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「槿(むくげ)と桜」【前編】  作者: 船木千滉
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第1話 ロンドン (その1)

昭和60年11月25日、円ドルの為替相場は、1ドル=200円を突破。

昭和62年1月19日には150円を突破するが、それはプラザ合意から

僅か1年4カ月の出来事であり、昭和60年は激動の幕開けとなった。

 それはすぐ手が届くのではないかと思うほど、欧州の空に浮かぶ雲は低く棚引いていた。まるで野と山と雲に仕切りがなく、人の心を不安にする。際限のない空を見ていると、日本の青い空が恋しくなるものである。


 昭和60年(1985)10月1日火曜日、この日も曇天であった。野山を押さえつけるような空模様の下、藤原を乗せたタクシーは空港からロンドン市内へ向かっていた。


 窓の外はまるでミレーの絵でも見るような景色。それは古の厳しい農村を描きながらも、人の表情や空の色調には救いがある。だが目の前のキャンバスには、厳しい冬に向かって時を刻む現実が流れていた。


 北フランス生まれの画家が描いた風景が、ロンドン郊外に広がっているのも、恐らく偶然ではないだろう。十数世紀を隔ててもなお、民族の交わりは郷愁として人の心に宿り、やがて残像として景色の中に醸し出されるに違いない。藤原は、そんなことを思いながら、改めて己の通り過ぎた時間に浸っていた。


 新日本貿易(株)専務取締役、藤原史暁。昭和8年生まれの52歳。ゴルフ焼けの精悍な顔つきに、世代の割には腰高でスリムな体型。眼鏡をかけていなければ、国籍不明ともいえる苦みばしった顔つきである。


 己の心と向き合っていた藤原は、隣に座る男の咳払いで現実に戻された。少し座り直すと、気を引き締めて難しい顔を作り直した。


(こいつに電話したのが、失敗だった……)

 こいつとは、同じ大学で二年後輩の鈴木琢也。頭頂まで広がった額に汗が浮いている。  


 彼は警察庁から外務省へ出向し、一等書記官としてロンドンに赴任中である。彼は鈴木の隣で腕組みをしたまま、反対方向を向いている。空港を出て15分、二人は黙ったまま。久しぶりの再会だが無言だった。


 この年の春、藤原は鈴木からロンドンへ赴任する旨の案内状を受けとった。ただその後互いに忙しく、会う機会もないままだった。そして秋、藤原は久しぶりの欧州出張を前に、突然鈴木に電話を入れたのである。


 藤原からの電話に鈴木は喜んだ。互いに五十を越えて、住む世界も違う。だが何年経っても先輩後輩の関係は消えない。それは仕事で出会った者とは違う、深いものがあった。


 ただ特別な扱いを嫌う藤原の意に反して、この日鈴木は空港へ出迎えに来ていた。狭い到着ロビーの人垣に混じって、相変わらず猪熊のような首を突き出して待っていた。


 藤原自身、駐在員として三十代半ばの頃、四年ほどロンドンに住んでいたことがある。人に頼らずとも言葉や地理に心配はない。


 だからロンドンへ入ったら連絡するとだけ伝えたのだが、どうやって調べたのか鈴木は空港で待っていたのである。自分でも不思議なほど、鈴木に会いたいと思って電話を入れたのだが、そこが藤原の藤原たる由縁だった。


 ただ会うなり文句を言う訳にもいかない。

 挨拶もそこそこに、二人でタクシーに乗った。 


 藤原はホテルへ行くのを止め、事務所へ向かうべく運転手に行き先を告げた。だがタクシーが走り出して、すぐのことだった。


「先輩、久しぶりのロンドンでしょ。滞在中はなにも問題を起こさんで下いよ」

 と、鈴木は藤原にそう耳打ちしたのである。


「なに……、私がなんの問題を起こすんや」

 思わぬ鈴木の言葉に、藤原は気色ばんだ。


 まだ機上の窮屈さから抜け出せず、睡眠不足も手伝って虫の居所が悪かった。まるで学生のように怒鳴りつけた。驚いた運転手が、バックミラーで後の様子を窺うほどだった。


(つづく)

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