井崎の場合:03
僕は大学四年生に進級した辺りから、就職活動の道をのらりくらりと行き始めた。内藤は彼の前途多難な人生における21歳の岐路で大学院生の道を選択し「モラトリアムに身を横たえるのさ」と、あくまで楽天的なことを厭世家じみた口調でのたまっていた。
理学部化学科の研究生として地道に単位を履修していた僕は、この就職難の時代に引く手あまたとまではいかないけれども二社ほど、大手調味料メーカーから商品開発課への内定を受けた。片方は競馬のジョッキーと一卵性双生児であるらしい俳優、もう片方は人型アンドロイドに愛想が加わるまでの代用品みたいな女性タレントをCMに起用していて、前者のほうは出演俳優が違法賭博の疑いをかけられたとかで全国から──ただし横浜市民による群を抜いた猛攻は想像に難くない──苦情が殺到した結果、上層部の適当な判断によってすぐさま放映が取り止められた。ちなみに件のCMにはお子様に大人気のYouTuberも出演しており、僕は当時のニュースを見聞しながら、CM放送中止について両親にしつこく説明をねだる子供の上目遣いを、それからすぐに手持ちのスマートフォンで自主調査に望んでいく彼らの真剣な眼差しを思い浮かべ、釈然としないまま終わったその何十年後かに、かつての子供たちがひしゃげた煙草を咥えながらグリーン卓に500チップを放っているところまで想像した。だからといってどうだということもない。しかし、やはりギャンブルに惹かれる性のようなものがジョッキーと双子の弟である彼にも備わっていたのかもしれない。血というものはつくづく悍ましいものだと、僕はだらだらと雨の降りしきる低気圧の晩に自失していた。結局、事の顛末は違法賭博場にいたジョッキーと俳優の彼をルポライターが勘違いしていたというところに落ち着くのだけれど。
とにかく、多種多様な娯楽に早くも飽きが回りつつある人類はこの先も新たなる味覚の発展を望んでいくのだろうと推察した結果、僕は目先のモラトリアムを泣く泣く切り捨てて、程よい労働に束縛された安泰な道を行くことにした。
内藤はそのとき既に例のSNSで知り合った女の子と交際していた。地方を跨ぐほどの遠方に住んでいたため、実際に顔を合わせるのは月に二度程度とのことだったけれど、それでも2人の距離間は月が昇り陽が沈んでいくくらいの感覚で縮まっていたように思う。僕は内心渋い気持ちでその様子を傍観していた。
なぜ人はこうも恋愛に囚われたがるのだろうと逡巡する。たまたま出逢った異性とひょんなことから意気投合してこの人こそが自分の運命を良き方向に導くのだと思い込み、正気の沙汰とは思えないがある場合には社会的な雄と雌として法的に夫婦の契りを交わす。更に血迷った挙句には互いの精子と卵子から何も知らない赤子を合作し、彼及び彼女の成長途上でいざこざを見せつければ、その後の人格形成に大いなる支障をきたさせる。おまけに、成人後の人生には一切の責任を負わないときた。
〝子供とは一度愛し合った夫婦の保険である〟という残酷性の澱みたいな言葉をどこかで聞いた。もしもこの先どこかで夫婦がお互いのことを愛さなくなったとしても、2人の許にはかつて愛し合ったことの証明となる生き物がいる。しかもその生き物は非力で、無垢で、その割には多感で過敏なる感受性を持ち、親の振る舞いを必死に倣おうとする。そんな生き物を傍目に親の役割を放棄するわけにはいかない。子供は両親という形で夫婦を繋ぎ留めるための鎖なのだ──そんなことをしてまでたかだか元は他人だった2人を繋ぎ留めておく意味が僕には理解できなかった。
そんなことをするために僕らは代々恋愛を称揚していたのならば、今すぐにでも人類は集団自殺するべきだ。もしくは世界中に現存する人種の精子と卵子を太陽系外に放ち、いつかそれを見つけたエイリアンが僕らの本能に相応しい姿の生き物を合作してくれることを夢みよう。熱く鼓動する心臓も無ければ、感情を生産する脳も無い。生きてようが死んでようがただひたすらに揺蕩っておけばいいクラゲのような新人類に来世はなれるかもしれない。
そうなればいよいよ潔く諦められるんじゃないだろうか。〝もしも明日世界が終わるとしてもワタシはリンゴの木を植える〟などと抜かしだす阿呆は現れなくなるし〝他人は地獄だ〟と嘆いた哲学者もきっと浮かばれるはずだ。
