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月下の台所ー異世界辺境食記ー  作者: おこげ


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13/16

13

宴は終わらなかった。

肉は尽きたが、火は残った。

炭は赤く熾り、夜気の中でゆらゆらと揺れている。砦の石壁がその光を反射し、まるで別の場所のように見えた。

遼はひとり、火の前に残った。

片付けをしながら、鍋の底に残った煮汁を小さな椀にすくう。

黒く、濃い。

とろりとした液体が月明かりを吸う。

指先につけ、舐める。

「……もう少し、甘みを抑えるか」

独り言。

その背後で、足音が止まった。

「まだ起きていたのか」

リシアだ。

鎧を外し、簡素な麻の衣に着替えている。剣は持っていない。

「寝なくていいのか」

「……眠れない」

彼女は火のそばに座る。

炭の熱が、顔を赤く照らす。

「皆、笑っていた」

「ああ」

「戦の前でも、あんな顔をしたことはない」

遼は黙って煮汁を見つめる。

「腹が満ちるってのはな、単純なんだよ」

「単純?」

「空腹は、不安を呼ぶ。不安は怒りを呼ぶ。怒りは争いを呼ぶ」

炭が崩れる。

ぱさ、と灰が落ちる。

「でも、腹が満ちると、人は少しだけ優しくなる」

リシアはしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく問う。

「……あなたは、どこまでやるつもりだ」

遼はすぐには答えない。

鍋を洗い、水を捨て、布で拭く。

火の前に戻る。

「俺の店はな、客が減って潰れかけてた」

リシアは意味が分からないという顔をする。

遼は続ける。

「味は悪くなかった。たぶん。でも、時代に負けた」

「時代……」

「人が来なきゃ、どんな味でも意味がない」

炭を見つめる。

「でもここは違う。来るんじゃない。必要とされてる」

その言葉に、リシアの瞳が揺れる。

「……残るのか」

遼は笑わない。

「まだ分からん」

そのときだった。

森の奥から、低い音が響いた。

ぐるるるる、と地鳴りのような唸り声。

二人の視線が同時に上がる。

見張り台から、慌ただしい声。

「森が……動いている!」

兵士が駆け込んでくる。

「匂いだ! 魔物が寄ってくる!」

リシアの顔が一瞬で戦のそれに変わる。

「数は」

「三……いや、五以上!」

遼は立ち上がる。

炭の匂い。 肉の匂い。 甘い醤油の焦げた匂い。

それは確かに、森へ流れていた。

「消せ」

遼が言う。

「火を?」

「全部だ。今すぐ」

兵士が躊躇する。

「だが……」

「匂いが餌になってる」

リシアが即座に命じる。

「火を消せ! 鍋を伏せろ!」

水が炭にかけられる。

じゅわああ、と蒸気が立ち上る。

だがもう遅い。

森の縁に、影が見えた。

月明かりの下、四足の巨大な獣。

灰色の毛並み。 赤い目。 牙から垂れる涎。

「灰哭狼……」

リシアが呟く。

「普段はもっと奥にいるはずだ」

匂いに釣られた。

間違いない。

遼は一瞬だけ、後悔しかける。

だが次の瞬間、頭が切り替わる。

「鍋を持ってこい」

「なに?」

「さっきの煮汁だ!」

兵士が戸惑いながらも従う。

遼は壺から醤油を少量垂らし、煮汁に混ぜる。

さらに酒を注ぐ。

「砦の外、あの岩の向こうに投げろ」

「囮にする気か」

「匂いを強くして、誘導する」

リシアは一瞬だけ遼を見る。

そして頷く。

兵士が鍋を抱え、外へ走る。

どぷん、と液体が地面に撒かれる。

濃い匂いが夜気に広がる。

狼たちの動きが変わる。

一斉に、匂いの方向へ。

「今だ!」

リシアが剣を抜く。

兵士たちが弓を構える。

狼が集まった瞬間、矢が雨のように降る。

咆哮。

血の匂い。

戦いは長くは続かなかった。

匂いに狂った狼は連携を欠き、次々と倒れる。

やがて静寂が戻る。

砦の外に転がる灰哭狼の死骸。

湯気を上げる血。

焦げた醤油の甘い残り香。

リシアは剣を振り、血を払う。

「……あなたの匂いが、救ったな」

遼は何も言わない。

火の消えた炭を見つめる。

料理は、人を呼ぶ。

だが同時に、何かを引き寄せる。

それが敵か、客かは――まだ分からない。

兵士が言う。

「だが……」

皆の視線が、狼の死骸へ向く。

「肉だな」

沈黙のあと、誰かが笑う。

「……食えるのか?」

遼はゆっくり近づく。

毛皮を観察し、匂いを嗅ぐ。

「血抜きが間に合えば、いける」

兵士たちの目が光る。

恐怖は、いつの間にか期待に変わっていた。

リシアが呆れたように笑う。

「魔物まで、食材にするのか」

遼は初めて、はっきり笑った。

「無駄にする理由がない」

森の奥で、まだ何かが動く気配があった。

だが砦の中には、恐怖よりも別の熱が宿っている。

火は消えた。

だが――

料理は、もう止まらない。

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