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月下の台所ー異世界辺境食記ー  作者: おこげ


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16

砦の朝は、まだ冷えていた。石壁は夜の湿気を抱え込み、床はひやりと重い。だが厨房だけは違う。昨夜から継いでいる火が、赤く低く息をしている。

遼はまだ誰もいないうちに起き、粉袋を抱えて作業台に置いた。指先で粉をすくい、擦る。粒子の細かさ、水分の含み具合、この世界の小麦は地球のものより少し荒い。ならば水を多めに、だが入れすぎればべたつく。彼は桶にぬるま湯を張り、塩を溶かし、指先で温度を確かめてから粉に落とした。

ざくり、と音がする。

木べらで混ぜ、途中から手に替える。生地は最初ざらつき、次第にまとまり、手のひらに吸い付く。押して、折り、回して、また押す。一定のリズム。砦の外では見張りが交代する足音がするが、ここでは生地を叩く音が支配する。

汗が一滴、生地に落ちる前に拭う。

「まだだ」

表面が滑らかになるまでこねる。指で押し返してくる弾力が出たところで、布をかけて寝かせた。発酵には時間がいる。待つしかない時間。だがその間にやることは山ほどある。

昨夜解体した灰哭狼の脂を小鍋に入れ、弱火にかける。じわじわと溶け、透明な油が生まれる。焦がせば苦味が出る。焦がさぬよう、木べらで底をなぞる。溶けきったところで漉し、瓶に移す。これが今日の命綱だ。

次に大鍋へ水を張り、残しておいた骨を叩き割って放り込む。骨髄が覗く。そこから滲む旨味を、じっくりと引き出す。強火にはしない。泡がぶくりと浮く程度に保ち、灰汁を丁寧に掬う。灰汁を取らなければ、雑味が残る。この世界の者はそこまで気にしないかもしれないが、遼は気にする。

野菜籠から根菜を取り出す。芋は泥を落とし、皮を厚く剥く。人参に似た橙色の根は、この世界特有の甘みがある。切り口を揃え、大きさを揃える。火の通りを均一にするためだ。

厨房に兵士が一人、顔を出した。

「もう匂いがする」

「まだ骨だけだ」

遼は笑わず答える。骨だけでも匂う。それが出汁だ。

発酵させていた生地を覗く。布をめくると、ふくらりと膨らみ、ほんのり酸い香りが立つ。指で押せば、ゆっくり戻る。ちょうどいい。拳で軽くガスを抜き、分割する。丸め、再び休ませる。その間に炉の温度を上げる。薪を足し、炎の色を見極める。

パンを炉に滑り込ませると、ぱちり、と表面が弾ける音がした。

焼ける匂いは暴力的だ。腹の奥を直接殴るように刺激する。見張り台の兵士まで顔を向けるほどだ。数分後、表面がきつね色に染まり、取り出した瞬間、外皮がぱきぱきと鳴る。

遼は一つを割る。蒸気が噴き出し、白い内側がふわりと現れる。そこへ溶かした灰哭狼の脂をひと垂らし。じゅ、と染みる。

大鍋の方では、骨の出汁が乳白色に変わってきた。そこへ根菜を入れる。煮えるまで待つ時間、遼は塩を指でつまみ、少しずつ落とす。一度に入れない。溶けるまで待ち、味を見る。まだ浅い。さらにひとつまみ。

リシアが現れた。鎧を半分だけ着けた姿で、湯気を吸い込む。

「朝から宴だな」

「戦う前に食う。それだけだ」

芋が柔らかくなったところで、裂いた狼肉を戻す。昨夜より細かく。噛み切りやすいように。鍋底からすくい上げ、味を見る。骨の旨味、脂の甘み、野菜の柔らかい甘さが混ざり、舌の上で丸くなる。

椀によそる。

兵士たちは無言で受け取り、まず匂いを吸う。それからゆっくりと口に運ぶ。誰も急がない。熱いからでもあるが、それ以上に、この時間を壊したくないからだ。

パンを割り、スープに浸す。表面がとろりと湿り、噛めば出汁が染み出す。脂が唇を薄く覆い、体温が上がるのが分かる。

一人がぽつりと笑った。

それが伝染する。

昨日まで灰哭森を恐れていた顔が、今はただの若者の顔に戻っている。肩が軽い。声が少し大きい。

遼は厨房の隅でそれを見る。料理は剣ではない。だが確実に、砦を変えている。

食べ終えた兵士の一人が椀を差し出した。

「……もう一杯」

遼は無言でよそる。鍋の底が見え始めている。足りない。ならば増やすしかない。

彼は振り返り、保存しておいた豆を水に浸した桶を見る。硬いままでは使えない。半日かけて戻す。戻した後、ゆっくり煮る。潰してペーストにすれば、とろみも出る。肉が少なくとも満足感を出せる。

待つ時間。仕込む時間。削る時間。

それら全部が、この世界で生きる術になる。

外で角笛が鳴った。見張りからの合図だ。森が動いている。

だが兵士たちは慌てない。腹が満ち、体が温まり、心が整っている。剣を取る動きが軽い。

リシアが遼を見る。

「次は何を作る」

遼は鍋を洗いながら答える。

「昼は麺だ」

粉はまだある。塩と水もある。細く延ばし、切り、茹でる。出汁は残してある。脂もある。

火は、もう消えない。

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