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月下の台所ー異世界辺境食記ー  作者: おこげ


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4/16

4

砦の中庭に、最初はほんのわずかな違和感が漂った。

 焦げた木の匂いに似ている。だが、ただの失敗ではない。燻製とも違う。鉄の匂いでも、血でもない。

 兵士の一人が、鼻をひくつかせた。

「……なんだ、この匂い」

 石壁に囲まれた中庭の中央。遼は膝を折り、積み上げた石の炉に向き合っていた。夕暮れはすでに沈み、空には赤い月が昇りはじめている。炎は低く、橙色に揺れていた。

 その上に置かれた浅い鉄皿。

 黒い豆が、均等に並べられている。

 最初は、ただの硬い種子だった。

 乾き、艶もなく、森の土と見分けがつかないほど無骨な粒。

 だが今、じわじわと色を変えていく。

 ぱち。

 小さな破裂音。

 豆の表面に細かな亀裂が走る。

 遼は身を乗り出し、炎を覗き込む。額に汗が滲むが、拭わない。視線は皿の上から一瞬も離れない。

「火が強すぎると死ぬ。弱すぎると目覚めない」

 独り言のように呟く。

 シェルフィは少し離れた位置から、それを見ていた。森の外套の裾が、夜風に揺れる。

「死ぬ……目覚める……」

 理解できぬ言葉を反芻する。

 豆の色が、墨のような黒から、深い褐色へと変わる。やがて油分がにじみ、表面にほのかな艶が生まれた。

 香りが立つ。

 乾いた苦味。焦げる直前の甘さ。森の落葉を踏みしめたときの匂いにも似ているが、もっと濃い。

 もっと、意志を持っている。

 シェルフィの喉が、無意識に鳴った。

「……さきほどより鋭い。鼻の奥を刺す」

「ここからだ」

 遼は皿を火から外す。余熱で焦がさぬよう、素早く布に移す。

 ごり、と石に押し当てる。

 硬質な音が砦の石壁に反響する。

 豆が砕ける。

 殻が割れ、内部の香りが解放される。

 一瞬、空気が変わった。

 兵士たちがざわめく。

「なんだ……甘い?」

「いや、苦いだろ」

 粉は、細かい砂のように黒い。遼はそれを布袋に入れ、木枠に固定する。

 そして、ゆっくりと湯を落とした。

 しゅ、と小さな音。

 湯が粉に触れ、ふくらむ。

 黒が、濃くなる。

 泡が立ち、やがて重く沈む。

 雫が、ぽたり、と椀に落ちた。

 一滴。

 また一滴。

 夜の色が、溜まっていく。

 誰も喋らない。

 湯の落ちる音だけが、やけに大きい。

 やがて椀が満ちる。

 遼は両手で持ち上げた。

 湯気が、赤い月の光を受けて揺らぐ。

 一口。

 唇が触れ、液体が舌を打つ。

 鋭い苦味が、まず来る。

 だが次の瞬間、奥から香ばしさが立ち上がる。焦げの一歩手前の甘み。舌の根に残る余韻。

 遼は、ゆっくり息を吐いた。

「……目、覚めるな」

 シェルフィへ差し出す。

 彼女はしばらく見つめていた。

 黒い液面に、赤い月が映っている。

「森を乱さぬと、約した」

「約束は守る」

 椀を受け取る。

 両手で包むと、じわりと熱が伝わる。

 温かい。

 森の果実は冷たい。朝露のように澄んでいる。

 だがこれは、内側から温める。

 恐る恐る口をつける。

 一口。

 眉が寄る。

「……苦い」

 だが、吐き出さない。

 二口。

 三口。

 目を閉じる。

 沈黙。

 砦の兵士が固唾を呑む。

 やがて、シェルフィは静かに言った。

「森の夜だ」

「夜?」

「静かだが、底で何かが息づいている」

 椀を見つめる。

「これは……深い」

 その瞬間。

 遠くで、低い遠吠えが響いた。

 空気が震える。

 シェルフィの瞳が鋭くなる。

「灰狼」

 見張りの兵が叫ぶ。

「森側! 群れ!」

 赤い月の光の下、森の縁がざわめく。

 無数の影。

 光る眼。

 牙の白。

 石門へ駆ける足音が、地面を震わせる。

 リシアが剣を抜く。

「配置につけ!」

 鉄と石が擦れる音。

 だが、群れの奥。

 ひときわ大きな影が立っていた。

 狼の形をしているが、輪郭が揺れている。

 黒い霧がまとわりつき、足元の草が枯れていく。

 赤い光が、じっと砦を見据える。

 遼の胸が、わずかにざわつく。

 あの、均衡を乱す気配。

「森のものじゃないな」

 シェルフィが低く言う。

「あれは、腐りだ」

 灰狼が門へぶつかる。

 槍が弾かれ、牙が閃く。

 遼は咄嗟に鉄の蓋を掴み、跳びかかってきた狼を弾いた。

 衝撃が腕に響く。

「料理人に牙向けるな!」

 狼の吐息は生臭い。

 だが次の瞬間、炉に残っていた粉を掴み、炎へ投げ込む。

 ぶわ、と黒煙が立ち上る。

 濃密な苦い香りが、風に乗る。

 灰狼たちの動きが止まる。

 鼻を鳴らし、後退する。

 奥の黒い影が、わずかに揺れた。

 赤い眼が細まる。

 近づかない。

 理解できぬ匂い。

 森にない香り。

 やがて、群れは後ずさるように森へ消えていった。

 黒い影も、霧のように薄れる。

 静寂。

 兵士の荒い息だけが残る。

 遼は炉の前に立ったまま、煙の行方を見ていた。

 苦い香りが、夜に溶けていく。

 シェルフィが近づく。

「恐れたのではない」

「だろうな」

「理解できぬものを、避けただけだ」

 遼は小さく笑う。

「なら、次は理解させる」

 袋の中で、まだ温もりを残す黒い豆が、かすかに転がる。

 赤い月が、砦と森の間を静かに照らしていた。

 夜はまだ深い。

 だがその闇に、ひとつの香りが刻まれた。

 森と人の境界に生まれた、苦く、温かな火の記憶。

夜明け前の空は、群青と灰のあわいに沈んでいた。

 砦の石壁は冷え、夜の戦いの痕――折れた槍、削れた石、乾ききらぬ血――を静かに抱えている。中庭には、まだかすかに“焙り”の匂いが残っていた。苦く、甘く、夜を越えた証のように。

