香りは波紋のように
ふわり、とベルガモットの香りがした。
「ねえ君、水族館を案内してよ」
少し震えた声で彼女がそう言った。
──なんでそんなに上からなんだよ。同級生なのに。
けれど、耳まで赤くなった彼女をみて、僕はその軽口を呑み込んだ。
水族館は僕のホームグラウンドだ。
水族館に行くこと自体が好きだし、ここでバイトもしている。
バイト仲間と作った雪だるまを横目に、二人でエントランスをくぐった。
受付のお姉さんと目が合う。彼女と二人で歩く僕を見て、お姉さんは小さく笑っていた。僕は口を尖らせて、無言の抗議をする。
お姉さんに軽く会釈をして、中へと進んだ。
館長の好意で、僕はいつもフリーパスだ。
すれ違い様、お姉さんが小さく親指を立てていた。
「うわあ!このクラゲ、綺麗だねぇ!」
薄暗い水槽の前で、彼女が嬉しそうにはしゃいでいた。ライトアップされたクラゲのために、辺りの光は控えめになっている。そんな中でも彼女の笑顔ははっきりとわかった。
「頭の模様がクローバーみたい!」
彼女が指差しているのはミズクラゲだ。
直径20センチほどの傘を持ち、白いゼリーのような質感をしている。
「それはミズクラゲだよ。クローバーみたいな部分は胃みたいなもので、食べたものによって色が変わるんだ」
「え!胃袋!?」
「ウチの水族館だとオレンジ色になるよ」
「へー!それって見れるの?」
「うーん……餌の時間ならね。もうちょっと後だかな」
「そっか……」
少し残念そうな彼女の顔が、クラゲの光を浴びてゆらめいた。
普段は少し勝気な彼女の、儚げな表情。僕はどきりとした。
「こ……この先にカフェがあるから、少し休まない?」
もう少し見惚れていたい気持ちもあったけど、気恥ずかしくなった僕は話を逸らした。
「うん!何かオススメはあるの?」
「パンケーキ、かな」
「いいね。行こう!」
僕の選択はお気に召したみたいだった。
「どっち?」
そう、聞いてくる彼女。ふわりと香ったいつもの香水。その中に消毒液のような匂いが混ざった気がして、少し胸がざわついた。けれど、彼女の笑顔を見て、僕は何も言えなかった。
写真よりも大きなパンケーキを見て、彼女は目を丸くしていた。
「え……大きく、ない……?」
僕はその反応を見てクスクスと笑う。
「あーー!私が食べきれないと思って薦めたんでしょ!?」
頬を膨らませ、少し拗ねたような彼女が可愛いらしかった。けれど、どこか弱々しく見えた。
「ごめんごめん。僕も食べるから」
そんな不安を振り払うように、僕は笑ってフォークを取った。
──結論として、僕はかなりの量を食べる羽目になった。
お互いに告白なんてしていない。
でも、あの頃の僕たちは──たぶん、付き合っていたんだと思う。
──そんな日が続く。そう、思っていた。
***
ある日突然、彼女と連絡が取れなくなった。
学校にも来ておらず、友達も詳しいことは知らなかった。
胸の奥がざわついたまま、数日が経った。
ある日、先生から彼女が入院し、危険な状態だということを教えられた。
放課後、雪の中を病院に向かって走った。
足を取る積雪が、煩わしい。
吸い込んだ冬の空気が、痛かった。
寒いはずなのに、汗が止まらない。
駆けつけた病院の受付。僕は震える声で彼女の名前を告げた。
看護師さんは目を伏せ、「面会謝絶です」と申し訳なさそうに言った。
それだけで、全てを察してしまった。
何もできない自分の無力さが、雪よりも冷たく心を凍らせた。
──彼女が香水をつけていた理由。
それは、病院で染みついた匂いを隠すためだったと後で知った。
爽やかで少し甘い、あの香りが好きだった。
初めてデートした時に感じた違和感。
「何か声をかけてあげられたら、違ったのかな」
いや、思い返しても、何も変わらなかっただろう。
けれど、彼女の力にはなれていたかもしれない。
僕にできることは、ただ彼女の回復を祈るだけだった。
彼女は手術のため県外の病院へ転院するらしい。
世界から、色と香りがなくなったようだった。
それでも──彼女と過ごした時間の波紋だけは、今も静かに心に広がり続けていた。
***
とても長い時間が経ったように感じた。
私は、バスを降りると水族館へと歩き出した。
目立たないけれど、ひたむきに努力する。そんな彼に、いつの間にか惹かれていた。
文化祭の準備で照明が壊れたとき、彼だけが最後まで残って直そうとしていた。
「せっかくみんなで作ったんだから」
その一言が、まっすぐに胸を刺した。
翌朝、照明は何事もなかったように光っていた。けれど、彼の名前は何処にも刻まれていない。
──そういうところが、ずるいと思った。
水族館の前に置いてあった雪だるまは陰も形もなかった。
新学期なんて待っていられなくて、真っ先にここにきてしまった。
この時間なら彼はバイトをしているはずだ。
まだ彼を見つけてもいないのに、胸の奥がうるさく鳴っている。
深呼吸をする。暖かい春の空気が肺に流れ込み、緊張が和らいだ気がした。
もうつける必要のなくなった香水。だけど、この香りは二人のお気に入りだ。
エントランスをくぐり、受付を済ませる。
平日の水族館は静かで、光が優しく揺れている。
見慣れた──けれど久しぶりの背中を見つけて、ドキリとする。
震える声を押さえつける。
顔から火が出そうだ。
「ねえ君、水族館を案内してよ」
ふわり、とベルガモットの香りがする。
──少し、裏声になっていたかもしれない。
振り向いた彼の、目を丸くした顔
そして、泣きそうな顔
全てが、愛おしかった。




