27話 異世界の力
菜月は壁にもたれかかったまま、疲れ切った顔で、隼人の手から白い光が溢れる光景を眺めていた。
やがて身体の倦怠感と悪寒が消えると、隼人が重点的に触れた足首を見詰めた。
「傷が消えましたね」
捲り上げられた裾から見えていた肌からは、ゾンビに噛まれた傷痕も、変色も消え失せていた。
痛みも無くなり、体全体が軽くなっている。
「どういうことですか?」
菜月は改めて隼人を見上げ、追求するのではなく、優しい口調で尋ねた。
「3年前、異世界に召喚されて、特別な力を手に入れた。11日前、送還された」
「最近ですね」
菜月は小さく呟いた。
真偽の疑念は、実際に傷を治されて、身体の倦怠感や悪寒が消えたことから、真へと大きく傾いている。
ゾンビに襲われている状況で、自分を連れて行きたい異性が、そのために治したのであり、嘘を吐いている可能性は小さい。
半信半疑ではなく、9信1疑くらいには、信じるほうに傾いていた。
菜月の促すような言葉を受けて、隼人は話を続けた。
「3つだ。ヒグマ並の身体能力、神聖魔法、空間収納」
「ヒグマですか?」
「3メートル近い高さの正面門をジャンプで乗り越えて、2階のベランダにも跳び乗った」
「そうでしたね」
倦怠感が無くなった夏月は、病み上がりのように身体を預けたまま、隼人の話を聞き続ける。
「神聖魔法は、治癒したとおりだ」
「……未亜ちゃん、助けられますか?」
神聖魔法を聞いた菜月は、初めて話を遮って、隼人を質した。
2人の視線の先にはゾンビが居て、そのゾンビを挟んだ奥には、小柄な少女がうつ伏せになっていた。
ゾンビに噛まれ過ぎて、ウイルスを注がれすぎて、もう冷たくなっている。
ゾンビウイルスは、蛇などの毒と同じように、注入量が多ければ多いほど、体内でウイルスの濃度が高まり、症状が急速に進行する。
例えば、毒性の強い蛇に大量に噛まれた場合、毒が速やかに全身に回り、迅速に致命的な影響を及ぼす。
それと同じように、ゾンビに多く噛まれれば、それだけ多くのウイルスを注ぎ込まれて、急速にゾンビ化が進行してしまう。
隼人は改めて未亜を見て、首を横に振った。
「無理だ」
「あれが、わたしでもですか?」
「死んだ人間は、蘇生できない。ウイルスを除去しても、死体になる」
隼人は未亜に視線を固定させたまま、一瞬も躊躇わずに即答した。
態度は泰然自若としており、事実を有りの侭に受け入れる様子が窺えた。
菜月は隼人を見詰めて、困ったような顔を浮かべる。
「すまんな」
「いえ」
未亜のことは、隼人が悪いわけではない。
それくらいは菜月も弁えていた。
「空間収納は、どんな能力なんですか」
「8畳の部屋で10室分くらい。動物以外は入る」
話題を変えようとした菜月に、隼人も乗った。
「菜月用として、1室分を使って良い。それで寮の私物を全部入れてくれ。このまま連れて行く」
「分かりました。起こして下さい」
菜月は抱っこを求めるように、両手を伸ばした。
隼人が抱き抱えて起こそうとすると、菜月は抱きついてくる。
そして隼人の耳元に口を近付けて、囁いた。
「未亜ちゃんを助けてくれたら、ハーレムでも良いですよ」
隼人は一瞬固まったが、抱きついてきた菜月を抱えたまま、否定するように溜息を吐いた。
「噛まれてから6時間以内なら、なんとかなったかもしれない」
「そうですか」
立ち上がった菜月は、部屋の時計を見た。
時刻は、午前11時になろうとしているところだ。
「ハーレムには、3時間ほど遅かったですね」
「残念だが、もう1人居る。怒られて、結局駄目だったかもな」
「どんな人ですか」
「中学の制服を着ていた自称18歳」
結依は他人行儀な丁寧語を連発しながら、責めまくったかもしれない。
そもそも菜月の存在すら話しておらず、菜月を連れて行くだけでも大変なことになりかねない。
どうしようかと悩む隼人の目の前で、菜月は鞄を取り出して、収納棚から荷物を出し始めた。
「これも使ってくれ」
