屋上に遺された靴
これは、放課後に校舎の掃除をしていた、ある男子生徒の話。
その日、その男子生徒が通う中学校では、
全校で掃除をする、全校清掃が行われていた。
全校清掃では、
普段は掃除をしないような校庭のトイレや屋上などを、
生徒たちが掃除をすることになっている。
その男子生徒は、屋上の掃除当番で、
掃除のために校舎の屋上に登っていた。
その中学校の校舎の屋上は見晴らしがよく、
遠くの山々や少し離れたビル街などが一望できた。
「やっぱり、うちの学校の屋上はいい眺めだな。」
その男子生徒は、屋上からの風景を堪能してから、
掃除に取り掛かることにした。
屋上のドアを拭いたり、
床のタイルの継ぎ目に溜まった汚れを落としたり、
丁寧に掃除していく。
そうしていると、
ふと、屋上の縁に何かが置かれているのに気がついた。
置かれていたのは、一足の靴だった。
古ぼけた学生靴が、
屋上の手すりを越えた向こう、屋上の縁の近くに、
綺麗に揃えて置かれていた。
「なんだ、あれ。
こんなところに靴が置いてある。
まさか、飛び降りじゃないよな。」
その男子生徒は、
屋上の手すりに掴まって、
置いてある靴の向こう、校舎の下を恐恐と覗き込んだ。
下では、他の生徒たちが掃除をしていて、
誰かが転落して騒ぎになっている、というようなことは無かった。
無事を確認して、ほっと小さな溜め息をつく。
それから手を伸ばして、
置いてあった靴を拾い上げた。
その靴は、ずいぶんと古ぼけた学生靴だった。
「これ、落とし物かな。
職員室に届けたほうがいいかな。」
その男子生徒は、
屋上の掃除を一時中断し、
拾ったその古ぼけた靴を持って、職員室へと向かった。
「屋上に、靴の落とし物だって?」
職員室に、初老の先生の声が響いた。
その男子生徒が、
屋上で拾った靴を届けるために職員室に行くと、
初老の先生が応対をしてくれた。
その初老の先生は、
屋上に靴が置いてあったと言われて、
素っ頓狂な声をあげたのだった。
周囲に座っていた数人の先生が、遠巻きに注目している。
それから初老の先生は、
少し小声になって話を続けた。
「屋上に靴が置かれていたって、本当かね。
そうか、またか。
一応、落とし物として預かっておこうか。
君、教室の空きロッカーにでも入れておいて。」
初老の先生はそう言いながら、
古ぼけた靴をその男子生徒に返した。
それを受け取って、その男子生徒は聞き返す。
「先生、
またって言いましたよね。
今までにも、屋上に靴が置かれていたことがあったんですか。」
そう尋ねられた初老の先生は、バツが悪そうな顔で応えた。
「しまった。
ついうっかり口にしてしまったのだけど、聞かれていたか。
仕方がないな。
・・・実はね。
昔、屋上から生徒が飛び降りたことがあったんだよ。
丁度、今くらいの時期だったかな。
その生徒は、
この学校の屋上からの景色がとても好きで、
よくひとりで屋上に登っていたんだ。
ところがある日、屋上から転落して亡くなったんだよ。」
「屋上から転落というと、事故ですか?
それとも・・・」
「それが、判然としないんだよ。
当時の警察も調べたんだけど、
その生徒には、飛び降りるような理由も見当たらなくてね。
屋上に靴が残されていたのと、
後になってからだが、遺書めいたものが見つかったので、
飛び降りということになっているがね。
でもその遺書は、飛び降りの後に書かれたという見方もあって。
今でもよくわかっていないんだ。
そんなこんなで一時期、
屋上への生徒の立ち入りが制限されていたこともあったんだよ。」
「生徒が屋上に入れなかった時期があったんですか。
この学校の屋上は眺めがいいのに、それは勿体ない。」
その男子生徒の言葉に、初老の先生が苦笑いを浮かべて言う。
「また同じことが起きたらいけないからね。
でも、飛び降りなら、
原因は校舎の建物ではなく、
本人の事情だろうということになってね。
それで、今ではまた、
生徒が屋上に登れるようになったんだよ。
しかし、それから、
屋上に靴が置いてあるのが、
しばしば見つかるようになったんだ。
まったく、いたずらも大概にして欲しいね。」
初老の先生の話は、段々と愚痴っぽくなってきた。
この辺りで退散したほうがよさそうだ。
その男子生徒は、ぺこりと頭を下げると、
古ぼけた靴を仕舞うために教室へ向かった。
その男子生徒が教室に行くと、
教室ではまだ他の生徒達が掃除をしていた。
その中の一人が、
その男子生徒の姿を見つけて、
口を尖らせて文句を言ってきた。
「あっ!