これは僕の持論でしかないのだけれど、〝人間として生きられるのがこれで最後だと分かっていたなら、人間はもっと人間に優しくなれるだろう〟混沌、暴動、悲嘆……あらゆる災厄が街を包んでは歪めて回り、人々は人間という生き物に生まれ落ちたことの不幸を呪う。でもそれははじめの一時だけだ。じきに曇天から差し込む天使の梯子が街全体に癒しの光をもたらすように、僕らは穏やかな眼差しで僕らと同じ種族を見つめることになる。エゴイストが溢れかえる街の中では誰も誰かのナンバーワンじゃないからだ。
〝あなたのことが好きです〟と修学旅行のバスの中で告白していた同級生は〝あなた以外の女の子は好きじゃないです〟と告白しているも同然だった。言葉には常に裏側があるのだ。というよりも、人の感情には常に裏側があるから、それを表現する言葉も必然的にそうなる。〝もしも明日世界が終わるとしたら私はあなたと一緒にいることを選ぶわ〟という言葉は僕にとって〝お前は独りで死ね〟というメッセージでもあった。
悪ふざけの真っ只中で足蹴にされながら、僕は気づいたのだ。こんな風に裏も表もない、ほとんど獣の吠え声と変わらないような言葉が世界中を埋め尽くしたら、その時にこそようやく世界平和は実現するだろうと。
誰も独りでは生きていけない。僕はその言葉に囲われながら独りで生きていた。そんな僕が悟ったことは〝人は独りでは生きていけない〟のではなくて、正しくは〝人は独りならば生きていかなくてもいい〟のだということだった。
自分が誰かの一番じゃない世界で明日を好き好んで生きていこうとする人間なんかいない。みんながそうなれば人々は自分の存在する世界の空虚さに耐えられなくなり、やがてはまた不完全な言葉を使い回して他者に優しくしようとするだろう。そうして出来上がったのが今の世界であると云われても一切反論はできない。
僕は独りだ。それでも生きている。なぜならば僕がタフで、過去の呪いになまじっか耐えられているからだ。でも決してそれ以上のことはしない。呪いから解放されるために動きだそうとした瞬間、奈落まで真っ逆さまに落ちることがないとは言い切れない。僕はタフではあるけれども臆病なので、きっとそれを恐れている。
内藤がもしも自分自身を取り巻く呪いを例の彼女と2人がかりで解こうとしているんだとすれば、それは凄まじいくらいに滑稽だし気分の悪いことだと、僕は咽喉を灼くような砂嵐に歯を食いしばっていた。
タイ料理専門店の他に洒落た行きつけの店を欲しがって足繫く通いだした渋谷近郊のバーのカウンターで肘をつきながら、内藤は不服そうに尋ねてきた。
「なんでそんな渋い顔をするんだ」
それまで散々人を遠ざけている様を見せつけていた覚えがあるからなのだろう──内藤は、僕に対して浮かれポンチな面構えで恋人の近況を報告するたび、さながら目の前で蛙の交尾を見せつけられたかのような顔をされることに気づいていた。僕は内藤の横でコップの淵を噛みながら、かつては邪悪ながらにも清廉だった友人の魂を悼んでいた。本当に人が死ぬときよりも、こうして生きながら変わった様を見せつけられるときのほうがその人を喪失した感覚に陥る。僕は内藤に一端の仲間意識を感じていたのだろうと、激しく吹き荒ぶ咽喉の砂嵐に痛感させられていた。
「ホモで妬いてる訳じゃないんだろ?」
「少しでもその懸念があるんだったら安易にそんなことを訊いちゃいけないと思うな」
「違うだろ?」
「案外そうかもしれない。僕は僕が思っているよりもずっとホモソーシャル信奉者だった」
「男と男の友情に女が割り込んでくるのが気に喰わないのか。ばっかで。お前はお前が思っているよりも俺との付き合いのことを何とも思っていないよ」
僕はそのとき、一切顔には出さずとも、正直、心臓に冷や水をぶっかけられたような気持ちになっていた。知り合って2年間はさながらいじけた少年のような内藤の心を騙くらかせていた。けれど、3年目にもなるとなぜ僕がこんなにも諦観を抱いてるのに自分との関係においては粘りっこい情熱を垣間見せてくるのか、内藤は日に日に察しつつあった。
