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国虎の楽隠居への野望・十七ヶ国版  作者: カバタ山
七章 鞆の浦幕府の誕生
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鉛白と軽粉と白粉と

 弘治二年 (一五五六年)も半ばを過ぎると西国情勢は幾分落ち着いてくる。


 まず当家が派遣した軍は備後(びんご)国・安芸(あき)国の反抗的な豪族を討伐し終わり、無事接収を完了した。大将となった足利 義栄(あしかが よしひで)吉良 茂辰(きら しげたつ)の両名は、そのまま国主の任に就いて統治を開始する。


 両国共に隣には出雲尼子(いずもあまご)家という強大な敵を抱える地だ。だからこそ逆に統治の難度は低くなる。明確な敵が存在するため、家臣団は一つに纏まりやすい。善政を行っていれば、民も力を貸してくれる心強い味方となる。


 こういった時に利用できる物は何でも利用するのが、統治を行う上での鉄則だ。


 さてそんな敵対勢力の出雲尼子家は、予想通りに山吹(やまぶき)城を落として石見銀山(いわみぎんざん)を手にしていた。莫大な軍資金を手にした事で、今後は出雲尼子家の軍事行動がより活発となるのを覚悟しなければならないだろう。


 ただ、ここらで当主尼子 晴久(あまご はるひさ)の伸び切った鼻を、一度折っておくには良い機会でもあった。


 念願の石見銀山を領有したとなれば、現在の出雲尼子家は調子付いて足元が疎かになっている可能性が高い。ならば、出雲尼子領国内を荒らすゲリラ活動が成功し易いのではないか? しかも当家には、尼子 敬久(あまご たかひさ)率いる大新宮(ダイシングー)という出雲尼子領国に詳しい適任者もいる。


 ゲリラ活動と言っても、そう派手な行動はしなくとも良い。例えば城の警備兵を襲うなり、町の武家屋敷を襲うといった嫌がらせ程度だ。賊と大差無いが、こういった活動はボディブローのようにじわじわと効く。出雲尼子家の大規模な軍事行動を多少でも抑制できればしめたものだ。


 逆に言えば、現在の大新宮には決定力を期待していない。あくまでも神出鬼没に現れる後方攪乱という位置付けである。


 もう一つの中国地方の戦いとも言える周防大内(すおうおおうち)家の内乱は、とんでもない状況になっていた。あろう事か身内の周防大内家家臣同士で全面衝突し、本拠地のある山口(やまぐち)の町を炎上させたという。


 当主の大内 義長(おおうち よしなが)は無事であるものの、これは大寧寺(たいねいじ)の変で周防大内家の居館が焼かれたのに続く痛恨事だ。何故こうなる前に止められなかったのかが、俺には分からなかった。


 こうなれば周防大内家はもう終わりである。例え内乱が収まったとしても、ここからの復活は最早無理だ。ならいっそ、武士の情けとして当家が止めを刺すのが周防大内家のためになるのではないか? 特に周防国に生きる民の生活を考えれば、当家の勢力圏に置いて復興を行うのが早道ではないだろうか?


 そんな思いで俺は、周防・長門(ながと)の両国への侵攻を来年行うと決める。


 幸いにも俺の義理の息子である足利 義栄(あしかが よしひで)大内 義隆(おおうち よしたか)殿の甥に当たる。周防大内家の領国に侵攻する大義名分としては十分な存在であった。足利の名と大内の血。この二つがあれば、占領も容易いだろう。


 何かが間違っているような気がしつつも、もうこれ以上周防大内家の凋落を見たくはないというのが正直な気持ちであった。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



「ボウズ、急に呼び出して何があった」


算長(かずなが)、一つ頼まれてくれるか? 九州の肥前(ひぜん)国へ援軍に行って欲しい」


 今度は九州情勢となる。


 斯波 元氏(しば もとうじ)率いる薩摩(さつま)大隅(おおすみ)勢は第一の目標である天草(あまくさ)諸島では快進撃を続けたものの、次の目標である九州北西部の肥前(ひぜん)国に上陸した途端にその侵攻速度を大きく鈍らす。これは、現地勢力による激しい抵抗に合ったためであった。


