閑話 灰ヶ峰染
『染。いいかい。あんたは何者にも染められるんじゃない。自分の色をしっかりと持ちなさい』
灰ヶ峰染が物心ついた時から、うわ言のように繰り返し言われ続けた祖母の言葉だ。
灰ヶ峰は広島の郊外で生まれ育った。母親はいたが母親としての役目は祖母が担ってくれていた。いつ崩れてもおかしくないあばら家のようなボロアパートで、日に日に認知症が進んでいく祖母と共に生きていた。そして、数年とたたずに祖母は他界した。
残されたのはボロアパートと、育児放棄の母親。酒臭い泥酔した状態で帰ってきて寝るだけか、薬物によって意識朦朧としているか、客なのか彼氏なのかわからない男たちと情事に励んでいるか。灰ヶ峰の存在などいないものとして彼女は生きていた。不幸中の幸いは、本当に灰ヶ峰の存在を認識していないようで、暴力などのDV被害に遭わなかったことだろうか。とはいえ、幼少期に母親から存在を認識されずに共に過ごすというのがどれほど心理的に影響を与えるのかは、その後の灰ヶ峰の成長が物語っている。
灰ヶ峰は泣きもせず、淡々と生きていた。公園の水道で喉を潤し身体を洗い、母親の客が置いて行った弁当や小銭で食いつなぎ、栄養失調一歩手前の骨と皮のような状態でも、灰ヶ峰は生きていた。
しかし、その生活もじきに終わる。母親が手を出していた混ぜ物がたんまり入った粗悪品の覚せい剤を、効きが悪いと過剰摂取したことで急性中毒を引き起こしたのだ。痙攣しながらも脳みそが天国へ旅立つとともに、そのまま帰らぬ人となった。灰ヶ峰が天涯孤独になった瞬間である。
その様子を、灰ヶ峰はいつものように部屋の片隅からただただ見ていた。母親が倒れようとも、何もしない。否。何をしていいのかもわからないし、人の死を間近で見ても何の感情も揺らがない。生まれつきなのか、境遇がそうさせたのかはわからない。しかし、この時にはすでに灰ヶ峰は感情と呼ばれるものが希薄であった。結果、路上で車に踏みつぶされた虫でも見るかのように、灰ヶ峰は痙攣が次第に収まり動かなくなってゆく母親を、ただただ濁った瞳で見ていることしかしなかった。
母親の死から二週間経ち、腐敗臭が立ち込めたことで母親の死が発覚した。驚くことに、灰ヶ峰は母親の死から二週間もの間、普通に生活をしていたのだ。いつものように公園で喉を潤し、近所のごみを漁り、残飯を食べて生をつないでいた。母親については何故か動かなくなり、臭くなっただけ。そうとしか灰ヶ峰は認識していなかった。
その後、灰ヶ峰は児童養護施設へと引き渡される。しかし、そこでも救いはない。
児童養護施設は戦後の独房か何かか?と思わずツッコミを入れたくなるような劣悪な環境だった。児童たちによる格付けとイジメ。職員たちによる度重なる体罰。過酷だが逃れる術もなく、逃げたところで保護されて連れ戻される。そうなった後のことを考えると、誰も逃げようなどと思えなかった。
そんな施設で15歳まで育った後は、出荷だ。出荷。およそ人間に使う言葉ではないが、その扱いは出荷と表現することが適切だと思えてしまう。なぜなら彼らの引き取り先は真っ当な企業でも里親でもなく、反社会的勢力の蜥蜴なのだから。
蜥蜴が子供を引き取ってどうするかと言えば、ダンジョンで探索をさせるのだ。一般的なギルドのノルマが可愛く思えるほど、まるで鈴鹿の探索スケジュールのようなノルマが子供達に課される。蜥蜴にとって、別にそれで子供たちが死んだっていいのだ。死んだら彼らの戸籍や探索者資格が別のことに使われるだけなのだから。死んでも良し。生き残り強く成れば兵隊として所属させる。どちらに転んでもいい。それが養護施設に預けられた子供たちの末路であった。
そして、彼らは運よく1層3区の探索まで生き残ると、2層1区へは進まない。1層4区の探索へ送り込まれる。4区5区の素材は非常に高価であり貴重だ。企業も大金を払ってトップギルドに依頼することがある程に。それは日本だけではない。まるで金やレアアースのように、世界中で求められている。
ダンジョン産アイテムの違法輸出まで手掛ける蜥蜴は、兵隊に4区の素材を取りに行かせる。もちろん死傷者は凄まじい。それでも、構わない。彼らにとって兵隊は替えがきく人材でしかないのだから。それにすぐに死ぬことはない。1回2回は生きて帰ってくる。それだけでも貴重なアイテムが手に入り、蜥蜴としては十分である。3回目4回目の探索で死んでしまおうが、今回はもったなとか、今回は外れだったなとか、そんな感想しか抱いてもらえない。