しかし、内藤がいくら解明しようとしても、僕の複雑怪奇な魂はそう容易くはなかった。内藤にできることはせいぜい、袋小路に入った先で苛立ち紛れに壁を叩いたり床を踏み鳴らしたりするくらいだった。僕はそれを、いずれ憔悴して動かなくなる結末が定められているマウスを観察する時と同じような気持ちで眺めていた。
ただし僕は、内藤に僕の本心を少しでも感づかれることさえもないままに大学を卒業するつもりでいたのだ。だから時折り喰らわされる酔っ払いのジャブのような探りさえも、僕にとっては厭わしかった。それに、どうせ大学を卒業したら疎遠になるのだし、なぜわざわざ悪い顚末に転ぶことが目に見えている結果を進んで選択しようとするのか、僕には全然解明できなかった。あるいは人と人との繋がりは得てしてそういうものなのかもしれない。無粋な不毛が最後には全てを0にしようとする。
僕には苛立つと右の眉毛を毟る癖があった。唐突に冴えだした内藤の勘に例の女の影響を感知する度に、僕は人差し指の腹と親指の腹でサンドした右の眉毛を毟っていた。そのせいで、一時期は病気の犬のような人相になっていたものだ。
「ねぇ、女は元々男のあばらから創られたって話を信じるかい」
「創世記の中の一節か。生憎俺は理学部生物科なんでね。遺伝子工学的にクローン人間はまだ実用可能な状況にまで至っていないし、おまけに性別の違う人間を産み出すなんて、科学技術の発展していない時代じゃ到底叶わないだろう」
「内藤は屁理屈の神に寵愛されているね」
「ああ、はいはい。で? 結局、何が言いたいんだ」
「男と女が分かり合うなんて無理だと思うんだ。男とでもある程度はそうなんだろうけど、女とだったら尚更さ。だって、自分のことを分かってやれるのは自分しかいない。内藤も口を酸っぱくして言ってただろう。〝期待したぶんだけ失望する。だから期待しないように言い聞かせておくんだ〟ってさ。そんなことを言ってたような男が、いったいどういう心境の変化があって〝彼女のことを分かりたい〟だとか言えるようになったんだろうって、純粋に気になってね」
「一人じゃどうにもならないことに気づいたのさ」
「何について?」
内藤は僕の目ではなく、僕の手元のグラスに視線を向けた。或いはそこに注がれているジン・ビームに向けてだったのかもしれない。それとも、琥珀色の水面に映り込んでいる僕だったか。
内藤はちょっと微笑みかけて、それよか頬を引き攣らせて告げた。
「人生だよ」
「人生?」
「ああ。お前を見て分かった」
「僕が……」
「井崎は何も話そうとしないよな。初めは俺と同じように、話してもどうにもならないと考えているからなんだろうと思っていた。でも、違うだろ」
「どうかな」
内藤は僕の安易なはぐらかしを鼻で嗤って、留守電にメッセージを吹き込む時のようにやや失望交じりの声色で言った。
「俺がお前と違うのはな。俺はまだ俺の人生をどうにかしたいと思ってるよ。たとえどうにもならないとしてもな」
「その結果導き出した答えが女の子と寝ることなのかい。なんだか随分遠回りな気がするね。まあ、所詮僕には分からないことだけれど」
「ずっと考えていたんだが、井崎は童貞か?」
「そんなことをずっと考えてるなよ。童貞だったらどうする。ちなみにそうだよ」
「やっぱりな。元同胞のよしみで教えてやるよ。食わず嫌いしてないで、一度は女の子と寝たほうがいいぞ。相手なんてこの店にも選べるほどいるんだ。試しに声をかけてみたらどうだ」
「どうかな。僕はホモだし。運が良くても相手は1人くらいしかいないだろう」
内藤は唇の端をひくつかせてからしょうがなさそうに訊いてきた。僕にはそんな一連の仕草がとんでもなく癇に障った。グラスの淵に口をつけることでなんとか舌打ちを封じようとする。
「なぜそうも性愛を毛嫌いする?」
「元々は生殖のためにするんだろう。人類の欲望が飽和した令和の時代には1人用の快楽を追求した自慰グッズが欲求不満の数ほどある。それこそ出しても出しても足りないほどだ。僕にはゴムをつけてまで生身の女とセックスする意義が理解できない」
「反出生主義者なのか?」
「勘弁してよ……あんなガキ臭い連中と一括りにされるなんて不名誉過ぎる。僕は大人だ。潔く諦めて毎日を一生懸命に生きている。産み落とされたことへの文句を呟くくらいなら溶解平衡の公式や元素記号を唱えるってスタンスでここまでやってきたんだ。おかげさまで先日、社会から迎合されるための第一関門、内定頂戴もクリアした。話したろう? モラトリアムにしがみつく大学院生さん」
