36話 中貫天然温泉ホテル
青灰色の空の下、真っ平らに均された田んぼが果てしなく広がっていた。
冬の名残で土は黒く湿り、田植え前の土が剥き出しだ。
乾いた土埃を春風が舞い上げており、遠くの景色をぼかしている。
そんな拓けた無人の田園地帯に、隼人が運転する車がポツンと停車した。
「少し荷物を出します」
周囲には、ゾンビの姿はまったく見当たらない。
車を降りた隼人は、車の後ろに積んでいる荷物を出す振りをして、空間収納から薬局で入手した解熱鎮痛剤と三角巾を取り出した。
添え木も必要だろうと考えて、空の木箱を出して枠を折る。
薬を飲む水も必要だろうと考えて、水筒も取り出した。
――結依も、文句は言わないだろう。
桜井の怪我について、隼人が責任を負う必要は無い。
悪いのは、略奪と誘拐を試みた新秩序連合の連中だ。
そして桜井が交渉を持ち掛けてこなければ、隼人達は車に乗って出発していた。桜井の安全のために結依と菜月を引き渡すのは、論外である。
だが、治療くらいは良いだろうと隼人は考えた。
「解熱鎮痛剤や三角巾があります。先に応急処置をしましょう」
荷物を抱えた隼人が後部座席のドアを開けると、桜井は額に冷や汗を滲ませながら、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「すまないね。私も武器で抵抗したんだが、人数が多すぎた」
「1対5でしたからね」
隼人は市販では一番強い解熱鎮痛剤を開封する。
「菜月、水筒のお茶を注いでくれ」
「分かりました」
隼人から水筒を受け取った菜月がお茶を注ぐ間、隼人は薬を出して箱の上に乗せ、桜井の前に差し出した。
「薬は沢山持っていますので、遠慮無くどうぞ。54錠入りで、1回3錠です」
「すまないね」
桜井は、左肘を押さえていた右腕をゆっくりと離して、薬を摘まんだ。
そして口に含み、菜月から受け取ったお茶で飲み込んだ。
それが3回繰り返されたのを見届けた後、隼人は木片と三角巾を片手に告げた。
「肘を骨折していますので、まず固定します。その後、鎮痛剤を服用して下さい。ビタミンサプリもお渡しします。1ヵ月くらいしたら、リハビリですかね」
細かく説明したのは、今後の方針を示して、安堵させようという意図からだ。
なお物資の供出について、結依の反応は見ないことにする。
わざわざ見なくても、半笑いで見詰め返してくることは想像できる。
隼人の指先が桜井の左肘に触れると、苦痛に歪んだ表情こそ浮かんだものの、理性で耐える様子が窺えた。
隼人は添え木を肘の内側と外側に当て、90度に曲げた状態にする。
「菜月、添え木を押さえてくれ」
「分かりました」
後部座席で桜井の隣に座る夏月が、添え木を支えた。
緊張で指先が僅かに強張っているが、隼人が添え木を支えながら同時に三角巾を巻くよりは、よほど良い。
菜月が押さえている間、隼人は三角巾を出して、桜井の前腕と木片を巻き付けて固定する。きつく締まり過ぎないよう注意しながら、結び目を作った。
桜井は耐えるように目を閉じていたが、その顔には安堵の色も浮かんでいる。
それを見た隼人が、僅かに右手を動かした。
刹那、隼人の右掌が少し光った。
――目を瞑っていて、良かったな。
それを見ていた菜月と目が合い、内緒だぞと目線で伝える。
最後に三角巾を桜井の首に掛け、腕を吊るように支えた。
「応急処置が終わりました」
「助かったよ。薬も効いてきたのか、楽になった。手際が良いね」
隼人が告げると、桜井は穏やかな表情を浮かべながら、ホッと一息吐いた。
「それで、あの新秩序連合とかいう奴ら、何なんですか?」
「地元の暴走族みたいな連中だね」
桜井は、ここで言っても良いのかを問うような表情を浮かべていた。
相手は、結依や菜月を攫おうとした連中だ。
おそらく暴走族程度の行動では済まないのだろう。女性の前で話すことではないのかもしれないと隼人は解した。
