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月下の台所ー異世界辺境食記ー  作者: おこげ


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2

「営業時間内ならな」

遼がそう言うと、リシアは一瞬きょとんとした後、小さく頷いた。

その仕草は、鎧姿からは想像できないほど素直だった。

だが次の瞬間、彼女の表情が引き締まる。

「ここは……灰哭の森の縁だ。安全ではない」

「はいこく?」

「魔物の巣窟だ。私は群れを引き離すために――」

言いかけて、肩を押さえる。

包帯に血が滲む。

遼は眉をひそめた。

「喋るな。縫ったわけじゃないんだぞ」

「縫う……?」

「あー、いい。安静」

リシアは不思議そうな顔をしながらも、椅子に背を預けた。

店内の明かりが、銀の鎧をやわらかく照らしている。

彼女の視線が、店内をゆっくりと巡る。

木のカウンター。

整然と並ぶ包丁。

壁に貼られた手書きのメニュー。

角煮定食。焼き魚定食。唐揚げ定食。

「ここは……家なのか? 砦でもなく、宿でもなく……」

「食堂だって言ったろ。飯を食う場所だ」

「飯を……食うためだけの建物?」

遼は苦笑する。

「あんたら、飯どうしてんだ?」

リシアは少し考え、答える。

「干し肉と黒パン。あとは塩茹での根菜だ。戦の前は、それで十分だ」

“十分”。

その言葉が、遼には少し引っかかった。

腹が満ちれば、それでいい。

味は二の次。

――そういう世界。

「さっきの料理は……貴族の晩餐より豪奢だ」

「角煮が?」

「甘味など、祝祭でも滅多に口にしない」

遼は黙って鍋を見る。

砂糖も醤油も、当たり前に使ってきた。

だがこの世界では、それが“特別”らしい。

リシアは立ち上がろうとして、ふらついた。

遼が咄嗟に支える。

鎧越しでもわかるほど、体は軽い。

「ちゃんと食ってねえだろ」

「戦場では、それが常だ」

「馬鹿か」

思わず口から出た。

リシアの目が丸くなる。

遼はため息をついた。

「腹減ってると、判断鈍る。怪我も治らん。うまいもん食って、ちゃんと寝ろ。それが一番強い」

しばらく沈黙。

やがてリシアは、小さく笑った。

「……変わった男だ」

その時だった。

森の奥から、遠吠えが重なる。

一つではない。

二つ、三つ、四つ。

リシアの顔色が変わる。

「追ってきたか……!」

彼女は立ち上がろうとするが、足元が揺れる。

遼は厨房へ走った。

包丁を握る。

だが相手は魔物だ。

勝てる保証はない。

遠吠えは近づいている。

土を蹴る音。

枝が折れる音。

リシアが呟く。

「灰狼だ……群れで来る」

「灰狼?」

「硬い毛皮と牙を持つ。並の剣では浅い」

遼は舌打ちする。

店の外、森の闇の中で、赤い目が光った。

一つ。

また一つ。

低い唸り声。

だが――

灰狼たちは、森の境界線で止まった。

まるで見えない壁があるかのように。

一歩も踏み込まない。

遼は気づく。

店の敷地に入らない。

灰狼の一匹が吠え、地面を引っ掻く。

だが、それ以上は近づけない。

リシアが息を呑む。

「……結界?」

「そんなもん張った覚えねえぞ」

しばらく睨み合いが続き、やがて灰狼たちは森の奥へ消えていった。

静寂。

リシアはゆっくりと座り込む。

「助かった……」

遼は包丁を置き、腕を組んだ。

「どうなってんだ、この店」

裏口は異世界につながる。

魔物は入れない。

店内は安全地帯。

偶然にしては、出来すぎている。

リシアが言う。

「ここは……聖域かもしれない」

「ただの食堂だ」

だがその言葉に、遼自身も確信はなかった。

カウンターの上には、空になった皿。

角煮のタレが少し残っている。

リシアはそれを見つめ、ぽつりと呟く。

「……強くなれる気がする」

「角煮でか?」

「うむ」

真顔だった。

遼は思わず笑った。

森の向こうでは、まだ月が二つ輝いている。

赤い月と、青い月。

その光が、店の窓に差し込む。

異世界とつながった理由はわからない。

だが一つだけ、はっきりしている。

この世界には、腹をすかせた連中がいる。