隼人は自分のリュックサック、スポーツバッグ、結依の父親の旅行鞄などを次々と取り出して、相部屋の菜月が作業をしていない側の机に並べていった。
さらに、ライ麦パン用の木箱の空をいくつか出して、床に置いていく。
「壁に固定されていない机や椅子は、丸ごと収納できる」
「本当に何でも出せるんですね。中には、何を入れているんですか」
「1000人が、あと10日ほど行軍できる物資。それと車だ」
◇◇◇◇◇◇
隼人は、菜月を連れて敷地外に脱出することにした。
ヒグマは、時速50~60キロメートル。
持ち上げられる重量は不明瞭だが、隼人は「壊れた馬車が邪魔だからどけろ」と言われて、単独で道の脇に動かしたこともある。
その力を以て、菜月を抱えて走り、バリケードを越える。
「正面門には監視の男達が居るから、そちらから見えない側から走り抜ける」
「霧農、狙われているんですね」
「そうらしいな。犯人は、前回教えてくれた『物資を取引してくれる人達』だ」
未亜の時とは違い、菜月は助けるようには求めなかった。
自分に会いに来た親を門前で入れてもらえず、目の前でゾンビに殺された菜月は、もう霧丘農業高校に帰属意識が無いと言っていた。
隼人も、未来永劫にわたり霧丘農業高校を守り続けることは出来ない。
食料の生産環境は優れているが、霧丘市には、結依がゾンビウイルスに罹患したことを知っている霧丘北中学の避難所がある。
霧丘農業高校を確保して維持すれば、霧丘北中学との交流は必至であり、結依の露見に繋がるリスクがある。
隼人は、一度成立した結依との関係を自分から破棄し、一方的に切り捨てる気は無い。それくらいの倫理や常識はある。
「背負うか、抱き抱えるか、どっちが良いかな」
「安全なほうでお願いします」
「背負うと、菜月の腕の力でしがみつくから、危ないな」
背負って逃げるのは、手綱を付けないで競馬をするようなものだ。
馬の首にしがみつくとして、手が離れれば大事故になる。
「お姫様抱っこですね」
自分から攻めたのに、いざ相手が攻めてくると腰が引けるのは、なぜなのか。
――女っ気のない高校生活、それから3年間の戦場。
チキンと化した隼人は、菜月を軽々と抱えると、静かに窓際へと進んだ。
割れたガラスの破片が床に散らばり、外には何体かのゾンビが徘徊している。
しかし隼人は、微塵も怖れる素振りを見せなかった。ベランダから跳び上がり、ベランダの手すりを蹴って、チキンバードと化した。
まるでニワトリのように軽やかな着地をすると、隼人は疾走を開始した。
トンッ、トンッ、トンッと、跳ねるように地面を蹴っていく。
すると僅かに土埃が舞い上がり、菜月の長い髪が後方に靡いた。
抱えられた菜月の視界からは、4階建てのクリーム色の建物が、次第に小さくなっていった。
「車みたいに速いですね」
「流石にそこまでは速くない。人間を乗せた馬に付いていくのがやっとだ」
それに現在の隼人は、理想的なランニングフォームではない。
背後からは、女子寮に立て籠もっているであろう僅かな生存者に群れていたゾンビ達が、新たな獲物を見つけて誘引されてきた。
それらを引き連れながら疾走した隼人は、前方に荷台が開け放たれた大型トラック2台と、男子寮を見出した。
男子寮にもゾンビが群れており、生存者が残っている可能性を見出した。
――まだ生存者が居るから、菜月は後回しにされたのかな。
ウイルスに操られたゾンビは、ゾンビウイルスを感染させようとする。
女子寮に未感染の人間と、既に少量でも感染された人間が居た場合、そのほかの条件が同じなら、未感染のほうを狙うのではないだろうか。
おかげで菜月を抱え、結依やチキンな自分をどうするかという問題もまとめて抱えながら、隼人は突き進んでいく。
すると男子寮に取り付いていたゾンビの中に、寮の側面にある非常階段を数段飛ばしで降りた個体が居た。
「成り立てが居る。男子生徒じゃない」
地面に降り立った成り立てゾンビは、隼人に向かって疾走してきた。
その様は、まるで正月の駅伝で走る大学生のようだった。