内藤はくつくつと肩を揺らした。そろそろセックスという言葉の連呼で周囲からの印象がどうこねくり回されているか気になってきた頃だ。
僕が早々にこんな不愉快な話題を切り上げようとしたのも空しく、内藤は力の籠もった口調で言った。
「セックスする意義が分からない? だからこそだよ。井崎には、ベッドの上で殴り合う経験が必須なんだ」
「そんなに激しい情事を会う度してるのかい」
「そういうことじゃない。とぼけているのか真剣に訊いているのか分からないな。いいか、セックスとは、文明と制約の発展した現代社会で唯一容認されている暴力だよ」
「もういいよ、この話……ちょっと前から声を張り過ぎてる。いい加減自重しないとマジでホモだと思われるよ。それにさ、もしもその持論が一般的な理論と同等なんだとしても、僕は絶対にそんなことはしたくない。そんなことをするくらいなら実際に殴るほうを選ぶくらいだよ。レイプして捕まるよりも暴行で捕まったほうがまだ大人としての威厳は保てる気がする」
「威厳威厳って、何に対しての威厳だよ。まさか社会か? 井崎、お前はそんなお利口なタマじゃないだろう」
「タマとか言うなよ。恥ずかしくないのか」
僕は周囲へのパフォーマンスの意図も兼ねたしかめっ面をしつつ、確かに、今まで誰に対するプレッシャーを感じていたのだろうと考えてみた。すぐに子供時代の僕の姿が浮かんできて、尚更、僕は僕自身への誓いを裏切ってやるわけにはいかないと思った。
「大体にして、井崎は人に暴力を振るうことなんかできないだろ」
「そんな行為をするくらいならって話だよ。内藤が言ってきたことじゃないか」
内藤は思いがけず蹴飛ばされた犬のような顔をして、すぐさま俯いた。だけども僕には既に見つかっていた。一瞬だけ窺えた内藤の横顔は酷く悲しそうに歪んでいた。僕は途端に、さっきまで何とも思っていなかったはずの周囲の談笑の声を耳障りに感じ始めた。きっと、出鱈目でもいいからさっさと意識を他のものに向けようとしたためだろう。
嫌な空気が全身を拘束していた。自分のせいで人が悲しんでいる時にこそ、僕は僕を不自由だと感じる。思考も行動も制限されて、じわじわ拘束が激しくなる。これは人間に備わった機能なのだろうか、それとも僕の性質なのだろうか。人と比べたことがないから分からないけれど、とにかく言えるのは、この不自由を受け入れさえすれば人の痛みに鈍感になれるということだ。だから、僕はきっと胡乱な眼で不自由の源を睨んでいた。
「井崎は一度も、俺に真っ向からぶつかろうとはしてこなかったな」
「変だな……あのさ、内藤。憧れる気持ちは分からないでもないけど、人と人との友情はそんなに眩いものではないよ。どす黒く濁っていたり、そこまでではないにしても、何処かしらに闇が潜んでいるのが常だ」
話を聞く限りだと、内藤は僕よりも熾烈な悪ふざけを喰らっていた。それでも僕とは違って、人と人との関係性になお夢想を抱いていた。そういう意味では憐れなのだ。僕は貶されることで人間関係について斜に構えるようになり、内藤は貶されることで憎しみと同等以上の期待を人間関係に抱くことになった。元々肥大ではあったのだろう自尊心はぐにゃりと歪曲して、人を寄せ付けない言動をばかり取らせてくる。稀に人間関係が構築できれば、自らの夢想に相応する何がしかを求めて深入りを試みては破壊する。言葉だけ聞いてみればシュンペーターの創造的破壊理論に近しいものが感じられるけれど、内藤に再びの創造を成せるだけの力量は残念ながら無いのだ。本当に、幸が無さそうだからこそ、どうか幸あれと思えてしまう。
もしもこの浮かれポンチな調子が続いたとして、内藤はいずれ訪れる別れに直面した時はいったいどうするつもりなのだろう。というより、どうなってしまうのだろう。僕は自ら失望に突き進んでいく内藤を慮って、既に諦めた者ならではの助言を授けてみることにした。
「あんまり力を傾けすぎると、いつか破綻したときに持ち直せなくなる。これはこの世の悲劇の一つだけど、こと人間関係において、人間的にカリスマ性のない者たちは少しでも期待をしてしまうと刹那的に狂喜して永らく哀しみに打ちひしがれる人生を定められてしまう」
