12
灰哭の森の夜は冷える。
昼間は湿った熱気に包まれているのに、日が落ちると空気は一気に痩せる。砦の石壁も、吐く息も白い。
その中央で、炭が赤く熾っていた。
ぱち、ぱち、と火の爆ぜる音。
遼は無言で肉を並べる。黒豚の分厚い肩肉。脂身が白く光り、刃を入れた断面は赤黒い。
塩を振る。
指で押し込む。
それだけで、兵士たちは唾を飲み込む。
肉はこの世界でも珍しくない。だがそれは、火にかざして焦がすだけのものだ。外は硬く、内は生臭い。腹を満たすための塊。
だが遼は、火から少し距離を取る。
「近づけすぎるな。焦げるだけだ」
誰に言うでもなく、呟く。
脂がゆっくり溶け始める。
じわ、と音がして、透明な雫が炭へ落ちる。瞬間、火が跳ね上がる。
兵士が思わず身を引く。
そのとき遼は壺を持ち上げた。
黒い液体。
光を吸い込むような色。
刷毛で肉に塗る。
一瞬、静まり返る。
次の瞬間――
甘く、深く、焦げる匂いが夜を裂いた。
「……っ!」
誰かが声を漏らす。
それは肉の匂いではなかった。塩でもない。果実でもない。だが、どれでもあるような、複雑な香り。
もう一度、塗る。
炎が舌のように肉を舐める。
表面が艶を帯びる。黒く、照りを持ち、脂が滴る。
遼は串を返した。
皮膚のようだった表面が、今は薄い飴の膜をまとっている。
「出来た」
リシアが最初にかじった。
ぱり、と小さな音。
そのあと、肉汁が溢れる。
彼女の目が見開かれる。
「……甘い」
だがすぐに首を振る。
「違う……甘いだけじゃない……」
塩の鋭さではない。 果実の単純な甘みでもない。
舌の奥に残る、深い、重い、だが嫌ではない余韻。
「なんだ……これは」
兵士が奪うようにかじる。
「くそ、酒だ、酒を持ってこい!」
「待て、まだある!」
笑い声が上がる。
炭の周りに人が集まる。
火が照らす顔は、いつもより柔らかい。
遼は次の肉を置く。
今度は薄く切ったものだ。
火に当てるとすぐ色が変わる。
そこへ、また黒い液体。
じゅわ、と音がして、香りが立ち上る。
その匂いに、子どもが寄ってくる。
「またあの匂いだ……」
遼は鍋の蓋を開けた。
中では、別の肉が煮えている。
醤油と、果実の蜜と、少量の味噌。
黒く染まった汁が、静かに泡立つ。
じゃがいもが角を丸くし、玉ねぎが透け、肉は箸で崩れそうなほど柔らかい。
一口よそい、兵士に渡す。
湯気が立ち上る。
男は無造作に口へ運ぶ。
次の瞬間、動きが止まる。
「……熱い」
当たり前だ。
だが彼が震えているのは、熱さのせいではない。
「なんだ……これ……」
肉はほろりと崩れ、汁が舌を包む。
甘い。しょっぱい。だがそれだけではない。
身体の奥が、じわりと温まる。
戦場で、剣を握る手の震えを止める温度。
「……腹じゃない」
男が呟く。
「胸が、温かい……」
周囲が静まる。
リシアが椀を抱えたまま、遼を見る。
「あなたは……何を混ぜているの」
「時間だ」
遼は炭をいじる。
「煮るってのはな、待つってことだ」
ぱち、と火が爆ぜる。
その横で、握った米を網に置く。
表面が乾き、薄く焼き色がつく。
そこへ、また黒い液体を塗る。
じゅ、と音。
香ばしい煙。
表面がかりりと固まり、中はふわりと湯気を抱く。
兵士がかぶりつく。
「外が固いのに……中が、柔らかい……」
「米が……甘い?」
この世界の米は、ただ茹でるだけだった。
だが火を入れ直し、醤油を重ねるだけで、まるで別物になる。
砦の中庭は、いつの間にか笑い声で満ちていた。
酒が回る。
肉が回る。
椀が空き、また満たされる。
灰哭の森の奥から、遠吠えが聞こえる。
だが誰も怯えない。
火がある。
匂いがある。
腹が満ちている。
リシアが静かに言う。
「この砦は、もう前の砦じゃない」
遼は答えない。
ただ炭を足す。
火を絶やさないように。
匂いは、森の奥へ流れていく。
ゆっくりと。
確実に。
それが何を呼ぶのか――
まだ、誰も知らなかった。




