11
門前には、見慣れない紋章入りの馬車が止まっていた。
深い紺の布に、金糸で縫われた秤の意匠。
商業ギルドの正式章だ。
御者台から降りてきた男は、灰色の外套を羽織り、白い手袋をはめている。足元は泥一つない革靴。
辺境の土を踏むことに慣れていない歩き方だった。
「誰が責任者だ」
低く、通る声。
リシアが一歩前に出る。
「私だ。用件は」
男の視線が砦を一巡する。屋台。団子の残り香。兵士の手に残った赤実蜜。
「甘味の無許可販売について、確認に来た」
空気が張る。
兵士の一人が小さく舌打ちする。
遼はゆっくり前に出た。
「確認とは?」
男は視線を向ける。
「王都より供給された砂糖は、用途と量が管理下にある。辺境における大規模販売は、申請が必要だ」
「仮契約はある」
遼は書類を差し出す。
男は目を通す。
表情は変わらない。
「確かに、試験販売の許可はある。しかし“規模”が想定を超えている」
「売れただけだ」
「結果が問題だ」
言葉が冷たい。
門の内側で、兵士たちがざわつく。
団子を手にした少年が、母親の後ろに隠れる。
甘い匂いが、場違いに漂っている。
「砂糖の消費量は?」
男が問う。
遼は一瞬だけ迷い、正直に答える。
「増えている」
「王都の在庫が逼迫し始めている。価格も上昇傾向だ」
兵士の一人が声を荒げる。
「こっちは銅貨で売ってんだぞ! 何が悪い!」
リシアが制す。
「静かにしろ」
男は淡々と続ける。
「甘味は本来、限られた者の嗜好品だ。無秩序に広げれば、市場が乱れる」
「乱れて困るのは誰だ」
遼が言う。
一瞬、男の目が細くなる。
「全体だ」
「それとも、一部か」
沈黙。
風が吹く。
甘い残り香が揺れる。
男はふっと息を吐いた。
「……あなたが発酵液の開発者か」
「そうだ」
「上は、あなたを“有用だが危険”と評価している」
「光栄だな」
「皮肉ではない」
男は一歩近づく。
「取引を提案する。砂糖の追加供給を認める。ただし、販売価格の調整と、流通経路の報告を義務付ける」
兵士たちが顔を見合わせる。
値上げ。
つまり、団子は高くなる。
列は減る。
甘味はまた遠くなる。
遼は黙っている。
頭の中で数字が走る。
壺の残量。
甘草液の試作。
需要の伸び。
価格を上げれば利益は増える。
だが――。
「断った場合は?」
遼が静かに問う。
「供給停止」
即答。
王都の砂糖は止まる。
だが今、砦には別の甘味がある。
未熟で、手間がかかる。
それでも、芽は出た。
遼は男の目を見る。
「一つ、見せたいものがある」
作業場へ案内する。
まだ温かい鍋。
甘草液が残っている。
小皿に取り、差し出す。
「王都の砂糖ではない」
男は怪訝な顔で舐める。
眉が、わずかに動く。
「……甘い」
「森にある」
遼は言う。
「量はまだ少ない。だが増やせる」
男は皿を見つめる。
理解が追いつくまでの、短い沈黙。
「王都の管理外で、甘味を生産するつもりか」
「生きるためだ」
門の外で、風が強くなる。
森の方から、ざわり、と音がした。
赤い線が、遠目にもわずかに濃い。
男は皿を返す。
「……報告する」
「好きにしろ」
「だが忠告しておく」
男の声が低くなる。
「甘味は人を笑顔にする。だが同時に、争いの種にもなる」
「知っている」
男は踵を返す。
馬車が軋む音を立てて去っていく。
門が閉まる。
静けさ。
兵士が息を吐く。
「どうする」
リシアが問う。
遼は森を見る。
鍋を見る。
壺を見る。
「両方やる」
「両方?」
「王都の砂糖も使う。森の甘味も育てる」
依存はしない。
切りもしない。
時間を稼ぎ、量を増やす。
赤い線が揺れる森の奥。
甘い匂いの残る砦。
どちらも、もう無関係ではない。
遼は火を入れ直す。
