11話 いくつもの課題
「塩は必要だから、助かる」
隼人が提示した条件について、大森は肯定的に呟いた。
農業高校の敷地内で生産できない塩を手に入れるためには、海まで行くか、市内を探索するしかない。
いずれもゾンビが徘徊しており、噛まれて感染するリスクがある。
誰かが持ってきてくれるのであれば、それに越したことはない。
教頭の大森が、安全に物資を得られることに肯定的となるのは、当然だった。
「君には聞きたいことがあるが、先に車の話をしよう。小林先生、確か車には詳しかったと思いますが、どうですか」
大森が話を振ったのは、壁際に控えていた三十路ほどの教師だった。
小林は一瞬険しい表情を浮かべたが、すぐに冷静さを取り戻して口を開いた。
「その車だけど、君の物かい?」
大森も腕を組みながら、隼人と小林の会話をジッと見守っている。
小林の質問に迷った隼人は、正直に答えた。
「いいえ。市内にある放置車両から、SUVを見繕いました。ゾンビがはびこる状態なので、緊急避難ということで、ご理解下さい」
緊急避難とは、刑法第37条に定められる違法性阻却事由のことだ。
自分や他人の生命、身体、自由、財産などに対する危険を避けるためにやむを得ず行った行為は、罪に問われないと定められている。
つまり隼人が車を使う行為は、ゾンビがはびこる世界で、結依の生命を守るために車を入手するのがやむを得ず、その行為が車の所有者の権利侵害を上回るために、違法性が阻却される。
隼人は、緊急避難については東日本大震災の動画のコメント欄で学んだ。
説明を聞いた小林は、少し肩の力を抜いて笑みを浮かべた。
「いや、勿論それは分かっているよ。君自身の車だったら、勝手を知っていて話が早いと思っただけだよ」
隼人よりも法律に精通しているらしい小林は、苦笑を返した。
「教えて頂きたいのは、バッテリー交換です」
「バッテリー交換をするには、いくつか課題がある。基本はバッテリーの選び間違いに注意することで、メモリーのバックアップ作業も懸念事項かな」
「バッテリーの選び間違いですか?」
隼人がピンと来ない様子で尋ねると、隼人の知識が不足していることを察した小林は丁寧に説明した。
「車のバッテリーには、沢山の種類がある。同じ車種でも、年式やグレードで、バッテリーの種類は異なるんだ」
「なるほど?」
「例えば、バッテリーの端子の位置が異なるものを選ぶと、電源コードが届かず、取り付けはできない」
「そうなのですね」
つまり車の修理工場などに行って、適当にバッテリーを持ち帰っても、使えないことが有り得るわけだ。
何でも良いと思っていた隼人は、内心で冷や汗を搔いた。
下手をすると、繋がらないのは自分の作業が下手なせいだと思って、力尽くで引っ張って壊したかもしれない。
隼人は最初の説明だけでも、ちゃんと人に聞いて良かったと実感した。
「それに低ランクのバッテリーを選んだ場合は、バッテリー寿命が早まったり、低い気温で始動性が悪くなったりする。ゾンビに囲まれた状況で、バッテリーが駄目になったら?」
「終わりですね」
バッテリーのサイズが、車に合っていないと駄目らしい。
またサイズが合っても、低ランクだと駄目ということになる。
バッテリーなら何でも良いと思っていた隼人は、自分の思い違いを認識した。
「バッテリーを選ぶ時は、バッテリーの上面に表記された型式を参考にするけど、型式の合うバッテリーは、どこにでもあるわけではない。交換を教えるにしても、物自体は自分で頑張って探してほしい」
「溜息が出そうです」
一つ目の問題点を聞いただけでも、隼人は自分にとって難易度が高く思えた。
だが小林が指摘した問題点は、バッテリーに限っても、一つではない。
「次にメモリーだけど、例えばアイドリングストップシステムが搭載されている車だと、バックアップ作業を行わずにバッテリー交換すると、走行性能に不具合が生じる場合もある」
つまり隼人が動かす車は、走行性能に不具合が生じる可能性があるわけだ。
嫌ならバックアップをすべきだが、隼人はやり方を知らない。
そもそも「アイドリングストップシステムとはなんぞや」である。
「ガソリンの調達も大変だよ。国は緊急車両専用にした後に、燃料安定剤を入れて保存期間を延ばした」
燃料安定剤は、燃料の酸化や劣化、燃料タンクの腐食を抑制する添加剤だ。
通常、ガソリンは酸化や蒸発によって、半年ほどで使えなくなる。
だが燃料安定剤を使えば、ガソリンが1年から2年保つ。そして添加量を2倍から3倍に増やせば、さらに劣化速度は遅くなる。
燃料安定剤の原料はブチルヒドロキシトルエン、ブチルヒドロキシアニソール、エチレンジアミン誘導体などで、すべて国内で調達が出来る。
製造しているのも、国内の化学メーカーだ。
それによってガソリンは通常3~5年、理想的な環境では6~7年保つ。
また代用品もフェノール系化合物、アミン系化合物、硫黄系化合物がある。
すべて国内生産で、それぞれ2年から4年、3年から5年、2年から3年保つ。
「今は安定剤を入れて2年ほど経ったところで、燃料を回収すれば使えるけれど、1年後からは使えなくなっていくよ」
「ガソリンが安定して使えるのは、あと1年ですか」
「それにガソリンが残っているスタンドに行っても、ポンプと繋げたホースを地下タンクに差し込まないと、回収ができないよ」
車が使えるようになっても、燃料は1年後に駄目になっていく。
小林は、そのような問題についても指摘した。
話を聞いている教師陣も、隼人を止めるような雰囲気を漂わせている。
だが空間収納に入れてしまえば、入れた状態を保てるので、隼人は問題ない。
――空間収納は、見せられないからなぁ。
隼人は、心の中で思案した。
農業高校の敷地内まで車を運んで、バッテリーやガソリンを集めて小林に渡し、小林に作業を行ってもらうのであれば、色々とスムーズに進むだろう。
だが空間収納の力は、開示できない。
つまり隼人が、全作業を一人で行わなければならない。
「それでも車は必要なので、教えて下さい。ガソリンは、1年も保てば良いです。物資は、見合う量を運びますので」
隼人の言葉に、小林は少し困ったような表情を浮かべた。
「それは、君が自分の安全を保った上で行うのなら、否ではないけど」
小林は、隼人が自分の生徒であれば、危険だとして止めたかもしれない。
だが隼人は他校の卒業生で、成人年齢が18歳に引き下げられる以前の20歳で考えても、既に成人している。
「そもそも、どうして車を使いたいんだい?」
「市内にある物資が減ってきましたので、餓死よりは、安全なところに避難しようかと思いまして」
「それは妥当な理由だね」
隼人の説明を聞いた小林は、危険だから駄目だとは、ますます言えなくなった。
物資が調達できなくなれば、餓死へと至る。
そうなる前に移動するのは、先を見据えた生存戦略で、当然の行動だ。
文句があるなら霧丘農業高校で受け入れるしかないが、教師でも生徒でもない隼人は部外者だ。
食料が足りなくなって餓死するので、部外者は受け入れられない。
「車を動かす方法を教えることは、出来るよ。後で私の車を使って、説明しよう。私からは、以上です」
小林が大森に結論を伝えると、大森は頷いた。
「取引には応じる。だが熊倉君も、安全には気を付けてくれ」
「勿論です。自分の命ですから」
隼人もゾンビは怖いが、それはホラー的な怖さであり、生命の危機ではない。
どこか余裕そうな隼人の様子に、大森は出掛かった再度の警告を飲み込んだ。