25話 霧丘農業高校の崩壊
文明が崩壊する1年前まで、世の中は様々な娯楽に満ちていた。
そして霧丘農業高校の寮生達も、寮には様々な娯楽を持ち込んでいた。
テレビ、ゲーム機、スマホ、ノートパソコン、音楽プレイヤー、電子書籍リーダー、漫画、カードゲーム、ボードゲーム等々。
現在は外部からの電力供給が途絶えているが、ソーラーチャージャーがあれば充電できる電化製品があり、光源も確保出来る。
それで夜更かしする者はいくらでも居たが、農業高校は朝が早くて、流石に深夜2時には寝入っていた。
外の騒音に気付いたのは、眠りの浅い一人だった。
車が寮の前に来るはずがないという、明らかな異常性。睡魔との戦いに苦んで、窓から差し込む異常な光で、ついに覚醒した。
「それは無いだろ」
霧丘農業高校と取引する集団には、燃料供給が途絶えた今でも、車を動かせる人間が居る。
だが真夜中に強い光を発すれば、遠方のゾンビに気付かれるかもしれない。
そんな馬鹿なことを、一体誰がするだろう。
二階の部屋にいた彼は、睡魔と戦いながら手元の懐中電灯を照らし、起き上がってカーテンを引いた。
すると窓の向こうに、トラックのヘッドライトが輝いていた。
トラックは2台あり、どちらも巨大な光線で、男子寮を照らし出している。
その奥には普通自動車も居て、ハイビームでトラックの荷台を照らしていた。
そしてトラックからは、幾つもの人影が這い出してくる。その動きは、ニュースで何度も見た特徴的なものだった。
「ゾンビだあっ!」
恐怖に駆られた彼は、窓を開けて叫んだ。
学生寮はアパートのような造りになっている。各部屋のドアを叩いて警告する場合、外に出なければならない。
寮の窓はゾンビのほうを向いており、叫べばゾンビの関心を惹く。
だが既に見つかっており、寝ている寮生に警告するためには叫ぶしかなかった。
「ゾンビだ、ゾンビだ、ゾンビだっ!」
叫ぶと、隣室からガタンと音が響いた。
そして別の部屋からも、ガラガラガラと窓が開く音が聞こえた。
寮全体に、慌ただしい音が生まれていく。
「なんでだっ」
誰かが、窓から叫んだ。
どうやってゾンビが現れたのかは、2台のトラックと、そこから出るゾンビと、逃げようとする車を見れば一目瞭然だ。
誰かがゾンビを連れて来て、男子寮に解き放ったのである。
だから「なんでだ」というのは、なぜゾンビが居るかではなく、なぜ解き放ったのだという叫びになる。
だが想像することは、さほど難しくはなかった。
霧丘農業高校と取引している相手には、トラックを使っている者もいる。
相手は建設資材を運び込み、霧丘農業高校は農作物を渡してきた。その光景は、これまで何度も見ており、実行できそうな相手には心当たりがある。
運び込まれる沢山の建築資材で、学校をグルリと囲む高いバリケードを作った。
そして農作物の生産体制を強化したところで、この状況だ。
「くっそおっ!」
1階の窓には、既にゾンビが迫っている。
窓は単なるガラスで、人間が身体を傷付けることを恐れずに全力でぶつかれば、体当たりで破壊できるかもしれない。
窓自体が割れなくても、フレームが外れると、窓が落ちる。
彼は息を呑み、階下の窓にゾンビ達が取り付く光景を凝視した。
ゾンビがガンガンと、窓を打ち鳴らす。
やがて傷付くことを恐れないゾンビ達が、窓の一つを打ち破った。
「うわあああぁっ」
真下の部屋から、絶叫が響いた。
ゾンビの群れは一つの窓に殺到するだけではなかった。
半数が2つある男子寮の窓へと流れて行き、もう半数は車を追っている。
そして車の行く先には、女子寮も並んでいる。
「やばい、やばい、やばい、やばいっ」
外からは、2階の窓には上がれない。
だが寮のドアは木製だ。素手での破壊は難しいが、寮には広がった畑で農作業を行うためのスコップ、シャベル、クワなどが立て掛けてある。
ゾンビに成って1ヵ月や2ヵ月ほどであれば、それらを使えないことはない。
そして今は2月で、腐る速度は遅い。
ドアを防がなければならないと思った彼は、壁の本棚を見た。
だが本棚やベッドは、耐震補強で金属固定されている。
ほかに何か無いかと部屋を見渡した刹那、ガンガンとドアが叩かれ始めた。
◇◇◇◇◇◇
菜月は、隣室の窓が開く音を聞いて、目を覚ました。
ガラガラと音が鳴り、寮の2階以上にある小さなベランダに人が降り立つ音が、僅かに聞こえた。
一体何をしているのだと思いながら、二段ベッドの下段で寝返りを打った。
ゾンビに悲観して飛び降りる生徒は、これまでに居なかったわけではない。
だが二階から飛び降りても、骨折して痛いだけだ。
それに親のことがあってからは、菜月には学校への帰属意識も無い。
止めようとは思わないが、隣室でされると嫌だなと思っていると、寮の外で車が走り抜ける音が聞こえた。
「はい?」
菜月は意味が分からず、気の抜けた声を出した。
霧丘農業高校は、教師の車はあるが、車を動かすガソリンは残っていない。
学校の敷地をバリケードで囲むための資材搬入や、建築作業に活躍した後、燃料不足で動かせなくなった。
今は、バリケードの内側から外の様子を観察する足場として、各所のバリケード脇に置かれている。