「これから向かうホテルについて教えてください。私達も宿泊する必要が出来ました」
「どうしてだい?」
「車のフロントガラス、壊されましたので」
車のフロントガラスは、鉄パイプで殴られて、蜘蛛の巣状にひび割れている。
現状で車は動くが、走行時に視界が悪いのは危険だ。
事故を起こすかもしれないし、接近するゾンビに気付かないかもしれない。
またゾンビが襲い掛かってきた際、フロントガラスが壊れていると、そこから車内に侵入されるリスクが高まる。
「新しい車を探さないといけませんが、ゾンビがはびこる世界で、ああいう連中も居て、結依達を連れ回せませんので」
「そのとおりだね」
探すのは、バッテリーの規格が合う車だ。
なお隼人は、現在の車を見つけるまで、それなりに市内を探し回っている。
フロントガラスに視線を投げて、桜井は同意した。
「しばらく組ませて頂きます。町の情報を下さい。対価は、収集した物資の一部をお渡しします」
「分かった。協力しよう」
ダンディな桜井が右手を差し出してきたので、隼人は自分には似合わないと思いつつも、彼と握手をした。
手を離すと、隼人は運転席に戻った。
そしてエンジンを掛けて、カーナビを操作する。
「温泉の名前は、何ですか」
「中貫天然温泉ホテルだよ」
桜井が告げた名称を入力すると、同一名称が出てきたのでセットする。
そして案内開始を押すと、ナビの誘導が始まった。
それに沿って車を動かしながら、隼人は中貫天然温泉ホテルについて尋ねる。
「宿泊費として一部の物資を渡すというお話しでしたが、どれくらいですか」
「1ヵ月の宿泊で、1人につき食料3キログラム。米なら2キログラム。これはホテル側が20人ほどで、宿泊者が200人ほどであることが理由だ」
「と、言いますと?」
「ホテル側は、危ない外に出たくない。だから水と建物を提供する代わりに、宿泊者に食料を取りに行かせる。200人が3キロ持ってくれば、成り立つのさ」
計算できなかった隼人は、バックミラー越しに農業高校出身の菜月を見た。
「1食300グラムで、主食のご飯は1膳150グラムとします。ご飯150グラムは、生米75グラムで作れますから、お米の価値は2倍くらいです」
「ふむ」
それなら米2キログラム、ほかなら3キログラムという差は、理解可能だ。
隼人は一先ず頷きながら、話の続きを菜月に促した。
「1食300グラムだと、1日3食なら900グラム。1ヵ月で27キログラム。20人で540キログラム。それを200人で割ると、2.7キログラム。だから1ヶ月のノルマが、1人3キログラムなんだと思います」
「はあ、なるほどなぁ」
つまりホテルの人々は鵜飼いで、宿泊者は鵜というわけである。
もちろん宿泊者のほうも、ゾンビがはびこって水道も止まった世界で、水と多少は安全な宿泊場所を提供されるという対価を得られる。
相互利益の関係がハッキリしているのは、むしろ好ましいと隼人は考えた。
「米は、10キログラムほど持っています。私達3人と、桜井さんの肘が治るまでの2人分としましょう」
隼人が隣に視線を向けると、結依が「後でお話ししようね」と、半笑いの表情で訴えていた。
なお隼人達が持っている生米は、その10キログラムだけである。
ご飯を食べたくば、農業高校で手に入れた種から稲を育てるか、新たに生米を入手しなければならない。
だから結依は料理に使わなかった。
ちなみに炊飯器は、結依が自宅から持ってきている。
それくらい楽しみにしていたわけだ。
「良いのかい?」
「ええ。桜井さんが居なければ、結依と菜月が直接襲われていましたし」
拳銃は持っていたが、入手直後で、女子高生が人間相手に撃つのは難しかった。だから情状酌量の余地があると、隼人は裁判長に訴える。
どれくらいの罪状になるだろうと思いながら、隼人は車を走らせていった。