裏口の向こう側
桜島は、その日も静かに煙を吐いていた。
鹿児島市の外れ、古びたアーケード商店街の一角に、小さな定食屋がある。
暖簾に墨で書かれた三文字。
ましま食堂。
昼は工事現場帰りの男たち、夜は近所の常連客がぽつぽつと来る。
繁盛しているとは言いがたいが、潰れもせず、ただ淡々と続いてきた店だ。
店主の真島遼は、今日も一人で厨房に立っていた。
寸胴鍋の中では黒豚の角煮が煮えている。
ぐつぐつ、という音。
醤油と砂糖、みりん、生姜の香りが立ちのぼる。
「……まあ、悪くねえ出来だな」
箸で肉をつつくと、ほろりと崩れた。
味には自信がある。
だが自信と売上は比例しない。
レジを締める。
今日の売上、六千三百円。
「電気代で消えるな」
苦笑しながら、遼は暖簾を下ろした。
父が残した店だった。
料理人だった父は寡黙な人で、「うまいもん作れ。それだけだ」としか言わなかった。
その父が亡くなって三年。
客は少しずつ減り、商店街も静かになっていった。
店を畳むべきか。
そんな考えが、最近は頭の隅に居座っている。
遼は裏口からゴミ袋を持って出た。
その瞬間だった。
風が、違った。
潮の匂いが消えている。
代わりに、湿った土と草の匂い。
足元のアスファルトがない。
「……?」
顔を上げる。
そこにあったのは、路地裏ではなかった。
巨大な木々。
見上げるほど高い幹。
空は濃紺で、月が二つ浮かんでいる。
赤い月と、青い月。
「は?」
振り返る。
そこには、確かに店の裏口。
だが一歩踏み出せば、森。
遼はしばらく固まった。
「夢……だな。うん。たぶん」
自分の頬をつねる。
痛い。
遠くで、低いうなり声が響く。
本能が告げる。
ここは安全ではない。
遼はゆっくりと後退し、裏口から店内へ戻った。
扉を閉める。
深呼吸。
もう一度開ける。
森。
「……まじかよ」
店の中はいつも通りだ。
カウンター、テーブル席、厨房。
だが裏口の向こうだけが、別世界。
遼は椅子に座り込んだ。
「なんで俺なんだよ……」
神頼みも異世界も信じたことはない。
だが現実は、森だった。
しばらく考え、結論を出す。
「とりあえず、飯食おう」
腹が減っては何も考えられない。
自分用に角煮をよそい、白飯を盛る。
湯気が立つ。
箸で肉を割る。
とろり、と脂が光る。
一口。
甘辛い味が口に広がる。
「ああ……うまい」
それだけは、変わらない。
世界がどうなろうと、うまいものはうまい。
その時だった。
ガサリ、と森の方から音がする。
遼は箸を止めた。
重い何かが倒れる音。
金属が地面にぶつかる音。
しばらくして、かすかなうめき声。
遼は立ち上がった。
「……放っとけるかよ」
包丁を手に、慎重に裏口を開ける。
森の縁に、誰かが倒れていた。
銀色の鎧。
長い金髪。
折れた剣。
肩から血が流れている。
女だ。
「おい!」
駆け寄る。
息はある。
だが浅い。
遼は迷わず担ぎ上げた。
「重っ……!」
鎧込みだから当然だ。
店内へ運び込み、床に寝かせる。
応急箱を引っ張り出す。
「ちょっと脱がすぞ」
返事はない。
鎧の留め具を外し、傷を確認する。
深いが、致命傷ではない。
タオルで血を拭き、消毒し、包帯を巻く。
作業を終えたところで、女の腹が鳴った。
ぐう、と盛大に。
遼は思わず吹き出す。
「……生きてるな」
鍋を見る。
角煮はまだ温かい。
白飯もある。
遼は皿に盛り、味噌汁を添えた。
女の目が、ゆっくり開く。
青い瞳。
警戒と困惑。
「ここは……どこだ」
「食堂」
簡潔に答える。
女は起き上がろうとして顔をしかめる。
遼は箸を差し出した。
「話は後。食え」
女は皿を見る。
湯気。
照りのある肉。
白い米。
恐る恐る一口。
肉が崩れる。
甘い。
しょっぱい。
柔らかい。
目が見開かれる。
「……なんだ、これは」
その声は、震えていた。
二口目。三口目。
止まらない。
涙が、ぽたりと落ちる。
「こんな……料理は……知らない」
遼は腕を組む。
「だろうな」
女は食べ終え、深く息を吐いた。
まるで、長い戦いを終えたように。
「私はリシア。辺境騎士団の者だ」
「真島遼。食堂の店主だ」
二つの世界の人間が、向かい合う。
森の外では、何かが遠吠えをあげる。
だが店内は、湯気と出汁の匂いに包まれていた。
リシアは小さく言った。
「……また、食べたい」
遼は少しだけ笑った。
「営業時間内ならな」
その夜。
ましま食堂は、異世界で最初の客を得た。




