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「槿(むくげ)と桜」【前編】  作者: 船木千滉
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第9話 ケンチャナヨ(その1) 

「ケンチャナヨ」と言うのは「大丈夫だ」の意味だと、今では良く知られている。

小説の1985年頃は「ケンチャナヨ精神」と言われ、あまり良い印象ではない。

意味は違うが、どこか大阪の「知らんけど」と似た所があると、私は思っている。

 10月6日月曜日、やけに冷えて、例年になく秋の訪れが早く感じられる週明けだった。


 上田が出勤すると、秘書の安岡からすぐ専務室へ来るようにと電話があった。朝から呼ばれる時は決まって良くないことだと、上田はそう思いながら専務室へ向かった。


 ドアをノックして部屋へ入ると、藤原は椅子の背に頭を預けながら窓の外を見ていた。


「おはようございます――」

 せめて声だけでもと上田は声を張り上げた。


「ああ上田君――、すぐ韓国へ飛んでくれ。雰囲気で分かるやろ、ベルトがたいへんや」


 回転椅子を回すや否や、藤原はそう叫んだ。

 笑顔だが、眼鏡の奥の目が血走っていた。


(専務にしては珍しいな)

 そう感じると共に、上田は急に緊張した。


「矢部君の報告では、物ができまへんの一点張りや。どないなってるんか、行って調べてくれ。もう――この週末寝てへんねん。君、矢部君と交代して、なんとかやってくれ」


 藤原は8月の同窓会で、ベルトの製造が頓挫していることを把握した。

 同時に雅絵の会社でベルトの縫製が出来ることも知った。


 週明け、藤原は韓国にいる矢部とオリオン社の李社長を呼寄せ、状況を問い質した。例え鈴木から得た情報でも、それで会社の計画を変更するほど藤原も浅はかではない。


「矢部さん、私、言いましたよねえ、あかんと思たら、早う言うて下さいって……」


 技術部の部長に伴われ部屋に来た矢部に、藤原は噛んで含めるように尋ねた。だが直立不動で緊張する矢部の話は要領を得ない。


「少し……、遅れておりますが……」

 と、言い訳するばかり。

 隣で村上部長も責任を取りたくないのか、終始黙っていた。


「専務、誰に出来ないと聞きましたか?」

 と、割り込んできたのは李社長だった。

「大丈夫です。これサンプル、見て下さい」


 そう言って李社長は、金栄社がL/Cを担保にして作ったという部品を持ってきた。そこまで見せられて、いまさら強権発動は出来ない。それで矢部の更迭は見送った。


 だが9月に入っても事態は改善されず、矢部が助けを求めてきたのは、出荷予定まで1ヶ月を切った9月末のことでであった。


 9月の半期決算が出るのも近い。円高がますます進む中で、上半期の業績悪化は確実。150億からの売上責任を担う藤原は、日本を離れられる状況ではなかったのである。


 そこで藤原は上田の緊急登板を決断した。

「専務、しかし私ビザが……」


「ビザは鈴木君に言うたら、何とかなるやろ。君、彼とはずいぶん親しいようやし……」


(韓国のビザを外務省へ?そんなん、言うてどないかなるもんやないし……)

 と、上田は文句タラタラの思いが顔に出た。

 だが藤原の顔を見れば、何も言えなかった。


(つづく)

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