 何とか肥前国南部の切り取りには成功したものの、この時点で結構な数の兵を目減りさせてしまったらしい。このままでは肥前国の制圧が中途半端になると判断したのだろう。そこで、俺に対して援軍を要請してきた。


「なるほどね。功を焦らず素直に援軍を頼めるのは中々冷静だと言いたい所だが、四国から援軍を出すには距離的にちと遠くないか? 到着までに結構な時が掛かるぞ」


「それは俺も同感だ。ただこの辺が斯波 元氏の周到さだと思うんだが、当面は南肥後(ひご)津野 越前(つのえちぜん)日向(ひゅうが)国南部の畠山 晴満(はたけやま はるみつ)に出してもらう兵で凌ぐらしい。つまり、四国から派遣する援軍は後詰というか最終手段になるな。今ある兵で肥前国制圧が上手く行けば、出番は無くなる」


「なら納得だ。そこまでの激戦地なら、後詰は俺達根来でないと駄目だと考えるボウズも良く分かってる。良いぜ。俺達が行ってやるから、船を準備しておけよ」


「それなんだがな、実は算長を呼んだのはもう一つの狙いがある」


「それは何だ?」


「算長には根来衆のためにも、もう少し力を持ってもらう良い頃合いだと思ってな。算長嫡男の津田 算正(つだ かずまさ)を肥前国の国主に任命するつもりだ。それと同時に津田 算正には、当家で保護している渋川 義基(しぶかわ よしもと)様の養子に入ってもらい、渋川 算正と名を変えて九州探題家の家督を継承してもらう」


 加えて土佐津田家自体の家督は、当家に出向している次男の専光寺 照算せんこうじしょうさんを出戻りさせて継がせる予定だ。専光寺 照算は津田 算長達と共に肥前に赴き、肥前渋川家の一族兼重臣となる。長らく共に戦ってきた専光寺 照算が当家から去るのは寂しく感じるものの、土佐津田家存続には必要な措置と言えよう。


「はぁ? 何だそりゃ? ボウズ、いきなり何を言うかと思えば、俺の息子に御三家の家督を継承しろだ? あり得ないだろ。馬鹿も休み休み言え」


「いや、これは冗談で言っている訳ではない。以前から考えを温めていた。尾州畠山(びしゅうはたけやま)家の当主を元三好(みよし)宗家の嫡男が継いだ以上は、尾州畠山家と同盟関係である根来寺は大きく力を落とすぞ」


「あっ……」


 尾州畠山家と根来寺との関係は細川 政元(ほそかわ まさもと)が管領であった頃より続いている。当初の目的は管領 細川 政元から和泉(いずみ)国の寺領を守るために協力者を求めたものであり、現在はその対象が三好宗家へと変化していた。


 しかしながら、同盟者の尾州畠山家が三好宗家の手に落ちたとなれば、根来寺は大きな岐路に立たされる。最早尾州畠山家の支援は期待できない。三好宗家と対立するなら根来寺単独で争う形となる。これでは寺領は守り切れないだろう。


 かと言って三好宗家と和睦をしようにも、どの道寺領が奪われるのは見えている。どちらにしても根来寺の力が削がれるのは確定だ。


 現状の俺では、表立って根来寺に対しての支援はできない。理由は当家と三好宗家との間の共通の敵である細川 晴元(ほそかわ はるもと)が健在だからだ。ここで三好宗家の足を引っ張る訳にはいかない。加えて三好宗家は、細川京兆(けいちょう)家 (本家)当主細川 氏綱(ほそかわ うじつな)殿の身柄を押さえている。余計な真似をすれば、細川 氏綱殿の誤解を招いてしまう恐れがある。


 ならこの局面での選択は、根来寺に何かが起きても良いように関係者の津田 算長に力を持たせておく一択だ。そうすれば根来寺の行人(ぎょうにん) (僧兵)達が行き場を失ったとしても、その受け皿となれる。


