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井崎の場合:02



 僕は東京へ出向いて、そのまま雑魚みたいにうじゃうじゃいる大学生の群れに混ざった。

 中学生を卒業させられる間際のことだ。「高校ではみんな今ほど周りに関心を抱かなくなるよ。(だから君が気にしている悪ふざけについては大丈夫)」という言葉が真っ赤な噓だったときとは違って、大学生は本当に自分の益にならない人たちに対しては消極的だった。他人の立場を見下げても自分の価値が上がる訳ではないのにと()()()()を心底軽蔑していた僕にとって、それは非常に祝福すべきことだった。僕は毎日を岩屋の中の(かわず)のようにじっと、誰の邪魔にもならないように過ごせていた。

 そんな中でも唯一僕と親交があったのは同じ理学部に所属する内藤という男で、それまでの人間関係で良い思いをしてこなかったのか何なのか、内藤は他者との交流に際して積極性をみせる人間を異常に警戒していた。

 内藤の口癖は「~に決まってる」だった。彼は攻撃こそ最大の防御とでも言わんばかりに、ありとあらゆる人間を(あらかじ)め侮蔑しておくことに努めていた。曰く──もしも向こうからこちらの尊厳を傷つけてくるようなことがあったとしても、あんな愚図で不細工で馬鹿で要領が悪くて性格の悪い下衆な奴がねぇって、気にも留めないでいられるだろう? ──内藤は過去の呪いに囚われるあまり、過去に呪われた自分をも憎んでいた。同じ轍は二度と踏みまいとするあまり、執拗に他者を踏みにじろうとしていた。

 僕の中で一番印象に残っている内藤の言葉は──自分が呪われないために他者を呪っておくんだ。俺が失望しなきゃならないほどに世界は美しくないと言い聞かせておくんだ。他人は地獄。昔の哲学者が言ってたが、本当、その通りなんだよ。──僕はわざとらしく小首を傾げながら、そのじつ、この世で最初に「他人は地獄だ」と言った人間に酷いシンパシーを覚えていた。

 悪意とは、人間が生み出したこの世で最も厄介な伝染病であるとは、どこぞの誰が残した言葉だっただろう。とにかく、僕は人の悪意が生み出した()()()()のすぐ近くにいて、自分の空虚さに日々自失していた。

 内藤が僕を彼の狭くてじめじめした岩屋に閉じ込めたのは、如何にも偉そうに他人様の後ろ暗い領域を叩いている自分が一人ぼっちだったとしたらまるで格好がつかなくなる、それを回避するために必要なハリボテがたまたま温厚そうな僕だったという、たぶんその一点のみなのだろうけれど、それでも一切芯を喰うような発言をしない僕と一年以上親交を持つようになってから、一つ、内藤の姿勢の中で変わったことがあった。インターネットで堆積している誹謗中傷のコピペさながらなお喋りだけではない、内藤にとっての深刻な悩み事や、望ましいばかりではない現状の打開策など、それまでにないくらい真剣味を帯びた言葉を無遠慮な信頼と共にぶつけてくるようになったのだ。僕も僕で時折り根負けして、自分でも驚くような物言いをすることがあった。

 ある晩夏の夕暮れ時、大学の近くにあるうらぶれた公園でジンジャーエールの空き缶を弄びながら、内藤が言った。

「世の中で有識者ぶってる奴なんかみんな噓つき野郎だと思わないか? 何処でどんなことが何を原因に起きたかなんて教科書でも見りゃ分かることだ。結局な、自分以外の人間はどうなったっていいとぶっこむことのできない腰抜け共が、知識を盾にして自分の核心を庇ってるんだ。そんな噓つき野郎共に投影ばかりがお得意の無能共が称賛の声を送ってる様を目の当たりにすると、ハレルヤ~って、ふざけて叫びたくもなるよ」

「それって、結局どういうことなんだい」

「俺が異常なんじゃないかってたまに思えてくるよ。何に対しても関心が湧かない時があるんだ。悲劇にも、喜劇にも、(むご)いことにも、綺麗なことにも。頭がからっぽなんだ。それでも時々、そういうことにちゃんと呼応している奴らを見ると、途端に頭が悪意で詰まりやがる。それってつまり……どういうことなんだ?」

