第8話 神戸北野坂(その3)
人は誰でも後悔する。後から後悔しても始まらないと、悟った人は諭すかも。
それでもやっぱり人は何度も失敗して、また後悔して、それでも生きていく。
後悔して悔い改める、つまり過去の為に明日がある……、きっと取り返せる!
「えっ、いつ……、うちの母親と会った?」
「さあ……、いつでしょう。あなたは、紹介してくれなかったわね……」
藤原の心に戦慄が走った。
もう足腰が弱くなった母親の姿が、頭の中を駆け巡った。
(ひょっとして母が雅絵のことを……)
「すまん、そんなこと、知らなかった」
「いえ責めている訳ではないの。今、私もこの年になって、お母様の気持ちが分かる気がする。それが許されるかどうかは別にして」
藤原は頭が混乱して、何も言えなかった。
(母が彼女を遠ざけた?あの母なら、やりそうなこと。それに気づかなかった俺は……)
二人の間に、長い沈黙が続いた。
「お代わり、お作りしましょうか?」
静かに近づいたマスターが、空になった藤原のグラスに手を指しながら、そう聞いた。
「ああ……、お願いします」
救われたように、そう藤原は呟く。
その隣で雅絵は、どこを見るでもなく黙っていた。
「史暁さん、春に二人で須磨の桜を見に行ったでしょ、覚えています?」
また明るい声のトーンで、雅絵がそう言う。
「ああ、墓を抜けて上の方まで登ったっけ」
それは遠い思い出ながら、山一面が満開の桜でいっぱいだった。
二人で手をつなぎ、兵庫の海まで見通せる山の中腹まで登った。
「私、桜が好き。小さな花は可憐なくせに、満開になるとどこか近寄りがたい。子供の頃から好きだった。でも桜は日本の花、あの時私がそう言ったら、あなた……」
「君も日本で生まれた日本国人じゃないか」
「そう、私嬉しかった。あなたのあの一言、この人と、死ぬまで一緒に居られれば、どんなにすばらしいかと夢を見てたわ」
(夢……)と、藤原は己の心に呟きながら、桜の木の下で狂おしいほど愛しあった記憶を辿り、改めて己の浅はかさに愕然とした。
「史暁さん、韓国の国の花、知ってる?」
「韓国の国花は、槿……だろ。槿は桜と違って、どんなに荒れた土地でも根を張る」
「えっ、良く知っていますね。チマチョゴリの色は槿の花の色が基本です。花は夏の終わり、朝咲いて夕方しぼみます。でも桜の木は土を選ぶと言いますから、槿より弱いかも」
ときおり首を揺らしながら、手にしたグラスを弄び、まるで歌でも歌うように呟く雅絵。
その横顔に藤原は、自分と別れてからの時を垣間見るような気がした。きっと夫を亡くして、独りで子供を育てて、夜はこうやって酒を飲みながら時を過ごしてきたのだろう。
あの天衣無縫な笑顔を消したのは、この俺だと藤原は確信した。
背負った重荷は自分の比ではない。後悔と言えるような生易しいものではなく、どうしようもなく頭が混乱して、幾つも土嚢を胸に積まれたような思いだった。
マスターの出してくれたジントニックのグラスがカウンターの上で光り、それを掴めないでいる自分に、藤原はまだ気づいていない。
その手も心も、まるで宙を彷徨っていた。
(つづく)