 ここで重要なのは、御三家の一つ渋川家の家督を津田 算長の息子に引き継がせる点だ。


 有名無実とは言え、渋川家の家格は高い。それはもう三管領家である畠山家より上という具合だ。当家で根来寺関係者を匿った場合は三好宗家や尾州畠山家から難癖を付けられるのが見えていても、渋川家相手では厳しい追及はまずできない。丁度細川 氏綱殿を長年畠山 稙長(はたけやま たねなが)殿が匿っているのを細川 晴元が見逃していたように、家格の高さは他家からの干渉を低く抑える効果を持つ。権威というのはこういった時凄く便利である。


 また、領地が畿内から遠く離れた九州の肥前国というのも大きい。これなら三好宗家も余計な手出しはできないだろう。


 南肥後の時と同じく斯波 元氏には領土欲が無いために、援軍には肥前国主内定者を送って欲しいとした要望を存分に活用させてもらおうというのが今回の策であった。


 また今回も前回の石橋家の時と同様、渋川 義基様には家を継ぐ後継者がいないというのも、策を使うには十分な前提があったのは言うまでもない。豊後大友(ぶんごおおとも)家への嫌がらせとして保護した人物を、このような活用できるとは夢にも思わなかった。


「後、肥前国には平戸(ひらど)があるからな。倭寇の親玉 王直(おうちょく)の本拠地であり、キリスト教勢の日の本の本拠地とも言えるこの地と上手く付き合えるのは、俺の家臣では算長以外は無理だ」


「ほぉ。さすがはボウズ、俺の事を良く分かっているじゃないか。そこまで言われたら、俺も断れねぇな」


 更に肥前国には海外勢の拠点があるという事情もある。それもとてつもなく厄介な存在だ。王直は言うに及ばず、キリスト教との上手い付き合いを考えるなら、商売人気質の人材が必要となる。もし感情が先立つ者が担当者となれば、掌の上で良いように転がされるか、決別して争うかのどちらかになってしまうだろう。それでは利益を得られない。


 彼等と付かず離れず商いとして割り切った付き合いをしなければならないというなら、海外との交易経験のある津田 算長が適任と言えた。史実であった仏教信仰の禁止や寺社の破壊といった過激な行動は、これで未然に防げるのではないかと考える。


「面倒事を押し付けるようで多少気が咎めるが、その分実入りも大きい地だからな。何より佐賀平野という穀倉地帯を抱えているのが大きい。……と、そう言えば焼き物もあるのか。確か有田(ありた)地域に磁器の元になる陶石がある筈だ。明か朝鮮の陶工を呼べるよう王直に頼んだらどうだ。あっ、その時は土佐にも陶工を何人か回してくれよ」


「それは本当か! ボウズ!」


「近い近い。こういうのは他国には伝わらなくとも、地元では知られているというのは結構あるぞ。珍しい白い土があるんだとさ。で、その使い道は分からないと。当家にも備前(びぜん)宇喜多 直家(うきた なおいえ)から陶石は何度か持ち込まれているんだが、如何せん磁器にまでは手が回らなくてな。専ら白粉(おしろい)の素材に使っている」


「……ボウズの所の白粉に磁器の土が使われているとは思わなかったぞ」


「この事業は最近明から流れてくるようになった安物への対策だから、そう力を入れている訳じゃないぞ。算長のお陰で亜鉛も手に入るようになったしな。堺への嫌がらせの一つと考えてくれ。高級品の伊勢(いせ)白粉と争う気は無いな」


 この時代の化粧品である白粉は、畿内から近い伊勢国で作られた物が主流と言って良い。主成分は軽粉(けいふん)と呼ばれる水銀由来によるものだ。その質の高さで御所の女官にも愛用され、 御所白粉とも呼ばれるようなっていた。


 だがその価格の高さが仇となったのか、最近は堺で価格の安い白粉が売られるようになる。その中身は鉛白と呼ばれる鉛由来の代物だ。


 さすがにこれを放置する訳にはいかない。


 鉛白が主成分の白粉は化粧ノリこそ良いものの、鉛中毒によって死に導く危険な存在と言えよう。片や伊勢白粉も主成分が塩化水銀であるため、元現代人の感覚から見れば危険なように見える。