お前、掃除の途中で抜け出して、どこに行ってたんだよ。」
文句を言われて、
その男子生徒は手を振りながら釈明した
「いや、掃除を抜け出したわけじゃないよ。
落とし物を見つけて、職員室に持って行ってたんだ。」
説明を聞いても、生徒の文句は止まらない。
「そんなこと言って、本当はどこかで遊んでたんだろう。
いずれにせよ、サボってた分の掃除はしてもらうぞ。
屋上の掃除は、俺が代わりにやらされたんだからな。
交換として、お前には校庭のトイレの掃除を頼むよ。」
トイレ掃除と聞かされて、
今度はその男子生徒が文句を言う番だった。
「何だって、トイレ掃除?
そっちこそ、
掃除当番を交換したかっただけだろう。」
文句を言っていた生徒は、ニヤニヤと笑顔になっている。
「へへへ、とにかく頼むよ。」
どうやら、
体よくトイレ掃除を押し付けられてしまったようだ。
その男子生徒は、鼻で溜め息をついてから言った。
「仕方がないな。
よりにもよって、校庭のトイレ掃除か。
あのトイレ、いつも汚れてるから掃除が大変なんだよな。
トイレを綺麗にする代わりに、自分が汚れるのは嫌だなぁ。」
その時、その男子生徒は、
手に持っている古ぼけた靴に気がついた。
「・・・そうだ。
この靴に履き替えて掃除をしよう。
そうすれば、少なくとも靴は汚れずに済む。
古い靴だし、こっちは汚れても構わないだろう。」
そうして、その男子生徒は、
自分が履いていた学生靴を脱いで、
古ぼけた靴に履き替えようと、その靴に足を通した。
その途端。
その男子生徒の体に悪寒が走った。
体に力が入らない。
体の自由が利かない。
突然、体が自分のものでは無くなったような、そんな感じがした。
声を出すことも出来ない。
周囲にいる生徒に助けを求めようとしたが、口が動かない。
助けを求めることも出来ず、
それどころか、
足が勝手に動いて、教室を出ていこうとする。
「た、助・・・」
そうしてその男子生徒は、
誰にも異変に気付かれることもなく、
勝手に動く体に引きずられるようにして、教室を出ていってしまった。
その男子生徒は、
体を何者かに操られているかのようにして、
自分の意志とは関係なく、校内を移動していった
目だけは自由に動くので、周りの様子は見ることができた。
まさか、体がひとりでに動き出しているなどとは、
誰も思うはずもなく。
すれ違う生徒たちは、
その男子生徒の異変に気が付いていなかった。
そうしている間も、
その男子生徒の体は、勝手な動きを続けている。
廊下をステップを踏んで駆けていったり、
音楽室に入り込んでピアノを弾いたり、
校庭に飛び出て、鉄棒で逆上りをしたり。
そうして、ひとしきり堪能した後。
その男子生徒の体が向かった先、
それは、
今履いている靴を拾った、屋上だった。
その男子生徒の体は、何者かに操られたまま、
階段を駆け上がって、
屋上へと向かっていった。
金属の重たいドアを押し開けて、屋上へと出る。
屋上では夕日が傾き始めていた。
その男子生徒の体は、屋上に登っても止まらない。
給水塔によじ登ったり、
屋上の手すりから体を乗り出して、目に手をかざして遠くを眺めたり。
屋上から見える綺麗な眺めが、
今はジェットコースターから見る風景のように感じられた。
そうして、その男子生徒の体は、
古ぼけた靴が置いてあった、屋上の縁に近付いていった。
風景をより身近に感じようとでもしているのか、
手すりを越えて屋上の縁へと足が進んでいく。
そうしていて、
ようやく、異変の原因に思い当たる。
「もしかして、
体が勝手に動くようになったのは、この靴のせいか?
