夏の魔物
お盆が過ぎて8月も終わりに近づいて、あと数日で21歳になるという晩の事だ。私はいつもみたいに吉岡君と抱き合った後、裸のまま寝ていた。
途中、私は目が覚めた。
電気を消して寝たはずなのに部屋はほんのり明るい。光源は近いらしい。目だけを動かしてそちらに視線を移した。
女が一人、布団の横の畳にぺたんと座っていた。彼女はこちらに横顔を見せ、背筋を伸ばしているけれど少し俯いて目を閉じている。つやっつやのショートボブの頭にはクローバーの花冠を載せている。そして全身が発光していた。自己主張の強い光じゃなくて、月のような控えめな光り方だ。
彼女の背中には翼があった。天使みたいな可愛らしいそれではなくて、白いけれど大鷲みたいなゴツ目の翼。この翼なら上昇気流に乗って大空を旋回出来そうだ。
何か超常現象のようなものを目の当たりにしながらも、私がまず行ったのはその女の横顔の評価だった。私は性格が悪いので、ふうん、けっこう小綺麗な顔じゃん、でも誰でも化粧を頑張ればそれくらいにはなるよね、それに鼻が少し残念、と厳しめの評価を下した。でも女性なら女とすれ違う時なんかに、一瞬で相手の外見を値踏みするのは割と普通の事だと思う。
値踏みすると同時に、女の顔をどこかで見た気がするとも感じた。それも身近な誰か。けれど直ぐには分からない。
女がゆっくりと私に顔を向け目を開いた。
やっと分かった、それは自分自身の顔なのだった。いつも洗面所などで目にするのは自分の虚像だし、まさか自分、或いは自分にそっくりな誰かが真夜中に発光しながら同じ部屋に座っているとは思いもしない。客観的に見ると私って鼻が残念って評価なのか……私は少なからずショックを受けた。
それからやっと焦り始めた。これは夢なのだ、超常現象なんかじゃない、そう思って身体を動かそうとしても動かない。手足から血液が抜けてしまって痺れている感じ。横隔膜を上下出来ずに上手く息が出来ない。
やっぱり夢だ、金縛りだ。私は金縛りを何度か体験していて、ネットで調べた事がある。レム睡眠中に目が覚めてしまったのだ。身体は眠っているのに頭は起きている。だから動けない。連日の暑さで知らない内に疲労が溜まっていたのかもしれない。
金縛りを解除するには力を抜いてリラックス。そう努めたけれど私の目は女に釘付けになっているし、全身に力が入ってしまう。
隣では吉岡君が腹の立つくらい平和な寝息を立てている。
女は立ち上がった。
年甲斐も無く、アルプスの少女ハイジのようなシンプルな白いワンピースを着ている。膝丈で、おそらく綿100パーセント。
それから腕を広げて、裸足の右つま先で時計回りに一回転した。頭に載せた花冠が落ちないくらい、上手い事回った。
スカートの裾がふわりと浮いた。部屋の壁に映る家具や掛けっぱなしの洗濯物の影達もふわりと揺らめく。回転の停止と共に上体を傾けて、私を見てニカッと笑う。最強の笑顔だった。
ぶりっ子! 叫びたくても叫べない。
笑ったまま女が何かを言った。声は聞こえなかったけれど、ゆっっくりとして大きい口の動きから「大丈夫」と言ったのが分かった。
状況的には全然大丈夫じゃなく、しかもその原因は「大丈夫」と言っている本人にあるのだけれど。
女は今度はベランダの方を向き、クラウチングスタートの構えをした。腰を上げ、掃き出し窓の方へダッシュ。狭い部屋なのですぐ窓に到達し、当然のように窓をすり抜けた。逆に正規の手順を経て、つまり窓を解錠して外に出る方が不自然な感じで。
そこで漸く呪いが解けたみたいに身体の自由がきくようになったので、裸のまま起き上がって急いで窓を開けた。生温い風と大通りの喧騒がなだれ込んでくる。
女はベランダの手摺によじ登っているところで、それから躊躇いもせずに飛び降りた。手摺は貫通しないらしい。
手摺に駆け寄って下を見る。ここは3階だ。でも彼女は何の問題もなく両足で上手に着地したのが、街灯と彼女自身の発する明かりで何とかわかった。下から見るとパンツ丸見えだろうけど、幸い周囲に人影はない。いや、そういう問題じゃない。
ベランダはごちゃごちゃした路地裏に面していて、向かいは別のアパートの壁だ。
女は狭い路地裏を大通りの方へ裸足で駆けていき、すぐに見えなくなった。重そうな翼を背負っているにも関わらず、軽やかな足取りで。月明かりに照らされていたりなんかすると絵になるのだろうけど、建物に切り取られまくった夜空は街の灯りのせいで星一つ見えない。
羽が有るのに飛ばんのかい、と力なく突っ込み、ふらふらと部屋に戻る。さっき女が座っていた畳に同じようにぺたんと座ってみた。
あれは何だったのだろう。夢ではない。金縛りが解けた後でも彼女は消えなかった。私自身か私そっくりの何か?
