいる。

 動くか。

 止まるか。

 どちらに転んでも、答えは一つ。

 拡げる。

 森と砦の問題では終わらせない。

 腐りに値段をつける。

 流れに市場をつける。

 リシアが静かに問う。

「王都へ行く気か」

 遼は北壁から視線を外さず答える。

「ああ」

「戦になるぞ」

「商談だ」

 短い沈黙。

 やがてリシアが笑う。

「お前はやはり異邦人だ」

「違う」

 遼は言う。

「俺は商人だ」

 そのとき。

 棚の壺のひとつが、微かに音を立てた。

 とく、とく、と。

 内部で泡が弾ける。

 シェルフィが息を呑む。

「……動いた」

 遼は振り向かない。

「当たり前だ」

 彼の目は、すでに森の向こう。

 王都の方向を見ていた。

 赤い月は消えた。

 だが遠くの空に、薄く残る線。

 あれが“市場”だと、彼は知っている。

 煮える影は砕けた。

 だが残り火には、値段がつく。

 そして値段がつけば、流れは止まらない。

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