もしそうだとしたら、
靴が置かれていた場所に僕を連れて行って、何をするつもりなんだ。
もしかして・・・」
その男子生徒がそんなことを考えている間にも、
手すりを乗り越えた体は、屋上の縁へと進んでいく。
すぐ目の前の遥か下に、校庭が広がっている。
そうして、屋上の縁へ移動させられていた、その時。
少し離れた場所に見えるビル街の、
一際大きなビルの表面に、傾きかけた夕日が強く反射した。
その日差しに目がくらんで、視界が失われる。
視界を失って、体がぐらりと傾く。
咄嗟にその男子生徒は、
手すりを掴もうと手を伸ばした。
すると、
掴んだ手すりは、溶接の不具合なのか、
緩んでずれてしまった。
それに驚いて、掴もうと伸ばした手が滑って離れてしまった。
悪いことは重なるもので、
今度は、足元でふんばろうとした両足が、
タイルの継ぎ目に引っかかってしまった。
靴のどこかがタイルの継ぎ目に引っかかって、足を引っ張られる。
「おっとっと・・・うわっ!」
日差しに視界を奪われ、
掴まる手すりも無く、
足先がタイルに引っかかって。
その男子生徒は、3つの不幸に同時に襲われて、
前のめりに大きく転ぼうとしていた。
目の前は、
今履いている古ぼけた靴が置いてあった場所。
つまり屋上の縁だった。
すぐそこに、屋上の切れ目が広がっている。
今転んでしまったら、
屋上から下へ真っ逆さまに落ちてしまう。
しかし、掴まるべき手すりは届かない。
体の自由も利かない。
「まずい、このままじゃ・・」
屋上から下へ落ちる。
というところで、
その男子生徒の体が大きく横に引っ張られた。
横に転がる体勢になって、
そのおかげで辛うじて屋上の縁に踏みとどまることが出来たのだった。
足元を見ると、
履いていた古ぼけた靴が、
タイルの継ぎ目に引っかかって破れてしまっていた。
靴が破れたせいで倒れる方向が変わったのか、
間一髪、屋上からの転落は免れたのだった。
その拍子に、
古ぼけた靴も脱げてしまって、体の自由も戻っていた。
「助かった・・・のか?」
屋上の縁に倒れ込んだまま、その男子生徒は小さく呟いた。
緊張から息は上がり、背中は汗でびっしょりになっていた。
それから、呼吸を整えて、
注意深く起き上がった。
「・・・驚いた。
まさか、この靴を履いたら、体が勝手に動き出すなんて。
どんな仕組みになっているんだろう。
それよりも。
もしも、あのまま靴が脱げなかったら、
僕はどうなっていたんだろう。
こんな気味の悪い靴は、さっさと捨ててしまおう。」
そう思ったのだが。
その男子生徒は、
体の自由を奪われている間に体験したことから、
思い当たることがあった。
「この靴を捨てるのは簡単だ。
学校の焼却炉にでも突っ込んでしまえばいい。
でも、その前に。
体を操られている間に、気がついたことがある。
それを確認してみよう。
靴に足を通しさえしなければ、持っていても大丈夫なはずだ。」
その男子生徒は、
裸足のままで注意深く立ち上がると、
破れた靴を手に持って職員室へと向かった。
その男子学生は、古ぼけて破れた靴を持って職員室にやってきた。
靴を履かずに歩くその姿は、少なからず注目を浴びていた。
しかし、そんなことには構わず、
先程話した初老の先生のところに行って、口を開いた。
「先生、
気がついたことがあるんですが。」
「おや、君か。
どうしたんだい、靴も履かずに。」
「これは、ちょっと色々ありまして。
でも、おかげで、
昔、屋上で起こったことについて、わかったことがあるんです。
僕の話を聞いてもらえませんか。」
「それは、
昔、屋上から生徒が飛び降りたことについてかね。
いいでしょう、聞きましょう。」
初老の先生に促されて、
その男子生徒は、考えながら少しずつ話し始めた。
「僕、屋上を・・・えっと、調べてみて、
それで分かったんです。
屋上の手すりの一部は、
捻りながら引っ張ると、外れそうになるんです。
咄嗟に手すりに掴まろうとした場合、手が滑ってしまうことがあります。
それだけじゃないんです。
その手すりの場所は、
ビルの表面に反射した夕日が強く射し込む場所で、
視界を奪われやすくなっているんです。
そうなると、眩しくて何も見えなくなる。
さらに、その場所には丁度、
タイルの継ぎ目があって、
靴が引っかかることがあるんです。
そうすると、つんのめって転んでしまう。
3つの不具合が、偶然にも屋上の同じ場所で起こってしまうんです。
そのことを、先生は知ってましたか。」
その男子生徒の話は、
ついさっき、体を操られて体験したことだった。
古ぼけた靴が置かれていた場所は、丁度その場所にあたる。
その話を聞いて、
初老の先生は首を横に振って応えた。
「いいえ、どれも初めて聞いたことです。
当時の警察からも、その話は聞かされていません。」
「やっぱり、そうでしたか。
これらは全て、
僕たち中学生の背丈や体つきでないと、
再現しにくいことでしょうから。
大人の警察には、気が付きにくいことかもしれません。」
その男子生徒の話を聞いた初老の先生は、
