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月下の台所ー異世界辺境食記ー  作者: おこげ


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3/16

3

砦の朝は早い。

まだ薄暗い時間から、兵士たちは見張りに立ち、武具を整え、硬い黒パンをかじる。

その光景の中で――

異質な匂いが立ち上った。

遼が持ち込んだ、大鍋から。

「今日は試しだ。全員分は無理だが、交代で来い」

砦の兵士たちは半信半疑だった。

料理人?

戦えない男?

こんな辺境に?

だが昨日のスープを飲んだ者たちは、すでに知っている。

あれは“違う”と。

遼は厨房に立つ。

まずは米。

砦には当然ない。

だから店から担いできた。

大事な在庫だ。

「水は?」

「井戸だ」

リシアが桶を運ぶ。

遼は水を張り、米を研ぐ。

兵士たちは、その動作をじっと見ている。

「何を洗っている」

「洗ってるんじゃない。研いでる」

意味は通じない。

だが手つきは真剣だ。

火にかける。

蓋をする。

待つ。

その“待つ”という行為が、砦では珍しかった。

兵士の料理は、基本的に短時間で済ませる。

煮込む、蒸らす、休ませる。

そういった余裕がない。

やがて。

ふわり、と甘い匂いが立つ。

「……穀物の匂いか?」

「いや、違う」

遼は火を止め、しばらくそのまま置く。

「今は触るな」

兵士が思わず蓋を開けようとして、手を止められる。

「蒸らしだ」

そして蓋を開ける。

白い湯気が、砦の空気に広がる。

粒が立ち、艶のある白。

兵士たちは息を呑んだ。

「白い……」

黒パンしか知らない彼らにとって、それは異様な光景だった。

次に鍋。

干し肉の骨から丁寧に取った出汁。

刻んだ根菜。

少量の塩。

そして、ほんのわずかに――

遼は迷いながら、小瓶を取り出す。

醤油。

まだ残りはあるが、無限ではない。

「……今日は、使う」

ほんのひと垂らし。

匂いが変わる。

深みが出る。

リシアの目がわずかに見開かれる。

「昨日の、あの匂いだ」

椀によそう。

白米と、澄んだ色のスープ。

簡素だが、整っている。

最初の一人が口に運ぶ。

無言。

二人目。

三人目。

そして、ぽつりと誰かが言った。

「……うまい」

その言葉は、小さかった。

だが確かに、震えていた。

「腹が……熱い」

「体が軽い気がする」

遼は腕を組んで見守る。

味は派手じゃない。

だが、きちんと旨味がある。

ただそれだけで、人の表情は変わる。

黒パンを無表情でかじっていた兵士が、今日はゆっくり噛んでいる。

味を確かめるように。

リシアが静かに言った。

「真島遼」

「あ?」

「この砦は、いつも“耐えている”」

遠くの見張り台を見る。

「魔物。物資不足。王都からの支援も遅い」

兵士たちは戦うが、誇りだけでは腹は満ちない。

「だが今……少しだけ、笑っている」

遼は兵士たちを見る。

確かに、空気が違う。

たった一杯の汁物。

それだけで。

「腹が満ちると、心に余裕ができる」

遼はぽつりと言う。

「余裕があれば、強くなれる」

リシアは真剣な目でうなずいた。

その日の夜。

森の見張りが戻ってくる。

「灰狼の動きが鈍い」

「鈍い?」

「砦の周囲に近づいてこない。様子を窺っている」

遼は空を見上げる。

赤い月と、青い月。

森の奥が、妙に静かだ。

その静けさは、安心ではない。

嵐の前の、張りつめた空気。

そしてその時。

砦の門の外。

人影が現れる。

兵士ではない。

鎧も着ていない。

細身で、長い耳。

森と同じ色の外套。

見張りが叫ぶ。

「……エルフだ!」

リシアが剣を取ろうとする。

だが遼は、ふと気づく。

そのエルフは、戦う構えをしていない。

ただ――

鼻をひくつかせている。

まるで、匂いを追うように。

砦の中へ漂う、出汁と米の匂い。

エルフは静かに言った。

「……この香りは、何だ」

森の種族が、匂いに導かれてやって来た。

ましま食堂の“侵略”は、もう森の奥にまで届いている。