そんな最悪な環境でも、4区で生き抜くことができる子供も存在する。そんな子供たちが次に待つのは、5区の奇猿狩り。探索者相手でも効果を発揮する薬物、イエローモンキーの原料となる『沈静の雫』を集めさせるのだ。
ここまでたどり着けた子供たちは優遇される。ここにきて、ようやく替えがきかないと判断してもらえるのだ。毎回毎回奇猿を狩りに危険な5区で探索する必要があるが、給金も増え組織内でもでかい顔ができ、彼らの自尊心が満たされる。気づけば立派な兵隊に仕上がるのだ。
そんな中、灰ヶ峰は5区すら突破した稀有な例である。灰ヶ峰の淡々とした探索活動は、的確でいて死の手前までリスクを取ることができる突出した才能を持ち合わせていた。灰ヶ峰の無駄を削ぎ落した探索スケジュールに明確な指示は、パーティメンバーからも絶大な支持を受ける。特に灰ヶ峰が最も危険な役回りを常に引き受けていたことも、仲間たちからの信頼を篤くする要因となっていただろう。その結果、十代の子供たちとは思えない、まるで特殊部隊のようなパーティが完成していた。
ただ搾取され転がり続けるだけの人生だった灰ヶ峰が、自らの力で踏ん張って流れを変えたのだ。周囲も灰ヶ峰たちを評価し、代表である大久野も『孤児が持つハングリーさはやはり素晴らしい』と絶賛したほどだ。
だが、灰ヶ峰はそんな評価も何もかもがどうでもよかった。別に凄いことをしているという思いもなければ、達成感など微塵も感じていない。できるからやっただけである。灰ヶ峰にとって自分の命も仲間の命も、関係ない。各々のステータス、スキル構成、出現するモンスターの種類とレベル、エリアボスの特徴。それらを調べ、探索できるから進み、倒せるから戦うだけなのだ。
仲間たちが周囲の評価に浮かれる中、灰ヶ峰だけはただ淡々と生きていた。
そんな灰ヶ峰の快進撃も、特級を目前に打ち砕かれる。3層5区に出現する練鱗淵の番との戦いで、灰ヶ峰以外のパーティメンバーが全滅したのだ。
猛虎伏草を始めとした各ギルドから得た情報から、淵の番は問題なく戦えるはずだった。しかし、実際に現れたのは灰ヶ峰が想定していた強さ以上の力を持った淵の番。結果として、なんとか倒すことはできたが灰ヶ峰以外のメンバーが死亡する惨憺たるものであった。
何故そんな淵の番が現れたのかは結論付けられていない。ユニークモンスターなのか、たまたま外れ値のような強さのモンスターが現れたのか、原因は分からず結果だけが残った。
彼らは知らないが、この悲劇を生んだのは練鱗淵の番が持つ特性によるものだ。その特性は、戦う前衛に応じて強さが変動するというもの。そして、淵の番の正面を受け持ったのが、灰ヶ峰であった。灰ヶ峰の強さに引っ張られた淵の番によって、仲間たちが対応できるレベルを超えた淵の番となってしまったのだ。
これにより、灰ヶ峰の探索は歩みを止めた。せっかくここまできたので3層5区のエリアボスを討伐したいという思いがあるが、そのレベルの探索者が出てこない。現れなければ猛虎伏草や千年一剣のメンバーを募って、1~3区のエリアボスなりを倒してレベル200を超えればいいだろうということになったのだ。
この時にはすでに灰ヶ峰は蜥蜴内部の運営にも深く携わっており、そちらが忙しかったのでレベル上げが急務にならなかったという背景も付け加えておく。灰ヶ峰の無機質でいてロボットのような淡々とした仕事ぶりは、どこまでも合理的であり冷淡だった。それは裏社会では重宝される性格でもある。
戦闘力も十分あり、的確に部下に指示して事業を拡大していく灰ヶ峰の手腕は素晴らしく、名実ともに蜥蜴の中核的存在へとのし上がっていた。
それでも、灰ヶ峰の中の渇きは潤わない。喜びも感動も達成感も充実感も何もない。ただひたすらに心を殺し、無機質に目の前のタスクをこなす日々。さながらデスマーチの渦中に放り込まれたサラリーマンのようでもある。濁った瞳は、淀み濁り続けていた。
そんな日常が続き、灰ヶ峰の元に一つの問題事がやってきた。
狂鬼が出雲ダンジョンにいる。
