37話 桜井杏奈
「中貫温泉の概要を説明しよう」
中貫温泉に向かう道すがら、桜井は中貫温泉について語った。
中貫温泉は、丘陵地帯の中腹に建てられた天然温泉ホテルだ。
最大の特徴は、建物の立地と構造にある。
湧水源が施設よりも高所にあり、山肌を削るように建てたホテルに引き込まれ、施設の温泉や上下水道に使われている。
そのため水道局が機能しなくなっても、水に困ることはなかった。
「施設の簡易浄化装置を通しているから、水は飲めるよ」
「水があるのは強いですね」
「貯水タンクも大きいからね。難点は、食べ物が無いことかな」
そのため避難所に指定されず、避難民の流入を避けられたのかもしれない。
ホテルは旅館と異なり、ビルのような建物になっている。
そのため一階部分が開放型ではなくて、ゾンビを防げていた。
「正面はシャッターゲートと防火シャッターが二重に下りていて、出入りは裏手の搬入口になるよ。車のトランクの高さにコンクリートの段差があり、車は突っ込めない。従業員も、3人体制で常駐している」
「搬入口なら、宿泊代の受け取りにも良さそうですね」
「そうだね」
桜井は苦笑いした。
そんな中貫温泉へと続く道を、車が静かに進んでいく。
やがて車が坂を上り切ると、広がる敷地の先に温泉ホテルの全貌が現れた。
駐車場には、中貫温泉という看板が掲げられている。
正面出入口は、頑丈な門扉型シャッターと、防火シャッターで閉ざされていた。
周囲には雑草が伸び始めており、景観に配慮している気配は無さそうだった。
「人は、居ますね」
ホテルの裏手から、4人の宿泊者らしき若者達が姿を現した。
全員がリュックを背負い、手には武器を携えて、自転車に跨がっている。
彼らは隼人の車をジロジロと観察したが、隼人と桜井を見るとペダルを踏んで、敷地外へと発っていった。
「宿泊者200人ほどのうち、半数ほどは物資の調達をしている」
「残りは、調達者の家族などですか?」
「そうだよ。それじゃあ行こうか」
隼人は桜井の言葉に軽く頷くと、車を駐車場に停めてエンジンを切った。
そして車の後ろに回り、米袋と自分達の鞄を1つずつ出す。
次いで桜井の自転車と荷物を下ろして、自転車を菜月に預けた。
「桜井さんの自転車を普段の場所に戻してから、中に入る。俺は米袋を担ぐから、菜月が引いてくれ」
「分かりました。預かりますね」
「すまないね」
桜井は左手を吊っており、自身の旅行鞄を持つだけで精一杯だ。
それぞれの鞄を一つ持ち、自転車を菜月に預け、桜井に旅行鞄を渡した隼人は、10キログラムの米袋を担いで歩き出した。
ホテルの裏手は、表玄関とは異なり実用的な雰囲気を漂わせていた。
搬入口には屋根があり、3台くらいの車を同時に停められるスペースがあった。
車のトランクの高さにコンクリートがあって、そこに台車を置いてトランクから積み替えるようだ。
両サイドがスロープになっており、上がった先にスチール製のドアがある。
搬入口から手前の駐輪場に自転車を停めて鍵を掛け、その鍵を桜井に渡した後、隼人は搬入口のドアをノックした。
すると鉄枠が施された窓から、老人が覗き込んできた。
老人は、隼人の顔をじっくりと観察して、次に桜井の表情を観察した。
「西山さん、戻りました。それと新規の宿泊者3人です」
桜井の説明を聞き、隼人が担ぐ米袋を眺めて、老人は口元をにやけさせた。
だが素直には開けてくれない。
「桜井様、左手のお怪我は?」
「新秩序連合の連中に鈍器で殴られました。彼らに車があって、助かりました」
「さようでございましたか」
老人は、隼人が担いだ大きな米袋、そのほかの荷物を観察する。
車が無ければ、とても運んで来られない量だ。
一行の表情、口調、荷物などを吟味した老人は、やがて結論を出した。
「いらっしゃいませ。どうぞお入りください」
ガチャリと音が鳴り、搬入口のドアが重々しく開かれた。
搬入口に踏み入ると、そこには充分なスペースが確保されており、通路の横にはカウンターが設けられていた。
その先は事務室になっており、さらに奥には厨房などがあるようだ。
それぞれがドアで仕切られており、全てのドアに鍵が要るようで、そこから館内に入るのは難しそうに思われた。
隼人が米袋をカウンターの上に乗せると、西山がニンマリと笑みを浮かべた。
「ご宿泊は、何日のご予定ですか?」
「3人で1ヵ月。それと、桜井さんと娘さんの宿泊を1ヵ月分追加で、生米10キログラムです」
「東谷君、量ってね」
隼人に頷いた西山は、背後にいた青年を呼んだ。
東谷と呼ばれた男は、手際よく米袋を抱えて量りに乗せる。
目盛りが振れて、重量が表示された。
「10.5キログラムですね」
東谷は計測を終えると、米袋の口を開けた。
中身を一瞥して生米がぎっしりと詰まっていることを確認し、穀物サンプラーを差し込む。
サンプラーを引き抜いてみると、ツヤのある粒がこぼれ落ちた。
「なかなか良い状態です」
「去年の秋に収穫して、適切に管理していた米ですので」
東谷の評価に隼人が補足すると、西山は満足げに頷いた。
「ご宿泊、ありがとうございます。それでは代表者様のお名前をご記帳下さい」
そう言って西山は、ノートとペンをカウンターに差し出した。
隼人がペンを取り、自分の氏名とフリガナ、宿泊人数を書き入れる。