「たぶん、内藤は自分のことを惨めに感じてるんでしょう」

「俺が? なぜ?」

「みんなと違うことが間違いだと考えてるんじゃないか。それで、そもそもみんなと違う風に俺を作り上げたのはお前らでもあるぞって、(いきどお)るんでしょう」

 僕は内藤の喋り方をまどろっこしいと常々感じていたので、十中八九、途中で要点だけを言い直すように要求した。僕にとってはただ物事を簡潔に処理するためのそれが、内藤にとっては不躾どころかとても真摯な対応に思えたらしかった。

「結局どういうことなんだって、ありがたい言葉だよな。井崎は俺と本音で話そうとしてくれてるんだろう。曖昧な言葉ばっかりで相手に察してもらおうとする俺みたいな奴はそうやって喝を入れてもらわないと、死ぬまでただの陰険な奴だ」

 またある時には、こんなことも言われた。あれは確か、内藤がSNSで知り合った女の子にベタ惚れして、好意を伝えるか否かの袋小路に入ったところだった。

 言い訳がましくたらればを並べ立てる内藤を傍で眺めながら僕が察知していたのは、またも彼に纏わる呪いのことだった。以前散々〝本名も知らない会ったこともない生い立ちもなにもどう誤魔化しているか分かったもんじゃない相手と色恋沙汰に興じるなんて馬鹿馬鹿しい。人間の性愛の失墜だ。〟などとまくし立てていた自分自身の言葉に囚われて欲求のままに動けなくなっている内藤を、僕は解放してやったほうがいいのか否か、ちょっと本気で迷ってしまったのだった。

 内藤行きつけのタイ料理専門店でトムヤムクンを(すす)りながら、僕はそっぽを向きつつも袖を引いてくるような言葉たちをテキトーな相槌でいなし続けていた。

 やがて、舌を辛味成分にやられたおかげで気もそぞろになってきた頃、僕は木製のスプーンを鍋にくるくると泳がせながら、つと、彼女のことを思い出した。

「……結構いいと思うんだよ。何度か電話で話もしたしさ、今度一緒にどっか出向いてみるのもいいかなって……デートって言い方されてんのが引っかかるけどな。なんていうか、あざとい感じがしないか」

「内藤ってさ、今までの人生の中で一度も、なりたくないものになったことがなかったかい」

「なんだよ。急にまともな文章喋りだしたかと思ったら」

「いや……」

 くるくる、くるくる。スープの表面に浮いている金色の油がきらきらと光る。

 火花のように散っていた彼女の眼光を、僕は今朝方の夢のように思い出していた。あの後の彼女の台詞はなんだっただろう。大人になれない? 大人になりたくない? どちらだったかを思い出せないのは、あの時、彼女は僕をとても羨んでいるようだったし、同時に、なぜか酷く苛立っているようでもあって……くるくる、くるくる……。

「僕は子供の頃、色んななりたくないものがあった。けれどそういうものに、今の僕はなっている気がする。でもだからといって、僕は子供の頃の僕を否定するつもりはないし、今の僕を変えようとも思わない」

 彼女は我慢することを妥協だと言った。永遠に嫌なことが続くことへの妥協。僕はそのとき、永遠に続くことなんかないと言い返した。

 僕はお冷の結露を指で潰しながら考えた。生きている限り、僕は僕のなりたくない僕になっていくだろう。それがこの世界に生まれた僕らの宿命だからだ。〝死にたい〟ということは、やはり〝生きたくない〟ということなんだろうと思いを巡らせる。僕らは必然的に寿命の重要さを実感しているのだ。永遠に続くことなんかない。そう言い聞かせることでようやく、僕らは僕らを殺さない程度に憎むことができる。

 目の前でぐずぐずと過去の理想に囚われている──否、縋りついている内藤は、彼女の眼光に囚われている僕の眼には駄々をこねる子供のように映った。いっそ嫌悪できたら楽だったのに、僕はどうにもその姿を見下げることができなかった。

