2話 こんにちは過去
「鈴鹿ー! 早く起きなさい!! 遅刻するわよ!!」
まどろみの中、大きな声が聞こえて意識が覚醒する。
ずいぶん懐かしい感覚だな。母さんに起こされる夢を見るなんて。それだけ追い詰められてたってことか。
両親は健在だし、実家だって盆暮れには帰省するが、母親に起こされるなんてことはない。アラサーにもなれば遅くまで眠り続けることも難しく、休日だろうが遅くとも8時過ぎには目を覚ますのだ。母親の大きな声で起こされるなど何年振りの事だろうか。そんな昔のことを思い出して起きるなんて、ずいぶんと追い込まれていたのだなと自分の状態を改めて思い知った。
さて、今何時だ? 夕方とかじゃないだろうな。あんまり遅いと今度は眠れないぞ。
そう思いながらゆっくりと目を開けた。
「……は?」
その気の抜けた声は、夕方どころか既に周りが暗くなっていたから出た声ではない。目を覚ましてみた光景が、寝る前に見た光景と全く違ったのだ。
「え、どういうこと? こわっ」
寝ていたベッドは、先ほど倒れるように眠りについたベッドではない。社会人になって住み始めた、狭いながらも1LDKの部屋ではなくなっていた。
目を覚ましたら初めての景色、というわけではないのだ。逆だ。見慣れた景色なのだ。ここはかつて自分が住んでいた実家の部屋なのだ。多分。
多分というのは、自分の部屋だとは思うが今とは随分様変わりしているからだ。懐かしい……そう懐かしいのだ。勉強机は今でも部屋に置いてあるが、机の上に物など何も置いていなかったはずだ。身体を起こしてみてみれば、ベッドも子供のころに使っていたものじゃないだろうか。
散らかっている部屋を呆然と見ていると、誰かが階段から上がってくる音が聞こえた。
「鈴鹿!って起きてたの? なら早く顔洗って支度しなさい! もう30分よ!」
ドアを開けて顔を出したのは母さんだ。
ん? 朝から化粧でもしているのか? 若返ってないか?
そんな母さんに向けて何か言おうとしたが、忙しそうにすぐに下へ降りて行ってしまった。
「えぇ、なにこれ? まだ夢?」
頬をつねるが、触れた感触も痛みも感じる。30年生きてきて、ここまでリアルな夢は見たことがない。
頭は混乱でいっぱいだが、とりあえず母さんのいう通り顔でも洗いに行くか。
そう思ってベッドから出れば、部屋全体を見渡せる。そうすれば先ほどまで感じていた違和感は確信に変わった。
学生時代のように、普段から使用しているだろう生活感漂う部屋。過去に捨てたはずのスクールバッグからは教科書がはみ出ている。勉強机の上には連載が終了しているはずの作品が表紙を飾っている少年シャンフ。
何が起きているのか確信しながらも、訳がわからないと混乱しながら急いで洗面所へ向かった。
「ははっ……若いな、おい」
鏡に映る俺の顔は、三十歳のおっさんの顔でも、FXで全財産失い精気の抜けきった顔でも、髭を剃らず無精ひげでまみれた顔でもない。10代の、張りのある若かりし頃の俺が、そこに映っていた。
◇
「はーはっはっは!!」
勝った!! 勝ったぞ!!! 完全に勝利したッ!!!
何に勝ったかわからないが、鈴鹿は高笑いしながら歩いていた。
本日は1学期期末試験の最終日。午前中に終わった中学校を出て下校している途中だった。
「訳が分からないし、何がどうなったかも知らん! ただ、タイムリープした。その事実だけがすべてだッ!!」
そう。鈴鹿は目を覚ましたらタイムリープしていた。三十歳の全財産をFXで溶かしたあの続きではない。過去の自分に戻っていたのだ。2009年の6月末。15歳の中学三年生に。
初めは夢かと思った。当たり前だ。時をかけるおじさんなど誰が求めているのだ。
だが、頬を抓れば普通に痛い。テストを速攻で終わらせて残りの時間を寝て過ごしたが、目を覚ましても学校の教室のまま。納得はできないが、タイムリープしたことだけは理解した。
それはつまり、やり直せるということだ。自分の人生を。強くてニューゲームできるのだ。それも中学生という若さから。
「俺に過去に戻ってやり直したいと強く願うほどの後悔はない。……いや、全財産溶かしたFXは後悔しているけど」
交友関係も進学した学校も就職先も、新しい人生もう一度同じ道を歩んでいいと思えている。もちろん、もう少し学生時代に青春したかったなぁとかは思っているが、言ってしまえばその程度だ。細かい後悔は数あれど、三十歳になっても引きずる程の後悔はなかった。
だが、大人になったからこそ……いや、FXで全財産溶かしたからこそ、今の俺はこのタイムリープに心の底から感謝していた。
溶かしたお金がチャラにできるから感謝しているのかって?