冷静な微笑みを浮かべて質問する。
「それで、その話が本当だとしたら、
どういうことになるのでしょう。」
ここから先の話は、確実な証拠はない。
集めた情報を使って、
その男子生徒が想像したことでしかない。
しかし、その男子生徒には、それが事実だろうと思えた。
その内容を説明していく。
「それらのことから、考えました。
その結論は、こうです。
過去に起きた、屋上からの生徒の飛び降り。
事件なのか事故なのか、判然としない出来事。
それは、
これらのことが複合して起こった、
事故だったんだろうと思います。
飛び降りたという生徒は、屋上からの景色が好きだったと聞きました。
誰よりも多く、何度も屋上に通っていれば、
不幸なことに見舞われる可能性も高くなります。
屋上の設備と周囲の建物との組み合わせが引き起こした、
不幸な事故だったのだろうと思います。」
実際に自分がそれを体験した、とは口にしなかった。
古ぼけた靴を履いて体を乗っ取られたなんて、
話をしても理解してもらえないだろうから。
自分でもまだ、完全には理解できていないのだから。
それでも、意図は十分に伝わったようだった。
初老の先生は、目をつぶって、
感慨深そうに何度も頷いた。
「なるほど、なるほど。
それで分かりましたよ。
実は、
亡くなった生徒は、私の担任だったのです。
だから、私にはよくわかります。
あの子ならきっと、
自分が事故で屋上から転落死したら、
その事実を隠そうとするでしょう。
事故が起きたら、屋上は立入禁止になってしまいますから。
あの子はそれを望まなかった。
自分が好きな屋上からの景色を、他の人にも見てもらいたかった。
だから、事故ではなく、
自分から飛び降りたということにしたかったのでしょう。
遺書のようなものが、
あの子が亡くなった後で急に出てきたのも、
つじつま合わせがしたかったのかもしれません。
誰を呪ったりすることもなく、全て自分で背負ってしまった。
実に、あの子らしい話です。」
そんなことを独り言のように言って、
それから、初老の先生は目をあけた。
微笑みながら言葉を続ける。
「・・・冗談ですよ。
少なくとも半分は。
亡くなった本人が、自分が亡くなった後で遺書を用意するなんて、
できるわけがない。
ところで、
事故なのがわかったとして、君はどうしたいのですか。
このことについて、警察にでも知らせますか。」
初老の先生の提案に、その男子生徒は首を横に振って否定した。
「いいえ、警察に言うつもりはありません。
今更、事を荒立てても仕方がないことですし。
それよりも、
ご家族にでも知らせたほうがいいかと思うのですが。」
「その生徒のご家族は、随分前に遠くに引っ越されているんだよ。
今でもたまに連絡を取っていますがね。
でも、もう昔の出来事だから、
差し当たって今は、そっとして置いてあげましょう。」
「・・・そうですね、分かりました。
じゃあせめて、供養だけでもしてあげたいです。」
「そうか、そうだね。
じゃあ、私も一緒に手を合わせに行こうじゃないか。」
そうして、
その男子生徒と初老の先生は、
連れ立って職員室を出ていった。
それから、
その男子生徒と初老の先生は、
屋上から転落して亡くなった生徒の供養をすることにした。
園芸部の花壇から手頃な花を拝借して、花束を作ったり。
校内の自動販売機で飲み物を何本か買って集めたり。
そうして、
即席で用意したお供え物と、
屋上で拾った古ぼけた靴を持って、
その男子生徒と初老の先生は、屋上へと登っていった。
古ぼけた靴を見つけた場所に戻して、花束と飲み物を並べる。
その様子は、ちょっとした仏壇のようだった。
その仏壇に手を合わせて、それから、
その男子生徒と初老の先生は微笑み合ったのだった。
次の日。
屋上にお供え物の片付けに向かうと、
そこにあったはずの古ぼけた靴は、姿を消していた。
屋上には鍵をかけてあったはずなので、
誰かが先に屋上に来たはずはない。
その男子生徒と初老の先生は、首を傾げつつも、
納得した面持ちだった。
そして、
残されたお供え物はというと、
飲み物は綺麗に飲み干され、
花は瑞々しく咲き誇っていたのだった。
それから、もうしばらくした後。
その男子生徒が通う中学校では、屋上の改修工事が行われた。
手すりが新しく二重に設置され、床のタイルの継ぎ目も上塗りされた。
その結果、
手すりがずれてしまったり、
床のタイルの継ぎ目に足を取られるようなことは無くなった。
合わせて、
近くにあるビルでも改修工事が行われた。
その結果、ビルの表面の日光の反射が減って、
中学校の屋上で目がくらむようなことは無くなった。
そうして、生徒たちは、
屋上への立ち入りを禁止されることもなく、
屋上からの風景を楽しみ続けることができるようになった。
結果として、
もうここにはいない生徒が、希望した通りになったのだった。
終わり。
町中などで靴が置かれているのを見ると、
不吉な想像をしてドキッとさせられます。
そんな経験から、この話を作りました。
お読み頂きありがとうございました。