 内藤は固唾を飲んだ様子で次の言葉を待っていた。お決まりの「~に決まってる」節の反論が喉元まで出かかっていることを察しながら、僕は言った。

「誰もが自分のなりたくないものになっていくんだよ。それで、自分本位に自分の味方をしてやるんだ。そうじゃないと、いずれ自分を壊したくなってしまうから」

「本当に、誰もがなってしまうものなのか?」

「たぶんね。なりたいものにはなれないからこそ憧れるんだ。だから内藤もいい加減、諦めたほうがいいんだよ」

「何をだ?」

「なりたくもない大人になってしまうことを」

「……お前のその老人風情の諦観はなんなんだろうな。過去に余程の挫折があったと見えるが、実際のところはどうなんだ?」

 僕は黙った。「ああ、秘密主義でもあるもんな、お前は」と内藤は言ったけれど、そんなんじゃなかった。ただ単に思い浮かばないだけだったのだ。それもそのはず、挫折とは物事に真っ向からぶつからないと生じない。怠惰な僕にそんなスポ根的な経験は思い当たらなかった。


 けれども確かに、いつから僕はこんな僕になったのだろうという疑問はたちまちに浮上した。みんなと一緒にサンタクロースを信じていた頃の僕は、一体いつから神すらも信じない僕になったのだろう。

 起伏のない僕の人生史上稀に観測できる変化といったら、やはり名字が変わったことだろうか。

 僕は計2人の父親だった男たちを知っている。曰く、1人目の父親と円満で別れたらしい母親が──ある秋の晩、見知らぬ男を連れ込んできた。

 母子2人だけの住処に連れ込まれてきたのは肌を三日月の晩の狼男のように艶艶ふさふさとさせた屈強そうな男で、当時小学校低学年だった僕にとっては語るだけでカッコイイ職業の一つである消防士を夢ではない現実として日々体現しているらしかった。

 一見虚弱そうではあるけれどもそのじつ滅多に体調を崩したことのない僕は、家ぐるみで母と男が癒着する間際の数日間、原因不明の高熱に浮かされていた。

 快適な眠りに落ちる間もないままに湿っていく布団からようやく自力で立ち上がれる程度には回復してきた晩のこと、僕は僕の看病のために時間を費やさせてしまった母に申し訳なさと、愛慕と、子供ながらの我儘な欲求を抱いていた。

 もうずっとこのまま熱に浮かされていいし、子供と2人きりだと体力を使うわとなんの(てら)いも無く言ってのける母の負担にならないためにはさっさと小学校へ通えるようにならなければいけないと考えてもいた。僕は仕事から帰ってくる母を良い子と悪い子との振り子のようになりながら今か今かと待望し続け、いざ母が大きな2つの買い物袋を引っ提げて帰ってきたときには、若干、悪い子側の方に振られていた。

 母がキッチンに面する横長の窓を開けて、新鮮な空気を取り入れた。そよ風と一緒に鈴虫の合唱やら自動車の音やらがどろどろと流れ込んでくる。僕は広大な外の世界からまたも帰ってきてくれた母の背中を見つめながら、せめてこの熱が失せてしまわない限りはずっと側にいてほしい、と、うっかり(こいねが)ってしまった。

 母が買い物袋から取り出したのは葡萄だった。僕は毒の実のように黒々とした皮を母の真っ白い指が剥いて、中から透明な薄緑の玉が出てくるところを眺めるのが好きだった。その晩もいつもと同じように、僕はときめきながら、母の濡れそぼった手のひらから美しい薄緑の玉が露わになるところを眺めていた。

 2つ、3つと剝き終えた頃だろうか。母が突然「もう一人でできるわね」と言って、手を拭った。それから僕の高熱で潤んだ瞳を見やると、白々しい──母に対してそんな感想を抱いたのは初めてだった──笑みを浮かべて「もうだいぶ回復したようでよかった」と、「これからお母さんはちょっと用事があって外に出るから、自分で皮を剥いて葡萄を食べて、歯を磨いて寝てなさい」と、あくまで母親らしいことを言った。