「諦めは自由に直結してるって、知ってるか」
内藤は憂鬱そうな口調で訊いてきた。しかしそこには微かに憤怒の気配も混じっているようで、僕はふと〝憂鬱は凪いだ熱情に他ならない〟という誰かの言葉を思い出した。
内藤は僕の返事など端から期待していなかったかのように続けた。
「色んなものを諦めるということは、そのぶん自分を縛りつけるしがらみを回避できるということだ。それは人によっちゃあ良いことのように映るだろうが、しがらみっていうのはどうしようもない自分への言い訳にもなる。もしも何物にも制限されない自由の果てで、自分のことが許せなくなってしまったら……そこには自己破壊という選択肢しか残されていないんじゃないか」
「それを、僕を見てて理解したのかい」
「俺はお前を心配してるんだよ。お前が俺を心配しているようにな。ハリネズミは確かに棘だらけだが、それをひっくるめて愛でてくれる人もいるってもんだ」
「ハリネズミは人に懐かないんだよ。心配してもらえるのは、有難いことだけどね」
カウンターの照明がやたらに眩しく映った。ワインレッドの壁紙にかけられている絵画には大きな蛾が一匹、ほぼ完璧と言って遜色無いシンメトリーで描かれている。背景の臙脂色がカウンターの壁紙と同化しかかっているため、初めて来店する客はマスターの背後でヤママユガが翅を休ませていると仰天するかもしれない。しかしそうなったとしてもほんの一時だけだ。絵画には金色のフレームがついているし、何よりも蛾の翅には自然界でおよそ通用しようのないへべれけな男の顔が浮き上がっている。マスターはこういった客の反応を加味して絵画を飾ったのかもしれない。僕たちが初めて来店した時のように、ちょっとした会話を交えるきっかけにはなるだろう。
そういえば、僕と内藤が初めて交わした会話の内容はどんなだっただろうと思い至る。確か、あれは理学部での講義の時だった。教授が孤軍奮闘大学生に対して奨学金制度の利点を滔々と喋っていた時、僕と同じで地味な二色系統の恰好をした男が隣でぼやいた。
「俺たちには馬車馬のように働く将来しか無いみたいな物言いだな」
僕は当然のごとく無視をして、なんの生産性も無い手遊びをしていた。両手の親指から小指までを順繰りにくるくると回していると、隣の男──話の流れから察せられる通り、内藤だ──はその動きをおもむろに模倣しだした、かと思うと、案の定、薬指の回転に手こずった。
僕が一人手遊びの経験値の差を見せつけると、内藤は興味無さそうに「随分と慣れてるんだな」と、僕という人間に好奇心が湧かないとそもそも聞いてこないであろうことを聞いてきた。
「まあね」
「これは知ってるか、指スマ」
「知ってるけど、あんまり」
「まあ、やってみよう。指スマ1」
僕は唐突なゲーム開始に後れを取って一個分の握り拳しか作っていなかった。しかし内藤がどちらの握り拳でも親指を立てなかったおかげで、僕は早々にグッドサインを引き下げることに成功した。
「最初に一本だけ親指を立てる奴は慎重な策略家らしい。東洋人の括りじゃ、一番スタンダードなタイプだ」
「へえ。これは無効試合にはならないの」
「スタンダードじゃ不服か」
「そもそも、君、誰?」
「同じ理学部の学生だよ。同じような匂いを感じたんでね。あんな教授のこんな話、うんざりだろう」
教授はまだ講釈の火種に息を吹き込み続けていた。僕は前を向きながらさりげなく隣の男を横目で見やった。同じような匂いとのことだったけれど、陰険そうな眼、強張った笑顔、合理性を重視した服装、中途半端に伸びた爪……僕はこういう奴に同類と見なされたのかと一瞬、腑に落ちないような心持ちになった。がしかし、指スマの統計学を一丁前に語る奴が思い描く東洋人のスタンダードが僕のような男であるということには疑問が湧きこそすれ反抗心は生まれなかった。僕は隣の男のことをありきたりな理系の大学生、つまりはスタンダードと認識できてはいたので、まあ確かに、スタンダード同士の同類であるという認識に齟齬は生まれていなかったということになる。
男は言った。