 しかし伊勢白粉は人体への危険性は低い。皆無とは言えないが、この時代の基準であれば安心安全の域だ。現代的な感覚は厳し過ぎるというのが実情である。


 その証拠に、軽粉は一度日の本から鉛白を駆逐した。実は大陸からの白粉伝播は鉛白が先である。だというのに後から入ってきた、しかも水銀という高級素材を主とした白粉が市場を席捲したのだ。これだけ見ても、軽粉は人体への影響が低いというのが分かるだろう。勿論、伊勢国には有力な水銀鉱山があったというのも、伊勢白粉が天下を取った理由の一つに挙げられる。


 つまり俺が津田 算長に言った「安物対策」というのは、あくまで鉛中毒を引き起こす鉛白主成分の白粉を狙い撃ちしたものだ。安物にはより安物を。既にブランドの確立した伊勢白粉とは同じ土俵の上には立つつもりはないために、棲み分けができるという判断で製作した商品であった。


「片手間でする事かよ、それが。ボウズと話していると、時々頭がおかしくなりそうになるな」


「当家では現状、陶器を作るのに集中しているからな。それもこれも土佐では、俺が職人を招くまで土器 (窯を使わず野焼きで作った器等の総称)が一般的だったんだぞ。阿波(あわ)国でも陶器作りはされていなかったしな。だからな、職人そのものを呼ばないと磁器は作れそうにない」


「ボウズ、それは紀伊(きい)でも似たようなものだぞ。無理に陶器に拘る必要はないんじゃないか?」


「土器だとすぐ壊れる。それでは不便だからな。まずは民にきちんとした陶器を使ってもらおうと思って普及させている」


「壊れたらまた新しいのを手に入れれば……と思ったが、それだと結果的に高く付くと言いたいのか。ボウズらしい考えだな」

 

「そういう事だ。俺は民の暮らしを少しでも楽にしたいからな。……と話が逸れたか。そういった訳で、肥前国の統治は遣り甲斐があるから頑張ってくれ」


 こうして津田 算長以下の土佐津田家の肥前国赴任が決まる。津田 算長は領地の統治には何の関心も見せていなかったが、倭寇やキリスト教との駆け引きを楽しみにしているのが傍から見て手に取るように分かった。


 義弟の敵討ちという名目で当家の家臣になったは良いものの、津田 算長の本質は商売人である。軍事訓練に明け暮れる日々はどこか退屈であったのだろう。俺にはそう感じていた。


 しかしこれからは違う。きっと水を得た魚のように商いに邁進するのは確実だ。しかも肥前国は博多の町に近い。それがまた津田 算長を喜ばすに違いない。


「算長、分かっていると思うが、領地開発もしっかりやれよ」


「おうよ。佐賀平野を今より米の取れる地にして、がっぽり儲けてやるからな。期待しておけよ」


 ……どうやら、聞くだけ野暮なようだ。

ブックマークと評価ポイント、それといいねも頂き、誠にありがとうございました。


補足です。


酸化亜鉛を主成分とした無鉛白粉が開発されるまで、白粉は危険な物だったという認識がされがちですが、塩化水銀が主成分の伊勢白粉は人体への悪影響はかなり低かったと言われております。もし塩化水銀が人体に危険な物であったなら、無鉛白粉とならずに、無鉛無水銀白粉と呼ばれていたでしょう。


なら何故伊勢白粉が衰退したのかとなると、まず水銀鉱山の産出量が減り、次に安価な鉛白白粉に市場を奪われたというのが大きな理由です。その後紆余曲折ありながらも何とか手を変え品を変え細々と営業をしていたようですが、最終的には1953年に最後の窯元が閉鎖された模様です。その時には無鉛白粉が既に世に出ておりましたし、役割を終えたのでしょう。その後に薬事法で規制され、塩化水銀は白粉に使用できなくなりました。


なお、鉛白白粉も軽粉白粉も大陸から伝わった物です。大陸では西洋と違い、錬金術に水銀が多用されておりましたので、こうした発見に繋がったものだと思われます(水銀・鉛共にそのままでは人体に非常に良くない代物です)。

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