その問題にも、灰ヶ峰は淡々と取り掛かる。事前調査で狂鬼は情に篤いことはわかっており、自分の命を簡単に放り出して探索に臨めることからも、自己軽視的な考えの持ち主であることもわかる。だからこそ、単純に家族や友人をまとめて天秤に乗せてしまえば、狂鬼自身の命の方が軽くなって自殺する。それは灰ヶ峰にとって結果の分かり切った映画のようなものだった。
そんな狂鬼の報告を受け、猛虎伏草の西成は『人間の皮かぶって擬態しとる』なんて揶揄していたが、それは違うと灰ヶ峰は反論する。それこそが狂鬼の本性なのだと思えたのだ。恐らく狂鬼はたまたまダンジョンで上手くハマっただけ。本人の気質や本質はただの凡人で、友人が大切な少し考えが緩いだけの人間だ。
恐らく探索者高校に通い友人とダンジョンの探索をしていたら、ああはならなかったはずだ。危険に踏み込みたいと考えても、友人を危険に巻き込めずどこかで必ずブレーキを踏む。そんな性格だろうと。
答え合わせをするように狂鬼と対面する。動画で見ていたため知ってはいたが、いざ対面するとその強さに驚愕した。同じダンジョン探索をした者として、素直に賞賛し尊敬するほどに。
だが、直感のスキルは危険信号を出さない。意味するところは脅しが成功するということ。つまり、狂鬼は自殺するということだ。一応猛虎伏草に加入するなんて道も残ってはいたが、案の定突っぱねられる。そうなると、残されたのは自殺ルート。蜥蜴が標的にした多くの探索者たちと同じ末路をたどることになる。
少し。ほんの少し。目の前の狂鬼が暴れ戦闘になった場合、自分はどこまでやれるのか気になった。そんなことを思う自分に驚きながらも、狂鬼に思考させないようにカウントダウンを開始した。
そして、ゼロのタイミングで身体の支配権を奪われた。
◇
狂鬼に支配された日の夜、羽田空港の近くのホテルで灰ヶ峰は支配から解放された。灰ヶ峰が持つ『適応』というスキルにより、支配の状況に適応し解除されたのだ。
だが、全てが遅すぎた。すでにランドタイガーを含む東に配置していた主な構成員は狂鬼の支配下に置かれた。広島では出雲の料亭に連れて行った幹部を含む人間が支配下に置かれ、広島の蜥蜴本部を陥落させるための下地を作っていることだろう。
それでも取れる手はまだ残されている。西の猛虎伏草を始めとしたギルドは健在なのだ。情報を流し、蜥蜴本部にいる支配されている人間を抹消することで西の被害をこれ以上拡大するのを防げるだろう。だが、それがその場しのぎの対策でしかないことを灰ヶ峰は理解していた。
狂鬼が行使したスキルの詳細は分かりかねるが、支配、洗脳、乗っ取り、それらに準じた考えうる限り最悪なスキルであることだけはわかる。そして、その凶悪さも。
一級探索者であり特級に手がかかっている灰ヶ峰すら一切の抵抗もできずに支配された。それも適応のスキルがあるにもかかわらず、解除するのに数時間も要するほどの効き目。下手したら特級であろうとも毒牙に掛かる可能性があるほど飛びぬけたスキルである。
これがある限り、いくらこちらが態勢を整えたところで末端は何度となく裏切る可能性が付きまとう。特級ですら怪しいのだ。疑心暗鬼が組織を内部崩壊へと導くのも時間の問題だろう。それにどれだけ警戒網を敷こうとも、狂鬼の気配遮断は異常なレベルだ。きっと潜むことも何もせず、堂々と正面から入ってこようとも気づける者など数人いるかどうかのレベルのはずだ。
警戒も無意味。仲間も信じられない。正面から戦おうとも勝算が限りなく低い相手。
詰みである。そもそも初手で決めきれなかった時点で、負けは確定したのだ。
狂鬼自身は情に篤い。友人を人質にとれば自殺を検討するくらいには。だが、友人含む身内とそれ以外の線引きが凄まじくはっきりしている。友人や家族のためなら自分が死ぬことも視野に入れるくらい情に篤い一方で、他人の命は綿毛のように軽視している。
ランドタイガーに集った構成員への命令を顧みれば、それがわかるだろう。相手が犯罪者であろうとも、殺すことを躊躇することは良くあることだ。刑務官が絞首刑のボタンを押す役を辞退したがるように、多大な精神的負荷がのしかかる。それはボタンを押した後もジワジワと精神を汚染していくのだ。
だが、狂鬼は違う。躊躇なくボタンを押すだろう。むしろ連打するかもしれない。『これ一回押したらいくらくれんの? いっぱい押したらもっとくれる?』それくらいの気持ちだろう。きっとボタンを押した後は今日の昼食何にしようかなくらいしか考えてないはずだ。