 僕はすぐにあの男が母をかっさらってしまうんだと察して、けれども引き留めることなんてできずに、ただ無言で頷いた。

 母がおめかしもなしに出て行こうとする間際のことだ。僕は確か「今日は満月?」と訊いた。母が「ああ確かそんなようだったわね」と言うと、僕は「満月だったら狼男がどこかに出るかもしれないね、食べられないように気をつけて」と、今思えば小学校低学年らしくない、暗喩めいた忠告をしたのだった。母はやや訝しんだように「酔っ払いの運転する車や、通り魔のほうがよっぽど危ないわよ」と言い置いた後、さながら逃げ帰るかのようにさっさと出て行ってしまった。

 僕の許には小さな食卓の上に並べられた皿たちと、まだたくさんの実をつけている葡萄が残った。たわわな毒を薄青く光らせながら鎮座している葡萄──母の真っ白い指には剥かれないので、もうあの美しい薄緑の玉を露わにすることもない──そのときの僕には、ぽつんと取り残されたそいつを受け入れる気など無かった。

 僕は、ふっと思いついて、葡萄をビニール袋に入れ直した。そして初めて、あんな深い夜に一人ぽっちで外へ出て、電灯が明滅するアパートの廊下を歩いていった。やがて105号室の前に辿り着くと、えいやっとインターフォンを押した。

 大きな槌で床を打っているかのような足音がして、ガチャリ、と、中から狼男が──母が(うつつ)を抜かしている消防士の男を膨張させたような、月明かりの夜空をちぎって固めたような──タンクトップ一枚しか被せていない上半身を薄っすらと青く照り輝かせている黒人が、大きな二つの目玉をパチクリしながら現れた。

 彼はアパートの住民で、当時、ご近所の間で不当に悪党扱いされていた。色々と詳細不明な情報が多く、見た目が強者然とし過ぎていて、そのくせ日本語の扱いもまだまだ未熟だったため、出すゴミが毎度毎度異様に臭いとか、平日なのによく家にいるとか、行くところまで行くと、カラスの死体が今週だけで二つも見つかったのは、恐らくあのクロンボが関係しているんだろうとか……ジャパニーズモンキーが目ざとくも見つけ出す(あら)だらけで、内藤の体現してくれたように、警戒心から生み出される呪いを執拗に喰らい続けていた。

 僕は父親を失わされたことでご近所各所から下世話な憐れみを貰っていた時期に、それまではなんとも思っていなかった彼のことを急速に仲間だと感じるようになっていた。母からは「あんたなんか一捻りなんだから近づいちゃダメよ」と散々言い聞かされていたけれど、ある日、電車の座席で居心地悪そうに肩を縮めている彼を見つけたとき、咄嗟に、僕は両隣の空席目がけて駆け込んでいたのだった。

 彼はそのとき、まだ純真無垢な子供の行動に心を打たれたようだった。愚鈍な子供を装って車窓の外を覗き込んでいる僕に、一瞬だけ、あたたかい眼差しと真っ白い歯を向けた。僕はその後、車両内では同じアパートの住人であるということがバレないようにと努めてばかりいた母に叱られて、それでもなお、内心は誇らしい気持ちでいられたのだ。

 僕が病み上がりの状態で母に捨て置かれたあのとき、いったいどうして彼に葡萄をあげようと思い至ったのかは分からない。それは言語化できない感情だ。ただ、僕は外の世界に何かしら反逆したかった。それでもこんな非力な体で何ができるんだと自問した結果なのだ。

 お前たちのほうが間違っているんだと叫びたかった。だけれど僕の咽喉は既にやられていて、目の淵も鼻の奥も同じように熱くなっていた。僕は、きっとこれが毒の実を食べた影響なのだろうと思い込むことにした。

 思いがけぬ来訪者に動揺したのだろう。彼は少しの間、言葉の切れ端ばかりを分厚い口元から漏らしていた。それから、なるたけ怯えさせないための配慮なのだろうか、それまで真っ暗だった玄関の照明を点けて「なんデスカ?」とハンズアップした。僕は彼の黒い肌から冷気を感知して、今すぐにでも熱い全身を張りつけたいと思いながら「あげる」と、葡萄の入ったビニール袋を差し出した。

