13
宴は終わらなかった。
肉は尽きたが、火は残った。
炭は赤く熾り、夜気の中でゆらゆらと揺れている。砦の石壁がその光を反射し、まるで別の場所のように見えた。
遼はひとり、火の前に残った。
片付けをしながら、鍋の底に残った煮汁を小さな椀にすくう。
黒く、濃い。
とろりとした液体が月明かりを吸う。
指先につけ、舐める。
「……もう少し、甘みを抑えるか」
独り言。
その背後で、足音が止まった。
「まだ起きていたのか」
リシアだ。
鎧を外し、簡素な麻の衣に着替えている。剣は持っていない。
「寝なくていいのか」
「……眠れない」
彼女は火のそばに座る。
炭の熱が、顔を赤く照らす。
「皆、笑っていた」
「ああ」
「戦の前でも、あんな顔をしたことはない」
遼は黙って煮汁を見つめる。
「腹が満ちるってのはな、単純なんだよ」
「単純?」
「空腹は、不安を呼ぶ。不安は怒りを呼ぶ。怒りは争いを呼ぶ」
炭が崩れる。
ぱさ、と灰が落ちる。
「でも、腹が満ちると、人は少しだけ優しくなる」
リシアはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく問う。
「……あなたは、どこまでやるつもりだ」
遼はすぐには答えない。
鍋を洗い、水を捨て、布で拭く。
火の前に戻る。
「俺の店はな、客が減って潰れかけてた」
リシアは意味が分からないという顔をする。
遼は続ける。
「味は悪くなかった。たぶん。でも、時代に負けた」
「時代……」
「人が来なきゃ、どんな味でも意味がない」
炭を見つめる。
「でもここは違う。来るんじゃない。必要とされてる」
その言葉に、リシアの瞳が揺れる。
「……残るのか」
遼は笑わない。
「まだ分からん」
そのときだった。
森の奥から、低い音が響いた。
ぐるるるる、と地鳴りのような唸り声。
二人の視線が同時に上がる。
見張り台から、慌ただしい声。
「森が……動いている!」
兵士が駆け込んでくる。
「匂いだ! 魔物が寄ってくる!」
リシアの顔が一瞬で戦のそれに変わる。
「数は」
「三……いや、五以上!」
遼は立ち上がる。
炭の匂い。 肉の匂い。 甘い醤油の焦げた匂い。
それは確かに、森へ流れていた。
「消せ」
遼が言う。
「火を?」
「全部だ。今すぐ」
兵士が躊躇する。
「だが……」
「匂いが餌になってる」
リシアが即座に命じる。
「火を消せ! 鍋を伏せろ!」
水が炭にかけられる。
じゅわああ、と蒸気が立ち上る。
だがもう遅い。
森の縁に、影が見えた。
月明かりの下、四足の巨大な獣。
灰色の毛並み。 赤い目。 牙から垂れる涎。
「灰哭狼……」
リシアが呟く。
「普段はもっと奥にいるはずだ」
匂いに釣られた。
間違いない。
遼は一瞬だけ、後悔しかける。
だが次の瞬間、頭が切り替わる。
「鍋を持ってこい」
「なに?」
「さっきの煮汁だ!」
兵士が戸惑いながらも従う。
遼は壺から醤油を少量垂らし、煮汁に混ぜる。
さらに酒を注ぐ。
「砦の外、あの岩の向こうに投げろ」
「囮にする気か」
「匂いを強くして、誘導する」
リシアは一瞬だけ遼を見る。
そして頷く。
兵士が鍋を抱え、外へ走る。
どぷん、と液体が地面に撒かれる。
濃い匂いが夜気に広がる。
狼たちの動きが変わる。
一斉に、匂いの方向へ。
「今だ!」
リシアが剣を抜く。
兵士たちが弓を構える。
狼が集まった瞬間、矢が雨のように降る。
咆哮。
血の匂い。
戦いは長くは続かなかった。
匂いに狂った狼は連携を欠き、次々と倒れる。
やがて静寂が戻る。
砦の外に転がる灰哭狼の死骸。
湯気を上げる血。
焦げた醤油の甘い残り香。
リシアは剣を振り、血を払う。
「……あなたの匂いが、救ったな」
遼は何も言わない。
火の消えた炭を見つめる。
料理は、人を呼ぶ。
だが同時に、何かを引き寄せる。
それが敵か、客かは――まだ分からない。
兵士が言う。
「だが……」
皆の視線が、狼の死骸へ向く。
「肉だな」
沈黙のあと、誰かが笑う。
「……食えるのか?」
遼はゆっくり近づく。
毛皮を観察し、匂いを嗅ぐ。
「血抜きが間に合えば、いける」
兵士たちの目が光る。
恐怖は、いつの間にか期待に変わっていた。
リシアが呆れたように笑う。
「魔物まで、食材にするのか」
遼は初めて、はっきり笑った。
「無駄にする理由がない」
森の奥で、まだ何かが動く気配があった。
だが砦の中には、恐怖よりも別の熱が宿っている。
火は消えた。
だが――
料理は、もう止まらない。