砦の門前に立つエルフは、武器を抜いていなかった。

長い耳。

灰緑色の髪。

森の葉を編み込んだ外套。

その瞳は鋭いが、敵意よりも――

困惑が勝っている。

「止まれ!」

門番が槍を構える。

だがエルフは視線を逸らさない。

鼻を、わずかに動かしている。

「この匂いは……森にはない」

リシアが前に出る。

「何の用だ、森の民」

「灰哭の森に異変が起きている」

ざわ、と兵士たちが揺れる。

エルフは続ける。

「灰狼の群れが落ち着かぬ。魔獣が森の奥へ退いている」

その視線が、ゆっくりと砦の中へ向く。

そして止まる。

遼に。

「……お前か」

「え?」

「森を乱しているのは」

遼は眉をひそめる。

「鍋しか振ってねえぞ」

兵士の何人かが吹き出す。

緊張がわずかに緩む。

だがエルフは真剣だった。

「森は匂いに敏い。血と腐臭には慣れている。だが――」

鼻をひくつかせる。

「その香りは、知らぬ」

遼は腕を組む。

「出汁だ」

「だし?」

通じないのは慣れている。

遼は鍋の蓋を開けた。

湯気が立つ。

骨から取った澄んだ旨味。

わずかな醤油の深み。

エルフの目が、揺れた。

「……」

一歩、門を越えようとする。

兵士が槍を向ける。

リシアが制する。

「待て」

彼女はエルフを見る。

「敵意はあるか」

「ない」

即答だった。

リシアはしばし考え、門を開けさせた。

エルフはゆっくりと歩み寄る。

森の民が砦の中へ入るのは、異例だ。

遼は椀を一つよそった。

「飲むか」

エルフはためらう。

「人の食は、重い」

「重い?」

「森の民は、生の恵みをいただく。火は最小限だ」

なるほど、と遼は思う。

この世界の“食文化”は種族ごとに分かれている。

「じゃあ少しでいい」

椀を差し出す。

エルフは両手で受け取る。

恐る恐る、口をつける。

――沈黙。

砦の空気が止まる。

一口。

二口。

目が、見開かれる。

「……温かい」

それは驚きだった。

「森の実りは清らかだ。だがこれは……」

言葉を探す。

「深い」

遼は小さく笑う。

「煮込んだからな」

エルフは椀を見つめる。

湯気が揺れる。

その向こうで、赤い月がかすかに光る。

「森の奥に、古い井戸がある」

唐突に言う。

「そこに、黒き豆が実る木がある。だが我らは使わぬ」

遼の耳がぴくりと動く。

「豆?」

「硬く、苦く、砕いても旨味は出ぬ。獣も食わぬ」

遼は静かに言う。

「それ、見せろ」

リシアが目を細める。

「森の奥だぞ」

「材料は現地調達だろ」

エルフは遼をじっと見る。

「森を乱すな」

「乱さねえ。借りるだけだ」

しばし沈黙。

やがてエルフは頷く。

「来い。だが一人だ」

「俺だけ?」

「森は多くを好まぬ」

リシアが不満そうにするが、遼は手を上げる。

「大丈夫だ。包丁は持ってく」

「それが一番不安だ」

兵士が小声で言う。

森の奥へ。

遼とエルフは並んで歩く。

名を、シェルフィと言った。

森は静かだ。

昨日まで荒れていた気配が、嘘のように遠い。

「なぜ人の地に来た」

シェルフィが問う。

「裏口開けたら繋がってた」

「……意味がわからぬ」

「俺もだ」

しばらく歩くと、古びた石造りの井戸が見えた。

その周囲に、低い木が群生している。

枝に、小さな黒い莢。

遼は近づき、手に取る。

割る。

中に豆。

硬い。

匂いは、ある。

「……いける」

「苦いぞ」

「苦味は武器になる」

遼の目が、料理人のそれになる。

発酵、焙煎、粉砕。

可能性が頭を巡る。

この世界には、まだ眠っている味がある。

シェルフィは静かに言う。

「森は均衡で成り立つ」

「食もだ」

遼は豆を布袋に入れる。

「均衡は、壊さねえ」

森を抜ける風が、少しだけ柔らかい。

砦へ戻る頃には、夕暮れだった。

赤い月が、ゆっくり昇る。

リシアが腕を組んで待っている。

「無事か」

「ああ。いいもん見つけた」

遼は袋を掲げる。

黒い豆が、かすかに音を立てる。

この世界の“黒い奇跡”は、まだ始まったばかりだ。

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