 彼は最初、なにがなんだか見当もついていないようだった。けれど、頑なにビニール袋を差し出し続ける僕を見下ろし続けて……それが日本のご近所文化で言うところの〝おすそわけ〟だと、察しつつあった。

 僕の手からおずおずと〝おすそわけ〟を貰い受ける彼の黒い手は、やはり冷たかった。

「アリカ()トウゴザ()マス」

 彼は小さくお辞儀した。僕があのとき車窓の外を覗き込んでいた子供だとは気づいていないようだった。

 彼が本当に悪党かどうかは誰にも分からない。もしかしたら本当にカラス殺しの犯人かもしれないし、夜な夜な子供を一捻りにしてどこかしら悪い所に売り飛ばしているかもしれない。もしかしたら母は今頃、狼男に食べられているかもしれない。もう二度と僕の許には帰らないかもしれない。もしかしたらずっと、僕は失うかもしれない。僕自身の力の及ばないところで失うかもしれない。こんなに辛くて苦しいことが、ずっと続くかもしれない。

 そうして、僕は考えることを止めた。

 人と人が会話するのは、お互いに分かり合うためだ。先生は道徳の授業でそう説いていたけれど、僕はずっと納得していなかった。いいですか、みなさん。言葉は羽です。いいや、違う。言葉は壁だ。いかに自分の気持ちを隠せるか。いかに相手の気持ちを防げるか。

 もしも本当の気持ちを伝え合うことが清いことなら、僕は醜いままでもいい。いいから、失望したくなかった。

 そうして、僕は齢6歳か7歳にして、この世で生きる術を無数の選択肢の中から選択した。〝良いところにだけ目を向ければいい。都合の悪いことには目を瞑ればいい。〟たとえその生き方が破綻していて、いつかは絶対に訪れる困難に打ち勝てるだけの力を(つちか)えないのだとしても、その時はその時でいい。ただ、腐ったように柔らかくて甘い安寧に脳を包んで生きていたい。

 何を働きかけていなくとも、たくさん傷つけられてきた。それが僕の宿命であるのなら、僕ができることなんていうのはせいぜい、努めて愚鈍になることくらいじゃないだろうか。

 そうして僕は愚鈍の子供として、天性の愚鈍であるらしい母親と、それが見初めた新しい父親と一緒に生活することとなった。思い出なんてほとんど何一つこの肉体に残っていない。ただ僕は生き延びてなお生き延びてまだ生き延びているだけだ。心臓が止まっていないこと、呼吸が浅いこと、空しいこと、それに気づくことができるのは悪い夢から目覚めた時だけだ。

 内藤は僕よりもよほど(むご)い呪いを喰らっているらしいのに、まだこの世界に失望していた。文句を言うということは期待していたことの裏返しでもあるだろう。キラキラ、キラキラ……僕を取り巻く世界の眩さが、朝方の空気のように冷たくて希薄な僕の心をいたずらに焦がしていく。

 内藤はこの世のすべてを見透かしたようなことを言いながら、そのじつ、何も分かっていない。僕からしたら、内藤が毛嫌いしている人々と同じように、ただ()()()()()()()()()()()()()だ。〝本音で話そうとしてくれてありがとう〟〝真剣に向き合ってくれている〟……僕の言葉に感化されたらしく神妙に呟いている内藤を、僕はさながら墓石のような心持ちで眺めていた。

 人に対して真剣な奴ほど本音で話そうとしないものだ。相手の不理解によって与えられる傷がどれほどのものか知っている人は、そう安易に核心を突こうとはしない。僕がやっていることは、内藤がやっていることと似ている。違うのは、関心の度合いくらいだろうか。

 僕は期待していない。内藤が僕の言葉に感化されてその通りに行動することを。どころか諦めてくれることを願っている。或いは挫折してくれることを願っている。真剣に気持ちを伝えようとしたその先に自分の力ではどうにもならないどん詰まりが待ち受けていることを知ってほしい。思い知らせてやりたいのだ。

 僕も結局、過去の呪いに囚われていた。僕と内藤は似た者同士なのだ。僕は内藤にあのときの僕の姿を重ねていた。そうして、あのときの選択は間違いではなかったと納得したかった。それは、内藤が僕と同じように停滞してくれることでしか叶わなかった。



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