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「営業時間内ならな」
遼がそう言うと、リシアは一瞬きょとんとした後、小さく頷いた。
その仕草は、鎧姿からは想像できないほど素直だった。
だが次の瞬間、彼女の表情が引き締まる。
「ここは……灰哭の森の縁だ。安全ではない」
「はいこく?」
「魔物の巣窟だ。私は群れを引き離すために――」
言いかけて、肩を押さえる。
包帯に血が滲む。
遼は眉をひそめた。
「喋るな。縫ったわけじゃないんだぞ」
「縫う……?」
「あー、いい。安静」
リシアは不思議そうな顔をしながらも、椅子に背を預けた。
店内の明かりが、銀の鎧をやわらかく照らしている。
彼女の視線が、店内をゆっくりと巡る。
木のカウンター。
整然と並ぶ包丁。
壁に貼られた手書きのメニュー。
角煮定食。焼き魚定食。唐揚げ定食。
「ここは……家なのか? 砦でもなく、宿でもなく……」
「食堂だって言ったろ。飯を食う場所だ」
「飯を……食うためだけの建物?」
遼は苦笑する。
「あんたら、飯どうしてんだ?」
リシアは少し考え、答える。
「干し肉と黒パン。あとは塩茹での根菜だ。戦の前は、それで十分だ」
“十分”。
その言葉が、遼には少し引っかかった。
腹が満ちれば、それでいい。
味は二の次。
――そういう世界。
「さっきの料理は……貴族の晩餐より豪奢だ」
「角煮が?」
「甘味など、祝祭でも滅多に口にしない」
遼は黙って鍋を見る。
砂糖も醤油も、当たり前に使ってきた。
だがこの世界では、それが“特別”らしい。
リシアは立ち上がろうとして、ふらついた。
遼が咄嗟に支える。
鎧越しでもわかるほど、体は軽い。
「ちゃんと食ってねえだろ」
「戦場では、それが常だ」
「馬鹿か」
思わず口から出た。
リシアの目が丸くなる。
遼はため息をついた。
「腹減ってると、判断鈍る。怪我も治らん。うまいもん食って、ちゃんと寝ろ。それが一番強い」
しばらく沈黙。
やがてリシアは、小さく笑った。
「……変わった男だ」
その時だった。
森の奥から、遠吠えが重なる。
一つではない。
二つ、三つ、四つ。
リシアの顔色が変わる。
「追ってきたか……!」
彼女は立ち上がろうとするが、足元が揺れる。
遼は厨房へ走った。
包丁を握る。
だが相手は魔物だ。
勝てる保証はない。
遠吠えは近づいている。
土を蹴る音。
枝が折れる音。
リシアが呟く。
「灰狼だ……群れで来る」
「灰狼?」
「硬い毛皮と牙を持つ。並の剣では浅い」
遼は舌打ちする。
店の外、森の闇の中で、赤い目が光った。
一つ。
また一つ。
低い唸り声。
だが――
灰狼たちは、森の境界線で止まった。
まるで見えない壁があるかのように。
一歩も踏み込まない。
遼は気づく。
店の敷地に入らない。
灰狼の一匹が吠え、地面を引っ掻く。
だが、それ以上は近づけない。
リシアが息を呑む。
「……結界?」
「そんなもん張った覚えねえぞ」
しばらく睨み合いが続き、やがて灰狼たちは森の奥へ消えていった。
静寂。
リシアはゆっくりと座り込む。
「助かった……」
遼は包丁を置き、腕を組んだ。
「どうなってんだ、この店」
裏口は異世界につながる。
魔物は入れない。
店内は安全地帯。
偶然にしては、出来すぎている。
リシアが言う。
「ここは……聖域かもしれない」
「ただの食堂だ」
だがその言葉に、遼自身も確信はなかった。
カウンターの上には、空になった皿。
角煮のタレが少し残っている。
リシアはそれを見つめ、ぽつりと呟く。
「……強くなれる気がする」
「角煮でか?」
「うむ」
真顔だった。
遼は思わず笑った。
森の向こうでは、まだ月が二つ輝いている。
赤い月と、青い月。
その光が、店の窓に差し込む。
異世界とつながった理由はわからない。
だが一つだけ、はっきりしている。
この世界には、腹をすかせた連中がいる。