地面を蹴る脚力の強さ、前後へ綺麗に振る両手、真っ直ぐに隼人へ迫ってくる認知能力の高さ。
普通の人間にとっては、死神にも等しい相手だと隼人は思った。
「あれは特異個体かな。菜月、ちょっと激しく動くぞ」
「はい?」
警告した隼人は、成り立てゾンビから逃げるのではなく、逆に成り立てゾンビの方向に駆け始めた。
成り立てゾンビのほうも、真っ直ぐに隼人のほうへと迫ってくる。
それはヒグマと陸上選手が、互いに相手へと迫っていくような速度だった。
成り立てゾンビが大口を開け、手を伸ばす。
隼人は軽く跳び、相手よりも優れた反射速度で、右足を振り抜いた。
蹴り放った右足が、成り立てゾンビの胴体に命中して、肋骨がある位置より深く食い込んでいく。
疾走して跳躍した隼人の運動エネルギーに押された成り立てゾンビは、身体を浮き上がらせた。
それは車に衝突された人間の身体が、宙に跳ね上げられるようだった。
「グボァ」
成り立てゾンビの口から、ウイルスを含む唾液が飛散する。
それを見た隼人は、右足を左側に動かした。
すると成り立てゾンビは、隼人の左手側へと撥ね飛ばされていった。
隼人の加速していた時間が、急速に戻っていく。
着地した隼人は、トンッ、トンッ、トンッと何度か飛び跳ねながら、身体の体勢を整えた。
「ふっ、はっ、ほっ」
「きゃあっ」
隼人にしがみついている菜月は、堪らず悲鳴を上げた。
隼人はバツが悪そうな表情を浮かべつつ、逃走を再開した。
そして言い訳を口にする。
「ヤバい奴が居た」
「ヤバいのって、何ですか」
「ゾンビウイルスは、魔素を使う。身体に魔素が溜まり易い奴がゾンビ化すると、元より強くなる場合がある」
隼人に蹴り飛ばされた特異個体と思わしき成り立てゾンビは、道路脇の畑に頭から突っ込んでいた。
頭が突っ込んで、なお運動エネルギーを使い切れずに、胴体を前転させている。
そして首の骨が、明らかにおかしなことになっていた。
「今、ヤバくなくなった」
その間にも、男子寮に群れていたゾンビ達が隼人に向かってくる。
隼人は男子寮の方向から引き返すと、少し速度を落とした。そして、女子寮と男子寮のゾンビ達を引き連れたまま、畑のほうへと向かった。
畑には、濃い緑の葉をした冬キャベツの数々が整然と並んで育っていた。
「ゾンビ、草食系になってくれれば良いんだが。そういう風に進化しないかな」
「ウイルスが付いたら、野菜を食べられなくなりますよ」
「それもそうだな」
足場が道路から畑の土になり、隼人の速度が落ちた。
キャベツ畑で捕まえてというフレーズが思い浮かび、絶対に嫌だと自分の発想にツッコミを入れながら走り続ける。
すると畑の先に果樹園が見えてきた。
「バリケード沿いに走れば、車があるんだな?」
「はい。外の様子を覗き見るために、等間隔で置いてあります」
菜月に確認した隼人は、キャベツ畑を飛び出して、果樹園を走り抜けた。
隼人の後ろからは、それほど腐っていないゾンビ達が「うー」とか、「あー」とか呻きながら、程々の速度で付いてくる。
やがて果樹園の先に、バリケードが見えてきた。
その脇には、バリケードを監視するために置かれた教師の車がある。
車は土埃を被って無造作に置かれていたが、隼人には十分な足場だった。
「それじゃあ跳ぶぞ。しっかり掴まれ」
「はい」
先ほど成り立てゾンビを蹴り飛ばした時のような動きは、されたくない。
だが勢い良く跳ばなければ、跳び越えられないかもしれない。
菜月は抗議や要望の言葉を飲み込んで、素直に隼人の身体にしがみついた。
「行くぞ」
菜月がしがみつくのを確認した隼人は、軽やかに車のボンネットに飛び乗った。
反動で、車がわずかに揺れる。
続けてフレームがあるドア付近の屋根を踏み込んだ隼人は、強く蹴り上がった。
視界が開け、バリケードの向こう側にある民家や道路が見えた。
菜月がしがみつきながら、思わず声を漏らす。
「高っ……」
空中でバランスを保ちながら、隼人は地面に落ちていく。
そしてバリケードの外側へと、軽やかに着地した。