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香りは波紋のように

作者: 藤木 規史
掲載日:2025/10/21

ふわり、とベルガモットの香りがした。

「ねえ君、水族館を案内してよ」

少し震えた声で彼女がそう言った。

──なんでそんなに上からなんだよ。同級生なのに。

けれど、耳まで赤くなった彼女をみて、僕はその軽口を呑み込んだ。


水族館は僕のホームグラウンドだ。

水族館に行くこと自体が好きだし、ここでバイトもしている。

バイト仲間と作った雪だるまを横目に、二人でエントランスをくぐった。

受付のお姉さんと目が合う。彼女と二人で歩く僕を見て、お姉さんは小さく笑っていた。僕は口を尖らせて、無言の抗議をする。

お姉さんに軽く会釈をして、中へと進んだ。

館長の好意で、僕はいつもフリーパスだ。

すれ違い様、お姉さんが小さく親指を立てていた。


「うわあ!このクラゲ、綺麗だねぇ!」

薄暗い水槽の前で、彼女が嬉しそうにはしゃいでいた。ライトアップされたクラゲのために、辺りの光は控えめになっている。そんな中でも彼女の笑顔ははっきりとわかった。

「頭の模様がクローバーみたい!」

彼女が指差しているのはミズクラゲだ。

直径20センチほどの傘を持ち、白いゼリーのような質感をしている。

「それはミズクラゲだよ。クローバーみたいな部分は胃みたいなもので、食べたものによって色が変わるんだ」

「え!胃袋!?」

「ウチの水族館だとオレンジ色になるよ」

「へー!それって見れるの?」

「うーん……餌の時間ならね。もうちょっと後だかな」

「そっか……」

少し残念そうな彼女の顔が、クラゲの光を浴びてゆらめいた。

普段は少し勝気な彼女の、儚げな表情。僕はどきりとした。

「こ……この先にカフェがあるから、少し休まない?」

もう少し見惚れていたい気持ちもあったけど、気恥ずかしくなった僕は話を逸らした。

「うん!何かオススメはあるの?」

「パンケーキ、かな」

「いいね。行こう!」

僕の選択はお気に召したみたいだった。

「どっち?」

そう、聞いてくる彼女。ふわりと香ったいつもの香水。その中に消毒液のような匂いが混ざった気がして、少し胸がざわついた。けれど、彼女の笑顔を見て、僕は何も言えなかった。


写真よりも大きなパンケーキを見て、彼女は目を丸くしていた。

「え……大きく、ない……?」

僕はその反応を見てクスクスと笑う。

「あーー!私が食べきれないと思って薦めたんでしょ!?」

頬を膨らませ、少し拗ねたような彼女が可愛いらしかった。けれど、どこか弱々しく見えた。

「ごめんごめん。僕も食べるから」

そんな不安を振り払うように、僕は笑ってフォークを取った。


──結論として、僕はかなりの量を食べる羽目になった。


お互いに告白なんてしていない。

でも、あの頃の僕たちは──たぶん、付き合っていたんだと思う。


──そんな日が続く。そう、思っていた。


***


ある日突然、彼女と連絡が取れなくなった。

学校にも来ておらず、友達も詳しいことは知らなかった。

胸の奥がざわついたまま、数日が経った。


ある日、先生から彼女が入院し、危険な状態だということを教えられた。


放課後、雪の中を病院に向かって走った。

足を取る積雪が、煩わしい。

吸い込んだ冬の空気が、痛かった。

寒いはずなのに、汗が止まらない。


駆けつけた病院の受付。僕は震える声で彼女の名前を告げた。

看護師さんは目を伏せ、「面会謝絶です」と申し訳なさそうに言った。

それだけで、全てを察してしまった。

何もできない自分の無力さが、雪よりも冷たく心を凍らせた。


──彼女が香水をつけていた理由。

それは、病院で染みついた匂いを隠すためだったと後で知った。


爽やかで少し甘い、あの香りが好きだった。

初めてデートした時に感じた違和感。

「何か声をかけてあげられたら、違ったのかな」

いや、思い返しても、何も変わらなかっただろう。

けれど、彼女の力にはなれていたかもしれない。


僕にできることは、ただ彼女の回復を祈るだけだった。


彼女は手術のため県外の病院へ転院するらしい。

世界から、色と香りがなくなったようだった。

それでも──彼女と過ごした時間の波紋だけは、今も静かに心に広がり続けていた。


***


とても長い時間が経ったように感じた。

私は、バスを降りると水族館へと歩き出した。


目立たないけれど、ひたむきに努力する。そんな彼に、いつの間にか惹かれていた。


文化祭の準備で照明が壊れたとき、彼だけが最後まで残って直そうとしていた。

「せっかくみんなで作ったんだから」

その一言が、まっすぐに胸を刺した。

翌朝、照明は何事もなかったように光っていた。けれど、彼の名前は何処にも刻まれていない。


──そういうところが、ずるいと思った。



水族館の前に置いてあった雪だるまは陰も形もなかった。

新学期なんて待っていられなくて、真っ先にここにきてしまった。

この時間なら彼はバイトをしているはずだ。

まだ彼を見つけてもいないのに、胸の奥がうるさく鳴っている。

深呼吸をする。暖かい春の空気が肺に流れ込み、緊張が和らいだ気がした。

もうつける必要のなくなった香水。だけど、この香りは二人のお気に入りだ。

エントランスをくぐり、受付を済ませる。

平日の水族館は静かで、光が優しく揺れている。

見慣れた──けれど久しぶりの背中を見つけて、ドキリとする。


震える声を押さえつける。

顔から火が出そうだ。

「ねえ君、水族館を案内してよ」

ふわり、とベルガモットの香りがする。

──少し、裏声になっていたかもしれない。


振り向いた彼の、目を丸くした顔

そして、泣きそうな顔

全てが、愛おしかった。

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