女のように目を閉じて少し俯いてみた。私は彼女とは違う、あんなあっけらかんとした笑い方は出来ない、あれは私自身ではない。そもそもあんなぶりっ子じゃない。
唐突に怖くなった。取り返しのつかない事をしてしまった、逃げられた。私は彼女を全力で、羽交い締めにして捕まえて、牢屋にでもぶち込んで一生閉じ込めておくべきだったのだ。そんな気がして今度は泣けてきた。すっかり情緒不安定だ。
布団に潜り込んで吉岡君にしがみついて声を上げて泣いた。彼はやっと起きて、眠そうにしながらも「怖い夢でも見たんですか」と背中や髪を撫でてくれた。
この人が居てくれて本当に良かった、私はこの世の終わりみたいにビービー泣き続けた。
翌朝ベランダにクローバーの花冠が落ちているのを見つけた。それを頭に載せて鏡を見たら、全然似合っていなかった。赤い目の仏頂面の女が映っていた。
昨晩の出来事は誰にも言うまいと決めた。
吉岡君にも。
✳︎
そして、私は21歳になった。
プレゼントに吉岡君は私を100円寿司に連れて行ってくれた。えびバジルチーズの皿を取ってから私は聞いてみた。
「ねぇ、私って鼻が残念かな?」
「あぁ……」
吉岡君は私の顔中央を見つめて呟いたので、
「そこは嘘でも否定しなさいよ!」
と言って彼の皿から軍艦のイクラを取り上げてやった。
気付けば私の身体の火照りは消失しているのだった。
✳︎
あの晩以来、私は吉岡君と全力で抱き合う事も抱き合う頻度も少なくなった。
2連休を利用して鳥取砂丘まで旅行したり、おくんちやランタンフェスティバルとかにも行ってみたけれど、焼肉店から彼を拉致した夜のような衝動や情熱を感じる事は無くなっていた。
吉岡君の部屋にはしばらく入り浸り続け、4年生に進級したのをきっかけに合鍵を返した。そのタイミングでバイトも辞めた。彼の漫画ももう全て読破していた。
良い加減将来を考えて、真面目に実習やら卒論やら国試やらに取り組まなければならないと考え家から大学に通い、吉岡君と会うのは月に2度くらいになった。彼もそれなりに忙しいらしいし、私に遠慮してか向こうからもあまり連絡は来なかった。この頃は何だか惰性で付き合っているような感覚だった。
そして就職が決まり国試が終わって、彼とは別れた。後腐れない、あっさりとした別れだったと思う。最後に聞いてみた。
「私って吉岡君にとって何だったの?」
「うーん、なんでしょう、……師匠みたいな感じですかね」
「師匠ねぇ……」
彼は女心がとことんわかっていないのだった。道理でずっと敬語だったのか。記念に一発デコピンしておいた。
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その後、勤務先の病院で一度だけ吉岡君に会った。
管理栄養士として勤めて4年目のある土曜日、手洗いから栄養科に戻る廊下で、ウロウロしている男性を見つけた。天然パーマでひょろっとしていて、なんとなくあいつに似てるなと思っていたら本当に彼だった。
吉岡君は卒業後医薬品卸の会社に就職して、その日は当番だったらしく、前の日に欠品していた品を届けに来たと言う。栄養科では嚥下訓練用のゼリーなどを彼の就職先の会社に発注していた。
初めて来たので栄養科の場所がわからなくて迷っていたらしい。ドラッグストアの店頭で深海魚みたいに往復していたのを思い出しつつ、私は彼を案内した。
納品後、バイトの途中でやったように彼のゴツい手を取って頰に当ててみたけれど何も感じなかった。
吉岡君は「何するんですか!」と言って私の手を振りほどいた。あぁ、吉岡君も私に意見出来るくらいには成長したのだなぁと感慨深くなり、私も彼も別れてから4年分年を取ったんだと切なくなったりもした。
笑って「当番頑張ってね」と手を振ると、彼も相変わらずの下がり眉で切なげに笑った。
吉岡君と出会ったあの夏の事を私は時々思い出す。
あの年の夏、私は夏の魔物に魅入られたのだと思っている。
読んでくださりありがとうございました。