そんな訳ない。あんなの何回人生繰り返したって、『次こそ大丈夫だ』とか言ってまた溶かす。幾度となく繰り返したのだから、やり直しに意味がないことくらいわかっている。
では何に感謝しているのか。それは大金を得られるからだ。
宝くじの当選番号を覚えているわけではない。競馬でどの馬が優勝したかなんて、興味もなかったから知りもしない。
だが、この15年間で株価の相場が大幅に動いたポイントだけは覚えている。特に暗号資産だ。
暗号資産全盛期の年。その後どのように相場が移り変わったかも大雑把に覚えている。暗号資産は値動きが激しいから、それだけでも数億円程度稼げるだろう。何せ確実に訪れる未来なのだから。レバレッジをかなり上げて相場に挑んでも約束された勝利が待っている。
それだけじゃない。どのタイミングで日経平均が大幅に動くかだってなんとなく覚えている。内閣政権発足、東京五輪決定、アメリカ大統領選の勝者、極めつけはコロナウイルスによる恐慌や円安・円高による日経平均の値動き。この情報だけで安泰だ。働かずして億万長者になれてしまう。
極めつけはドル円相場。1ドル100円を下回っているこの時代に、1ドル160円超えるなんて想像できていた奴がいるだろうか。ここ直近の相場は鮮明に覚えている。忘れないうちにメモっておけば、最悪でも三十歳になれば労働から解放される未来が待っているのだ。
将来の金銭的不安は一切なく、むしろ金など湯水のように使えることが約束された人生。そして今は15歳という青春ど真ん中の時代。
彼女が欲しい、エッチなことがしたいと性欲に支配されていた猿のような中三の俺はいない。今なら大人としての余裕もある。お世辞にも恋愛経験が豊富とは言えないが、女の子にがっつくことは無く、紳士にふるまえば恋人だってできるはず! そうすれば制服デートすることだって不可能ではないはずだッ!!
「勝った。そう、俺は人生に勝ったんだ」
俺はにやけ面を浮かべながらカバンから家の鍵を取り出し、帰宅した。
「アイムホ~ム!」
ノリまで中学生に戻ったのか、英語でただいまと言いながら靴を脱ぐ。家には誰もいない。3つ上の兄は高校に行っているし、父さんは仕事、母さんもパートに出ている。鍵っ子の俺は、家に入るときは誰もいなくてもただいまと言うことが染みついているのだ。
お昼について書かれている母さんが残したメモを見ながら、冷蔵庫から焼きそばを取り出し温めた。この時代の昼の番組って何やってたっけと思いながらテレビをつけると、お昼のニュースが流れた。
『では、次のニュースです。大阪ダンジョンで活動している特級探索者ギルド、猛虎伏草が7階層1区のエリアボスの討伐に成功いたしました』
焼きそばが温まるまで電子レンジの前で待とうとテレビをつけた後リモコンを置いたが、聞きなれないニュースの内容に動け出せず画面を注視することしかできなかった。
『猛虎伏草が討伐に成功したエリアボスは―――』
俺の聞き間違えでもなければ、アニメの話でも映画の話でもなかった。テレビに表示されているのは、でかい怪獣のようなモンスターと戦っている様子。まるでモンスターをハンターするゲームの実写版のような光景。だが、モンスターはCGでは出せない、本物の迫力を伴っている。
その後の場面では、ファンや報道陣に囲まれながらインタビューを受けている猛虎伏草というギルドのメンバー達が映っており、まるでゲームの装備の様な防具を着ている。
「え? これガチなやつ? どういうこと?」
朝以上に頭を混乱させている俺の耳にはニュースキャスターが読み上げる原稿内容は聞きなれないため頭に入らず、代わりに温めの終了を告げる電子レンジの音がチンッと聞こえるのだった。