 遼は井戸の縁に腰を下ろし、昨夜の布袋を開いた。

 黒い豆。

 指で転がすと、かすかな油が指先に移る。

「森は理解できぬものを避けた……か」

 低く呟く。

 背後で、足音。

 シェルフィだ。朝露に濡れた外套が、光を含んでいる。

「灰狼は森の奥へ退いた。だが“腐り”は消えていない」

 その声音は、昨夜よりも硬い。

「井戸の周囲の空気が重い。根が黒ずみ始めている」

 遼は立ち上がる。

「案内してくれ」

「一人だ」

「昨日もそう言ったな」

 砦の門が軋みを立てて開く。リシアが腕を組んで立っていた。

「また森か」

「ああ。今度は火は持っていかねえ」

「それが一番不安だ」

 小さく息を吐き、リシアは道を開ける。

「戻れ。戻らねば、森ごと焼く」

「やめろ」

 遼は苦笑し、森へ足を踏み入れた。

 灰哭の森は、朝でも薄暗い。

 葉の隙間から落ちる光は細く、地面は湿り気を帯びている。昨日までのざわめきはない。だが静けさは穏やかではなく、どこか張り詰めていた。

 シェルフィが歩を止める。

「聞こえるか」

 耳を澄ます。

 ――水の音。

 遠く、ゆっくりと滴る。

 やがて古い石造りの井戸が見えた。縁は苔に覆われ、周囲の木々は低く、枝を絡めるように伸びている。

 その根元。

 土が、黒ずんでいた。

 まるで墨をこぼしたように、じわりと広がる染み。

「これが“腐り”か」

 遼はしゃがみこみ、指先で土を触れる。

 冷たい。

 だがただの冷たさではない。湿った闇の感触。

 井戸の中を覗き込む。

 水面が揺れる。

 その奥――何かが、脈打っている。

 どくり。

 水が、赤黒く波紋を広げた。

 シェルフィが弓を構える。

「下がれ」

「いや」

 遼は井戸の縁に手をかけた。

「これは、煮えない」

「何を言っている」

「火でどうこうする類じゃねえ」

 水面から、黒い霧が立ち上る。

 形を持たぬ影。

 だが確かに“意志”がある。

 耳鳴りのような低い声が、森に満ちる。

 ――還せ。

 シェルフィの顔色が変わる。

「森の核に触れている……!」

 霧が触れた草が、瞬時に萎れる。

 遼の胸が、ざわりとする。

 あの夜の影と同じ気配。

 だが、より近い。

 より深い。

「均衡を壊してるのは、匂いじゃねえな」

 遼は布袋から、焙煎前の豆を取り出す。

 硬く、黒い種。

「森は均衡で成り立つんだろ」

「そうだ」

「じゃあ足りねえ分を足す」

 豆を井戸へ落とす。

 ぽちゃん、と音。

 シェルフィが息を呑む。

「何を――」

 水面が揺れる。

 黒い霧が、豆へと絡みつく。

 腐らせようとするように。

 だが豆は沈み、動かない。

 遼は目を閉じる。

「苦味は武器になる。だが、薬にもなる」

 昨夜の焙煎。

 火で変わった香り。

 変化は、破壊ではない。

 形を変えること。

 井戸の水が、再び揺れる。

 黒が、わずかに薄まる。

 シェルフィの目が見開かれる。

「……吸っている?」

 豆が、黒を引き寄せている。

 霧が収束する。

 種の周囲に絡まり、固まる。

 やがて、水面が静まった。

 赤黒い脈動が、消える。

 森の空気が、ほんのわずかに軽くなる。

 風が吹いた。

 葉が揺れる。

 遠くで、小さな獣の足音。

 シェルフィは井戸を見つめたまま、囁く。

「均衡が……戻りかけている」

「完全じゃねえ」

 遼は立ち上がる。

「だが、止まった」

 井戸の底に沈んだ豆は、黒く濁っている。

「腐りを吸った豆は、使えぬ」

 シェルフィが言う。

「使わねえ」

 遼は静かに答える。

「これは、森に返す」

 しばし沈黙。

 やがて、シェルフィが遼を見る。

 その瞳には、もはや困惑はない。

「人の食は、重いと言った」

「ああ」

「だが今は……違う」

 風がもう一度、吹く。

 井戸の縁の苔が、陽を受けて淡く光る。

「森は、お前を敵とは見ぬだろう」

 遼は肩をすくめる。

「料理人だ。敵にするな」

 森を抜けるころには、陽が高くなっていた。

 だが砦の方角から、鈍い角笛の音が響く。

 短く、切迫した合図。

 遼とシェルフィが顔を上げる。

「……砦だ」

 風向きが変わる。

 遠く、煙が上がっている。

 黒い。

 だが焙りの香りではない。

 焦げた石と鉄の匂い。

 シェルフィの声が低くなる。

「森だけではなかったか」

 遼は走り出す。

 均衡は、井戸だけでは足りない。

 赤い月は沈んだ。

 だが新たな火種が、砦で燻り始めていた。

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