そのため車が走ったならば、隣室の住人が外に出て確認するのは無理もないと、自分勝手な妄想で貶めたことを内心で謝罪した。
隣室のベランダで懐中電灯が点けられたのか、窓から僅かな光が漏れた。
そして懐中電灯の光が行き来した後、悲鳴が上がった。
「きゃああああっ!」
甲高い悲鳴が、隣室のベランダから響き渡った。
菜月は手元に置いていた懐中電灯を手にして、ベッドから這い出る。
ヨロヨロと起き上がり、次第に意識を覚醒させながら、カーテンを引いた。
そしてベランダの窓を開けて、最悪の事態を把握した。
「きゃあああっ、きゃあああーっ!」
隣室の亜海には、叫ぶのではなく、具体的に何があったのかを言えと思った。
だが懐中電灯に照らし出された薄暗い道の先、数十体ものゾンビが向かってくる光景を目の当たりにすれば、叫ぶのも無理はないと納得せざるを得ない。
恐怖を発散させる隣室の悲鳴は、ゾンビの誘導灯と化している。
菜月は慌てて自室の窓を閉めて、鍵を掛け、後ろを振り返った。
「未亜、起きて!」
窓の鍵は、隼人が来るかもしれないと思って、ロックを掛けていなかった。
慌てて窓をロックすると、2段ベッドに駆け寄り、未亜の身体を揺さぶった。
「……菜月ちゃん、何?」
反応こそ鈍いが目を覚ました未亜に向かって、菜月が緊急事態を告げる。
「ゾンビが入り込んでいるの。数十体くらい。寮の前まで。早く起きて」
「嘘」
「本当、早く!」
「嘘だぁ」
泣きそうな声が上がるが、菜月は二段ベッドのハシゴに足を掛け、懐中電灯の光を未亜の目に当てて強制的に起こす。
「止めて、起きるから」
「早くして」
ハシゴから降りた菜月は、ドアに駆け寄って施錠を確認した。
ドアにはロックとチェーンが、どちらも掛かっている。
ここで外に逃げ出すのは悪手だ。
学校の校舎はどこも施錠しており、中に入れないようにしている。
バリケードは越えられないし、越えても行く場所が無い。
敷地内の畑を走っても、すぐに捕まる。
ゾンビ数体ならば男性教師と男子生徒達が倒すが、あの数にどう対処するのかは流石に分からない。
「未亜、机をドアの前に動かすから手伝って」
「うん、分かった」
ゾンビ達は、それほどのんびり歩いてくれなかった。
既に一階の窓がバアンッ、バアンッと激しく叩かれており、寮に取り付かれたことが音で分かった。
「そっち持って」
菜月が机の片側を持つと、未亜も反対側を持った。
小柄で起きたばかりの未亜は、あまり力が入っていない。
それでも二人で机を引き摺りながら、玄関まで移動させた。
机をドアに押し付けるように置き、部屋との段差に引っ掛かるように調整する。
「2台目も置くよ」
机1台で防ぐよりも、2台にしたほうが頑強だ。
菜月が指示をすると、未亜も素直に付いてきた。
女子寮の騒音は、ますます激しくなっていく。
いくつかの部屋から、ガシャーンと窓が割られる音が響いてきた。
「道具を使えるゾンビかも」
「やめてよぉ」
ゾンビに成ってからあまり時間が経っていない個体は、道具を使える。
そして霧丘農業高校の敷地内には、至るところに農具が置かれている。
二人が2台目の机に手を掛けると、菜月達の部屋のベランダに、ガンッと何かが立て掛けられるような音が響いた。
「嘘っ」
「嫌だぁ」
菜月が想像したのは、果物を採るために使うハシゴの存在だった。
ゾンビがそれほど賢いからこそ、人類は負けてしまった。
対応に迷う間、ゾンビの一体が、ハシゴを登ってきてしまう。
未亜が向けた懐中電灯が、ベランダに乗り込んできたゾンビを照らし出した。
すると人が居ると確信したゾンビは、興奮してハシゴを蹴り落としながらも、ベランダに転がり落ちてきた。
そして手にしたスコップを持ち上げる。
「あ、無理かも」
菜月の目の前で、振り上げられたスコップが、窓に向かって振り下ろされた。
ガアンッと強い音が響き、窓にヒビが入る。
また振り上げられて、振り下ろされて、窓ガラスのヒビが大きくなった。
防ぐ術が、菜月には思い浮かばなかった。
窓ガラスを叩く音は続き、やがてガシャーンと、激しい音を響かせた。
「キャアアアアッ」
未亜が絶叫すると、ゾンビは喜ぶように未亜へと飛び掛かった。
掴み掛かり、覆い被さって、勢いのまま押し倒す。
「離して、離して、離してっ」
「グァアアアアアッ」
ゾンビの口が大きく開き、未亜に噛み付いた。
未亜は痛いと泣き叫ぶが、大柄な男性のゾンビは掴んで離さず、噛み付いたまま転げ回り、少しでも沢山のゾンビウイルスを注ぎ込もうとしている。
不意に菜月の瞳に、ゾンビが窓ガラスを割ったスコップが映った。
菜月はサッと駆け寄り、そのスコップを手にする。
そして未亜に覆い被さるゾンビの頭に向かって、スコップを振り下ろした。
ガアンッと音が鳴り、菜月の細腕に強い振動が響いた。
だが人の頭部に見えて躊躇ってしまったのか、ゾンビは倒れなかった。
ゾンビは菜月のほうを向いて、次の獲物と認識する。
「くっ」
菜月は歯を食いしばり、スコップを力一杯に振り下ろす。
大きな衝撃音にもかかわらず、ゾンビは倒れない。
再び殴り付けると、ゾンビも足首を掴んで、噛み付いてきた。
菜月は足の鈍痛に耐えながら、一層強くスコップを振るう。
するとゾンビは、ようやく倒れた。