それくらい、人の死について何とも思っていない。狂った鬼とは言いえて妙だ。狂鬼は間違いなくこちら側の人間だ。何故ならば、狂鬼が下した命令の中には蜥蜴の関係者以外が多分に含まれているのだから。
狂鬼は蜥蜴の関係者を皆殺しにしろと命令を下した。これまでは強い恨みを持っていたらできるだろう。横浜で被害を受けた者たちだって下せるはずだ。
だがその後。蜥蜴と無関係であろうとも構わないから大切な人間三人を想像つく最悪のやり方で殺せというのは、常人の思考回路では下せる命令ではない。その先の、無関係の一般人の顔がちらつき、同じ苦しみを味わわせるのかと躊躇する。そもそも倫理観が邪魔をするだろう。その結果、構成員のみ自殺しろ程度が関の山ではなかろうか。
だが、狂鬼は違う。まるでいいことを思いついて親に褒めてもらいたい子供の様に、嬉々として猟奇的な命令を下した。
他人を殺すことになんの躊躇いもない狂人。そのうえ対処できないほどの力を秘めている。これでは戦いようがない。恐らく灰ヶ峰が逃げて完璧に西の陣営を整えたところで、狂鬼の魔の手は止められない。アジア諸国に逃げたところで、狂鬼が止まるとも思えなかった。
敵対するべきではなかったのだ。狂鬼には中立の立場を貫かせるように立ち回るべきだった。将来の敵性因子だからと動くべきではなかった。たらればではあるが、灰ヶ峰も、蜥蜴も、西成も、猛虎伏草も、狂鬼に対する対応を誤ったのだ。
「で、あれば、このまま蜥蜴を潰すことが何よりも被害が小さいか」
ここで灰ヶ峰が介入し下手に蜥蜴を立て直せば、その先は泥沼の戦い。いや、一方的に出血を強いられる地獄の戦いの幕開けだ。蜥蜴を立て直すには猛虎伏草を始めとした西のギルドの協力が不可欠となる。だが、それをすれば狂鬼の矛先が西のギルドにも向くことになる。そうなれば関西の機能は失われる。
これが東相手であれば温情もあっただろうが、狂鬼相手では望めない。政府の制止だろうと聞きはしないだろうし、最悪東にも狂鬼が鉄槌を下すことになる。そうなれば日本の惨事を治めるためという名目で、他国の介入が行われるだろう。狂鬼ならばその海外すらも標的にしかねないが。
ならば、蜥蜴がすべての被害を受け持った方が最小限に終わる。灰ヶ峰はいつもどおり合理的に考え、自分たちの死を受け入れた。
◇
翌日。狂鬼の命令は更に苛烈なものとなり、徹底的に蜥蜴という組織の破壊が実施された。
日本の奥深くに根を張っていた蜥蜴という一大組織が、たった一人の探索者の不興を買ったことで終わりを告げる。それはまさに、新しい時代の幕開けを告げる出来事でもあった。ダンジョンの出現によって訪れると叫ばれ続けた時代。数ではなく個の力が物を言う時代へと突入した瞬間であった。
目の前で大久野が狂鬼によって殺害される。上半身を失った大久野を見ても、灰ヶ峰は何も感じない。孤児である灰ヶ峰を高く評価してくれていた大久野であるが、灰ヶ峰にとっては母親と一緒。何も感情を動かされない人物であった。
蜥蜴の現代表が死んだ。次は自分の番である。
恐らく狂鬼は灰ヶ峰の支配が解けていることは理解しているだろう。それを肯定するように、配信を止めた狂鬼が灰ヶ峰へそう告げた。ならば、あとは研究施設について報告し、自死することにしよう。
そう思っていた。灰ヶ峰は。
ただ、狂鬼は違うことを考えていた。
「俺の仲間になれ」
そう告げられた時、理解できないという思いが大半を占める中、わずかに、ほんのわずかに心が揺れ動いた。その感情を灰ヶ峰はまだ知らないが、揺らいだことだけは知覚できた。
なぜか灰ヶ峰が自分を仲間にすることのデメリットを説明する中、そのことごとくを些事だと言って切り捨てる狂鬼。灰ヶ峰が裏切ることに対して言及すれば、大歓迎だと笑みを深める始末だ。
頭がおかしい。気狂いとしか思えない。だが、その狂気に、いつの間にか灰ヶ峰は魅せられていたようだ。次に何をするかも予想できない小さな理不尽の続きを見てみたいと、そう思ってしまった。灰ヶ峰が積み上げてきた悪事から考えれば許されない選択なのだろう。だが、それでも、差し出された手は灰ヶ峰だろうとも抗いがたい魅力的なものだった。
ふっ。
それが自分の口から出たものだと認識することなく、灰ヶ峰は狂鬼が差し出した手を強く握り返すのだった。