そして自分には、鍋がある。

遼は鍋の蓋を開けた。

湯気が立ちのぼる。

甘辛い匂いが、森へと流れていく。

その匂いが、やがてどこまで届くのか――

まだ誰も知らない。


夜は長かった。

森の奥から時折、獣の遠吠えが響く。

だが店の敷地には、何も入ってこない。

リシアは椅子に座ったまま眠っていた。

鎧を外し、毛布にくるまっている。

長い金髪がカウンターにこぼれ、戦場の騎士というより、ただの若い女性に見えた。

遼は厨房で米を研ぐ。

しゃ、しゃ、と水を替える音。

「結界、ねぇ……」

そんな大層なものに覚えはない。

だが灰狼は確かに踏み込めなかった。

裏口をそっと開ける。

森は夜露に濡れ、土の匂いが濃い。

二つの月はゆっくりと傾き、やがて白み始める。

異世界にも朝は来るらしい。

やがて、リシアが目を覚ました。

「……生きているか、私は」

「勝手に殺すな」

遼は味噌汁を差し出す。

湯気が立ちのぼる椀を、リシアは両手で包む。

「これは……昨日の汁物か」

「味噌汁。朝はこれ」

恐る恐るすすり、目を閉じる。

「……あたたかい」

それだけで、声が震えた。

遼は焼き魚を皿に乗せる。

灰干しにしていない、普通の塩焼きだ。

皮がぱちぱちと音を立てる。

白飯。

味噌汁。

焼き魚。

質素な朝定食。

だがリシアにとっては、未知の体験だった。

「米は……粒が立っている」

「炊き方な」

彼女は一粒一粒を確かめるように食べる。

「我らの主食は黒パンだ。硬く、酸っぱい。腹は満ちるが……」

「うまくはない?」

リシアは少し考え、正直に言った。

「うまい、という概念がない」

遼は箸を止める。

その言葉は、重かった。

腹を満たすためだけの食事。

楽しみも、喜びもない。

「砦、案内できるか」

「来るのか?」

「この森がどうなってるか見ないと、仕入れもできん」

「し……いれ?」

「材料集めだ」

リシアは小さく笑った。

「変わった男だ」

森を抜ける。

遼は店の敷地から一歩外へ出た。

何も起きない。

振り返ると、ましま食堂がぽつんと建っている。

森の中に、不自然なほど違和感なく。

「……夢じゃねえな」

道中、灰狼の気配はあるが近づかない。

まるで店主に触れてはならないと知っているかのように。

やがて視界が開ける。

石壁に囲まれた小さな砦。

塔は低く、旗は擦り切れている。

門番が槍を構えた。

「リシア隊長! 生きて……」

視線が遼へ向く。

「その男は何者だ」

「……料理人だ」

「は?」

当然の反応だ。

砦の中は質素だった。

干し肉が吊るされ、黒パンが積まれ、鍋では水に近いスープが煮えている。

匂いは薄い。

味の気配がない。

遼は鍋を覗き込む。

「具、これだけ?」

根菜が数切れ。

塩。

それだけ。

「これが日常だ」

兵士たちはやせ細り、目に疲れが宿っている。

遼は腕を組む。

「出汁取ってないのか」

「だし?」

説明しても通じない。

遼は厨房を借りる。

干し肉の端。

骨。

香草らしき草。

水に入れて火にかける。

ゆっくり煮出す。

兵士たちがざわめく。

「何をしている」

「待て」

やがて、匂いが立ち始める。

肉と骨の旨味が溶け出し、香草がほのかに香る。

ただそれだけ。

だが砦の空気が変わった。

「……匂いが、違う」

遼は塩をひとつまみ。

椀によそい、門番に渡す。

「飲め」

恐る恐る口をつける。

目が見開かれる。

「な、なんだこれは……」

「同じ材料だ。ただ、ちゃんと引き出しただけだ」

リシアがゆっくり言う。

「これが……料理か」

兵士たちが群がる。

一口飲むごとに、表情が変わる。

疲れが、少し和らぐ。

それだけで、空気が柔らかくなる。

遼は砦を見渡す。

足りないのは武器でも兵数でもない。

「うまい飯だな」

リシアが隣で呟く。

「真島遼」

「あ?」

「この砦に、店を出せ」

遼は苦笑した。

「出前くらいならやってやる」

灰哭の森の縁。

貧しい砦。

味を知らない世界。

ましま食堂の匂いは、ゆっくりと広がり始めていた。

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