そして自分には、鍋がある。
遼は鍋の蓋を開けた。
湯気が立ちのぼる。
甘辛い匂いが、森へと流れていく。
その匂いが、やがてどこまで届くのか――
まだ誰も知らない。
夜は長かった。
森の奥から時折、獣の遠吠えが響く。
だが店の敷地には、何も入ってこない。
リシアは椅子に座ったまま眠っていた。
鎧を外し、毛布にくるまっている。
長い金髪がカウンターにこぼれ、戦場の騎士というより、ただの若い女性に見えた。
遼は厨房で米を研ぐ。
しゃ、しゃ、と水を替える音。
「結界、ねぇ……」
そんな大層なものに覚えはない。
だが灰狼は確かに踏み込めなかった。
裏口をそっと開ける。
森は夜露に濡れ、土の匂いが濃い。
二つの月はゆっくりと傾き、やがて白み始める。
異世界にも朝は来るらしい。
やがて、リシアが目を覚ました。
「……生きているか、私は」
「勝手に殺すな」
遼は味噌汁を差し出す。
湯気が立ちのぼる椀を、リシアは両手で包む。
「これは……昨日の汁物か」
「味噌汁。朝はこれ」
恐る恐るすすり、目を閉じる。
「……あたたかい」
それだけで、声が震えた。
遼は焼き魚を皿に乗せる。
灰干しにしていない、普通の塩焼きだ。
皮がぱちぱちと音を立てる。
白飯。
味噌汁。
焼き魚。
質素な朝定食。
だがリシアにとっては、未知の体験だった。
「米は……粒が立っている」
「炊き方な」
彼女は一粒一粒を確かめるように食べる。
「我らの主食は黒パンだ。硬く、酸っぱい。腹は満ちるが……」
「うまくはない?」
リシアは少し考え、正直に言った。
「うまい、という概念がない」
遼は箸を止める。
その言葉は、重かった。
腹を満たすためだけの食事。
楽しみも、喜びもない。
「砦、案内できるか」
「来るのか?」
「この森がどうなってるか見ないと、仕入れもできん」
「し……いれ?」
「材料集めだ」
リシアは小さく笑った。
「変わった男だ」
森を抜ける。
遼は店の敷地から一歩外へ出た。
何も起きない。
振り返ると、ましま食堂がぽつんと建っている。
森の中に、不自然なほど違和感なく。
「……夢じゃねえな」
道中、灰狼の気配はあるが近づかない。
まるで店主に触れてはならないと知っているかのように。
やがて視界が開ける。
石壁に囲まれた小さな砦。
塔は低く、旗は擦り切れている。
門番が槍を構えた。
「リシア隊長! 生きて……」
視線が遼へ向く。
「その男は何者だ」
「……料理人だ」
「は?」
当然の反応だ。
砦の中は質素だった。
干し肉が吊るされ、黒パンが積まれ、鍋では水に近いスープが煮えている。
匂いは薄い。
味の気配がない。
遼は鍋を覗き込む。
「具、これだけ?」
根菜が数切れ。
塩。
それだけ。
「これが日常だ」
兵士たちはやせ細り、目に疲れが宿っている。
遼は腕を組む。
「出汁取ってないのか」
「だし?」
説明しても通じない。
遼は厨房を借りる。
干し肉の端。
骨。
香草らしき草。
水に入れて火にかける。
ゆっくり煮出す。
兵士たちがざわめく。
「何をしている」
「待て」
やがて、匂いが立ち始める。
肉と骨の旨味が溶け出し、香草がほのかに香る。
ただそれだけ。
だが砦の空気が変わった。
「……匂いが、違う」
遼は塩をひとつまみ。
椀によそい、門番に渡す。
「飲め」
恐る恐る口をつける。
目が見開かれる。
「な、なんだこれは……」
「同じ材料だ。ただ、ちゃんと引き出しただけだ」
リシアがゆっくり言う。
「これが……料理か」
兵士たちが群がる。
一口飲むごとに、表情が変わる。
疲れが、少し和らぐ。
それだけで、空気が柔らかくなる。
遼は砦を見渡す。
足りないのは武器でも兵数でもない。
「うまい飯だな」
リシアが隣で呟く。
「真島遼」
「あ?」
「この砦に、店を出せ」
遼は苦笑した。
「出前くらいならやってやる」
灰哭の森の縁。
貧しい砦。
味を知らない世界。
ましま食堂の匂いは、ゆっくりと広がり始めていた。




