第6話 神戸六甲山(その2)
標高932メートルほどの六甲山、その山の頂から、茅渟の海が一望出来る。
そこも江戸の末期ははげ山で、明治の世になって人の手で樹々を蘇らせた。
そのお陰で今も昔も人が集い、街から見ても山から見ても惚れ惚れさせる。
(本当に百円まで行ったら……まさか……)
例え風邪を引いても、止めることができない煙草を手元で燻らせながら、藤原は立ち上がった。窓から見通せる六甲を見上げた。
急激な円高で新年度に入り、神戸支社の収支が悪化している。本社での役員会議を前に、藤原の苛立ちは高まっていくばかりだった。
長くなった煙草の灰に気がつき、窓から机に移動しようとして、電話がなった。
「専務、ロンドンの鈴木さんからお電話です。お繋ぎしてもよろしいですか」
秘書の安岡である。
「ああ鈴木君、どうぞ繋いで下さい」
煙草を灰皿でもみ消すと、藤原は椅子に座り、回転させて再び窓の方を向いた。
目の前に六甲山が聳え、もうお盆まで十日余り、夏山の緑が光り輝いている。久しぶりに鈴木の名を聞くと、若かった頃の思い出が、六甲の山と共に浮かび上がってきた。
(雅絵は、元気なのやろか……)
ふと藤原は若かりし頃の記憶を辿っていた。
英研で知り合った雅絵と、夏の六甲へ登ったことがある。帰りの登山道、時ならぬ夕立に飛び込んだ岩陰、彼女の身体から湧き上がる香りに気が動転して、訳もなく聞いた。
「なんで、こんないい香りがするんだ」
「えっ、なにが……」
と言って、雅絵が顔を上げた刹那、藤原は彼女の唇を吸っていた。
初めて会った時から好きだった、と藤原は告白し、それを雅絵は受け入れた。激しい夕立に煽られ、藤原は岩陰で彼女を抱いた。
終戦というカオスの中で誰も信じなかった藤原が、唯一心を預けたのは雅絵だけだった。
(なんで……いなくなってしまったのか)
思い出したくない記憶まで蘇ってきていた。
だが手にした受話器が呼ぶ声に、藤原は呼び戻された。
強烈なフラッシュバックで、立っていることさえままならなかった。
「藤原さん、専務さん、聞こえてますか?」
それは鈴木の声だった。現実の声だった。
年甲斐もなく、下着が濡れているのに気づいた。
気恥ずかしくて、言葉が出なかった。
「ああ……、どうした、久しぶりやなあ」
「どうしたって、それはこっちです。ひょっとして女の事でも考えてはったんと違いますか?」
彼の感性に、ようやく藤原は気が静まった。
「この忙しい時に――、それでなんの用や」
「実は私、帰国することになりまして……」
「なんや、外務省クビになったんか」
「またまた――、一時帰国ですねん」
「それで――、どうしたんやそれが」
「また冷たい人でんな。まあよろしわ、実は同窓会を開こう、思いまして」
その話に藤原は俄かに脈が高まった。
「同窓会――って、いつの同窓会や」
「そりゃあ――、英研の同窓会ですわ。実は、新居雅絵の居所が分かったんです」
「なんやそれ、新居雅絵って、あの雅絵か」
そう言う藤原は自分の動揺を見透かされないよう、それでも息せき切っていた。
(つづく)
明日へ続きます!おやすみなさい。
またよろしくお願いします。船木