鍋が、再び静かに鳴り始めた。
王都の馬車が去ったあとも、砦の空気は落ち着かなかった。
兵士たちは表向きはいつも通りに見回りに戻ったが、誰もが森の方を気にしている。
遼は作業場で甘草液の鍋をもう一度火にかけた。
今度は実験ではない。
本気だ。
「さっきの男、戻ってくると思うか」
リシアが壁にもたれて言う。
「戻る」
「早いか、遅いか」
「早い」
甘味の匂いは、隠せない。
火を強める。
甘草の繊維をさらに刻み、石臼で潰す。
ぎり、ぎり、と重い音。
汁が滲み出る。
それを布で絞り、鍋に足す。
色が少し濃くなる。
煮詰める。
焦げないように、絶えず混ぜる。
額から汗が落ち、鍋の縁に弾ける。
甘い匂いが、昨日よりはっきりしている。
「濃くなってる」
シェルフィが呟く。
舐める。
目を細める。
「うん。前より強い」
遼は団子を茹でる。
白い球が浮く。
甘草液を使った新しいタレを作る。
発酵液を少し多めに。
王都の砂糖は、ほんのひと匙。
混ぜる。
香りを嗅ぐ。
青さが減った。
代わりに、深い甘さが残る。
団子に絡める。
最初に食べたのは、昨日の少年だった。
一口。
噛む。
眉が寄る。
遼の心臓がわずかに跳ねる。
少年はもう一口、噛む。
「……きょうの、ちょっとちがう」
「まずいか」
「ちがう。でも、あまい」
飲み込む。
「なんか、あとにのこる」
母親も食べる。
ゆっくり噛む。
「悪くないよ。前より、あったかい感じがする」
兵士も食べる。
「砂糖だけのより、腹に残るな」
遼は小さく息を吐く。
いける。
完全な代替ではない。
だが“別の甘味”として成立する。
列は今日も伸びる。
甘味は止まっていない。
だが昼を過ぎたころ、森の方角から低い振動が伝わった。
地面が、かすかに揺れる。
リシアが即座に立ち上がる。
「来るぞ」
門番の叫び。
「魔獣だ!」
森の縁から、黒い影が三つ飛び出す。
昨日より大きい猪型。
目が赤い。
まっすぐ砦へ向かってくる。
「速い!」
兵士が槍を構える。
だが動きが乱れている。
腹は満ちているが、緊張が追いつかない。
遼は団子の串を握りしめる自分に気づき、投げ捨てた。
リシアが前に出る。
槍が閃く。
一体目の突進を受け止める。
衝撃。
土が跳ねる。
横から二体目が回り込む。
「右!」
遼が叫ぶ。
兵士が飛び込み、槍を突き立てる。
浅い。
魔獣が暴れ、兵士を弾き飛ばす。
シェルフィが地面を蹴る。
木の幹を使い、高く跳ぶ。
背中に短剣を突き立てる。
血が噴く。
絶叫。
リシアが槍を引き抜き、喉を貫く。
一体、沈む。
残り二体。
だが動きが荒い。
目が焦点を結んでいない。
理性がない。
「おかしい……」
シェルフィが呟く。
最後の一体が、砦ではなく作業場の方へ突っ込む。
甘い匂いの方へ。
「鍋だ!」
遼は走る。
魔獣が鍋をひっくり返す寸前、横から兵士が体当たりする。
鍋が倒れ、甘草液が地面に広がる。
甘い匂いが一気に立ちのぼる。
魔獣がその液体に顔を突っ込む。
一瞬、動きが止まる。
その隙に、リシアの槍が貫いた。
静寂。
荒い息だけが残る。
甘い匂いと血の匂いが混ざる。
遼は倒れた鍋を起こす。
中身は半分以上こぼれている。
兵士が呻く。
「怪我人は三人。命に別状なし」
リシアが短く報告する。
シェルフィは森を見ている。
「……甘い匂いに寄ってきた」
遼も気づいていた。
偶然ではない。
森の魔獣が、甘味に反応している。
赤い線が濃くなっている理由。
甘味を広げることが、森を刺激しているのか。
地面に広がった甘草液を見つめる。
甘さは人を呼ぶ。
だが人だけではない。
砦の外、森の奥で、また何かが揺れた。
甘い風が、血の匂いを運んでいく。