「この世はかくも勝手だよ。男女が好きで生んだ子どもが、好きでもない人生を送る羽目になる」
「そんなこと言ってたってしょうがないさ」
その時、男の陰険そうな眼が煌めいた。刹那、僕の脳裏では生徒会で一緒だった彼女の思い出が駆け巡った。「大人になれない」と、大人びた僕を真っ向から見据えて恨めしそうに告げた彼女の眼を。
僕はその瞬間、偶然にも答え合わせをしていたのだ。ノミの心臓の持ち主である僕が芯の強そうな彼女の物言いに少しも動じなかった訳は、僕が彼女を下に見ていたからだ。いや、それよりももっと──僕が内藤に対して抱いていたように──憐れんでいたからだ。加えて、とても鬱陶しかった。小さな羽虫が僕の歩調を阻めもしないくせにただ周りを飛び交っているかのようだった。
憧れと憎しみは表裏一体だ。だからこそ、人間に散々いびられてきた僕が斜に構えるようになったことは理にかなっているし、生徒会の彼女は不明だけれど、曰くあんな仕打ちを受けてきた内藤があらゆる綺麗事に汚濁を擦り付けながらも自らの世界の浄化を願っていることだって、そういう意味では理にかなっている。
そのうえで、内藤はあの瞬間、大人であれる僕に憧れたのだ。それが今や完全なる過去となって、諦め癖のある僕の未来を案じている。たった一人の女の登場によって僕たちの不健全かつ純情なパワーバランスが崩れてしまったせいだ。後はただ緩やかなる瓦解を待つだけなのかもしれない。或いは……僕が僕の人生哲学を破壊して、新たに創造すべきかもしれない。
「なあ、井崎の家族についての話を、俺は一度も聞かされたことがないんだが……」
時は現在。数年前と少しも変わりない陰険そうな眼に未だかつてない煌めきをさながら凶器のごとく忍ばせている内藤は、僕の解答のために余白を残した。僕はその余白を言葉で埋めたし、かつての僕からははなまるすら貰えたけれど、隣の男の反応から察するに、きっと良ろしくなかったのだろう。しかしもう取り返しはつかない。きっと、何もかもだ。
僕は言った。
「確かに、反出生主義者らしいことを口にする奴は往々にして自分の家庭環境に思うところがあるんだろうけどね。それとこれとは全く別に、僕が打ち明けなければならないことなんて何一つ無いよ」
人間という生き物にはリズムがある。それは感情の起伏という言葉にも置き換えられるけれど、要するにその〝リズム〟が合う人間を人々は運命の人だと認識するのかもしれない。もしもそうならば僕と内藤は間違いなくそれに値しなかったし、内藤の彼女がそれに値するのであれば、僕は速やかにこの居場所から去るべきだと思った。
〝人と人とのコミュニケーションの本質は傷つけ合い。〟みんなが大好きな国民的アニメーション映画作品の巨匠が言っていた。僕も彼の人が描き出した冒険活劇に胸を震わされていた子供の一人だったので、高校生になってからその文言を目にした時は少なからずショックを受けた。空想の世界のキャラクターでさえも僕を置き去りにしてしまったかのように感じられたからだ。
僕は人と傷つけ合ってまでコミュニケーションを計ろうとは思わない。だからたぶん内藤の言うように〝一度はセックスをしなければならない〟ほどセックスに向いていない人間なのだろうし、ということは生殖にも無縁、とまではいけないけれども縁遠い雄なのだろう。少子高齢化社会においての役立たずであり、振るい落とされて然るべき存在なのかもしれない。ただし、性に奔放であった母が招いた数々の厄災を思い返す限り、僕は僕のことを惨めだとは感じられなかった。
「また飲もう。今日はこれから約束がある」
内藤は席を立った。その言葉が噓であるかどうかはどうでもよかった。内藤がこの状況を解消したがっていることは明白だったし、僕にとってはそれだけでもうこれ以上自分自身を嫌わないために行動する言い訳になり得たからだ。
僕はまた独りになった。そうならなければいけなかった。僕はタフなので、誰もそんなことを望んでいなくとも独りで生きていってしまえる。しかし、いったい何のために? かつての同胞はそれを〝運命の人と共にいるためだ〟と答えたけれど、僕は本当の大人として日銭を稼ぐようになってもまだ曖昧なまま、世界を必死に憎み続ける少年の側から離れられずにいた。
それも、再び彼女と相見えるまでの話だった。