その間、西山は桜井に視線を移して尋ねた。
「桜井様。こちらの皆様は、お隣のお部屋でよろしかったでしょうか?」
「それで構いませんよ」
「かしこまりました」
西山は頷き返すと、カウンター下の鍵置き場から1本の鍵を取り出した。
鍵には、714号室と刻印されている。
かなり古風だが、電気が止まってカードキーが使えないので、ホテル側が持っているシリンダー鍵のうち1本を貸し出しているのかもしれない。
その鍵と共に、隼人と桜井の宿泊代1ヵ月分を受け取った領収書を記して、差し出してきた。
「こちらのお部屋です。全員で外出される際は、鍵をホテルにお預け下さい」
「分かりました」
「それではどうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい」
鍵と領収書を受け取った隼人は、西山に軽く会釈した。
そして通路を進むと、その先にはステンレス鋼の扉があった。
その扉を3人目の従業員が開錠すると、厚さ5センチメートルの扉が開かれて、ようやく隼人達はホテル内に入れた。
それからは桜井の先導で、館内を歩いて行く。
ホテル内は一般的な宿泊施設の造りで、通路を進んでいくと階段があった。
桜井は階段を上がりながら、館内について軽く説明を始めた。
「ここは10階建てで、3階から9階の138室が宿泊者用になっている。客室が100から200室というのは、一般的なビジネスホテルの規模だね」
「へぇ、そうなんですね」
ホテルの外観は、隼人が見る限り特異なものではなかった。
田舎にあって、天然温泉を特徴としたホテルなのだろうと納得する。
「1階と2階は、従業員の管理区画と、共有スペースですか?」
「そうだね。厨房や宴会場などは、宿泊者にも開放されている」
「宿泊客は、厨房で調理も出来るのですか」
「火は使えないが、洗い場や源泉の熱湯は使えるよ。中貫市は、蕎麦やビール用の麦の生産が盛んだから、農家を回れば、蕎麦粉とつなぎは手に入るね」
「へぇ、蕎麦かぁ」
ホテルの概要を知ったところで、隼人達は7階に到着した。
階段側から701号室、702号室と続き、712号室の次に番号が1つ飛び、隼人達の714号室があった。
――ホテルは、13号室を作らないのだったか。
キリスト教圏では、13が忌み数とされている。
キリストを銀貨30枚で売った弟子ユダが、最後の晩餐で13番目の席に座ったことや、キリストの処刑が13日の金曜日だったことなどが理由らしい。
ホテル側は、訪日客の評価が下がり、リピーターも減る部屋番号を使う理由など無いわけだ。
そんな13番を飛ばした次の714号室に鍵を差し込んで回すと、ガチャリと音が鳴って、部屋の鍵が開いた。
「さて、少し休むか」
今日は朝から、あまりに忙しかった。
戦闘も行っており、精神的な疲労も否めない。
さらに米袋の件については、結依からのお説教があるかもしれない。
少し引き籠もろうと隼人が告げると、桜井は頷いた。
「それなら君達が休憩した後に、娘を紹介するよ」
「分かりました」
隼人が応じるのを見た桜井が、715号室のドアノブに手を伸ばしたところで、そのドアが内側から開けられた。
そして部屋から、桜井が話題に上げていたと思わしき少女が出てくる。
少女の身長は、菜月より若干低いほどだった。
外見年齢も、自称18歳の結依より上、実年齢17歳の菜月よりは下に見える。つまり推定で14歳以上、17歳未満だ。
――怒られるか。
髪の長さは、結依と菜月との中間で、肩を少し超えるセミロングほど。
服装は、トップスがアイボリーの柔らかいスエード調ブラウス。ボトムスはボックスプリーツスカート。そして少し底の厚いローファーを履いている。
ダンディな桜井の娘に相応しく、お洒落な恰好だった。
少女は桜井の姿を見て安堵し、左手の怪我に不安そうな顔を浮かべる。
「パパ、左手はどうしたの?」
少女の声からは、不安な表情に相応した心配の感情が含まれていた。
「これかい。ちょっと新秩序連合の連中に、鉢合わせしてね」
桜井は、散歩中に子犬に噛まれたくらいの軽い口調で返した。
そんな父親の口振りに慣れているのか、少女は信じた様子もなく眉を顰める。
「大丈夫なの?」
少女の声には、ゾンビではなかったという安堵と、怪我への懸念が入り混じった複雑な感情が交ざっていた。
桜井はそんな娘の不安を軽減しようと、明るく答える。
「応急処置は終わっているよ。彼の手際が良くてね」
桜井が隼人のほうに顎をしゃくり、少女の視線が隼人に向けられる。
初めて見る人物を前に、少女の顔には戸惑いが浮かんだ。
「紹介しておこう。この子が娘の杏奈だ」
いきなりの紹介に、杏奈は目を丸くして呆気に取られた。
しかし次の瞬間には僅かに気を取り直し、軽く頭を下げて挨拶する。
「はじめまして?」
怪我を誤魔化すために、勢いで流れを作ったのか、桜井の説明は不足している。
抜け落ちている説明を足すように、隼人は自己紹介を返した。
「ああ、はじめまして。熊倉隼人だ。しばらく桜井さんと組んで、この町で物資を収集することにしたから、よろしく頼む」
隼人の説明を聞いた杏奈は、隼人を上から下まで観察した。
「彼、新秩序連合の連中を5人も素手で殴り飛ばしたんだよ。恐れ入ったね」
呆気に取られた杏奈は、コクコクと頷いた。