夏休み
翌朝起きると、妹とミサキちゃんからラインが届いていた。ミサキちゃんには悪い事をしてしまった。あの後歓送迎会はどうなっただろう? 家への連絡もすっかり忘れていた。
2人に適当に返信して、ダル重い頭を持ち上げて愕然とした。昨日はなんか圧迫感があるなぁと漠然と感じただけだったけれど、何だこれは。部屋は準ごみ屋敷の様相を呈している。
1Kの部屋の和室の寝床の周辺には空のペットボトルやレポート用紙や衣類やレジ袋が散乱し、天井に渡されたビニール紐には針金のハンガーがいくつも掛けられ縮れた何かがぶら下がっている。隅にあるコタツ机には面積の約半分に漫画がうず高く積まれ、残り半分には使用済みの割り箸やら開けっ放しの焼肉のタレやら筆記具やらルービックキューブやらが所狭しと置かれている。一応ゴミを出す気はあるのか、漫画が無造作に詰め込まれたカラーボックスの上に市指定の可燃物のゴミ袋が載っていた。
服を着て立ち上がりカーテンを開けると埃が舞い、くしゃみが出た。多分ずっと閉めっぱなしだったのだろう。「換気」と言う概念がこの部屋には無いのか。次に台所に行こうと足を踏み出すとダンベルに親指をぶつけた。
台所のシンクには自炊しようとして挫折した痕跡が見受けられた。汚れた茶碗や皿でシンクの底は見えず、味噌汁の椀には得体の知れない黒い液体が溜まっている。IHヒーターの上のやかんやフライパンには油がこびりつき、パスタの麺や何かの粉がそこら中に散らばっている。床もザラザラする。冷蔵庫を覗くと、ビールとペットボトルばかりが詰められていて、下の方には液化しかけた野菜らしき物の残骸がへばり付いていた。冷凍庫はほとんど空。
入学して3ヶ月でこの有様とは、親御さんも泣くんじゃないだろうか。
壁に掛けてある4月のままのカレンダーを破って7月にしていると、眩しそうに目をこすりながら吉岡君が起きた。
「日射しで溶ける……」
「シャワー浴びたいからタオル借りていい?」
「それ使って下さい」
吉岡君はハンガーからぶら下がる縮緬状の何かを指差した。タオルらしい。
無いよりはマシなので、温度調節がやたら難しい風呂場でシャワーを浴びて縮緬タオルで身体を拭いた。風呂の壁にはカビがわんさか繁茂している。このままでは部屋全体がカビに飲み込まれそうだ。吉岡君は真菌類と見事に共生していたのだ。
腕がなる。この荒廃し腐りかけた部屋を青き清浄の地に導かん。目下の目標が定まった。
でも今は二日酔いでダルいし、とりあえず青き清浄の地計画は置いておいて、吉岡君の指導をする事にした。布団の中では男性に主導権を握って欲しいのだ。都合良く日曜なので大学はないし、バイトは午後からだ。
吉岡君がシャワーを浴びた後、早速開始した。
「まずは服を脱がせる! パパッと手際良く! そんなノタノタやってたらムードもへったくれも無いでしょ! もういい、自分でやる! 後でボタンを外す練習しといて。3分間を10セットね。今度テストするからね。将来、絶対役にたつから。無駄にならない努力なんか無いのよ。あ、逆か。ホック外すのも特訓しといてよね! なんならブラジャー貸してあげようか? ほら、出血大サービスであんたの服、脱がせてやるから!
さぁどうするどうする? 次はどうする⁈ あいたたたた‼︎ 何すんのよ! え? 前にネット見たら書いてあったって? 違うだろ! ちーがーうーだーろーー‼︎ このハゲーーッ‼︎ 力任せじゃ駄目じゃない。でもその探究心は褒めてつかわす‼︎ 分かる? こう、触れるか触れないかのトコで……そう……やれば出来るじゃない……」
こんな調子で飴5パーセント鞭95パーセントのスパルタ指導を行っていたら、吉岡君は「お……鬼軍曹……」と呻いて果てた。
午後、吉岡君と時間をずらして出勤して、バッグヤードのパソコンに向かっていたツーブロック佐々木に挨拶したらまたセクハラを言われた。
「おはようございます。昨日はお疲れ様でした」
「お! 昨日と同じ服! さてはワンナイトラブだなぁ〜〜?」
あんまりムカついたので「はい! お陰様でとても濃厚で有意義な時間を過ごさせて頂きました!」と言ったら変な顔をして黙った。ザマァ見ろ。どうせあと少しでいなくなるしどうでもいい。
休憩中に除菌スプレーと台所用洗剤とスポンジとシャンプーリンスとカビキラーとプラスチックゴミ専用ゴミ袋と念の為にゴキジェットを購入して、一旦は実家に帰らなけらばいけないのでロッカーに入れておいた。
✳︎
私は吉岡君の家に入り浸った。
私は三姉妹の真ん中だ。「放って置かれがち」という中間子の特権をフルに活用して、実家へはたまに荷物を取りに行く以外帰らなくなった。親には「バイトで仲良くなった子の所に世話になっている」と説明しておいた。嘘ではないし罪悪感はない。
親とのやり取りは「迷惑じゃないの?」「食事は私が作ってるし大丈夫」という一往復で済んだ。妹だけは「男だな」とニヤついていたけれど無視した。
手取り足取りナニ取り指導している内に吉岡君は布団の中において着実な進化を遂げ、初日から1週間経った頃には吐息で指示が通るくらいまでになった。
食事作りに部屋の掃除、大学の講義や試験、バイトと私はなかなか忙しい。そしてその合間に吉岡君と抱き合った。足りない、まだ足りないとひたすら抱き合った。
私の身体の火照りはなかなか解消されなかったけど、吉岡君と一緒にいる内にどうでも良くなっていた。
吉岡君の部屋の荒廃っぷりは日々改善し、遂に青き清浄の地計画が達成された時、吉岡君は合鍵をくれた。別荘が出来た! わーい! 感激して彼の首に噛み付いたら、「頼むから首へのチュパカブラ攻撃はやめて下さい」と懇願された。
8月になった。
大学は夏休みに入り、私はさらに吉岡君の部屋にいる時間が増えた。
新しい料理を開拓したり、吉岡君の漫画を読んだり、だらだらと布団の中で過ごしたりした。彼の部屋には彼が実家から持ってきたマンガが山ほどあって、とりあえずは横山光輝の「三国志」全60巻を読破しようと私は決めた。
バイト先ではツーブロック佐々木が無事転勤して行ったけれど、ツーブロックの後釜は彼よりもさらに癖の強いヤツだった。
ミサキちゃんがせっかく歓迎会をやろうと提案してくれているのに、「それって残業代出るんですか? 出ないんならやらないで下さい。最初に言っときますが、僕はいついかなる場合においても飲み会という事象に参加するつもりは無いですのでそのおつもりで。ユーノー? 何か問題でも?」と言ったので歓迎会は開かれなかった。
他にも社員のクセに毎週土日に休みたがったり、社員が1人しかいないのに外に食事に行ったりと勝手な行動をとったせいで、店長がげっそりしてきて副店長は余計にキレやすくなった。デビル川嶋に変化はなかった。
だから彼にMr.三無主義とあだ名をつけてやった。結局はどう足掻いても人間関係のいざこざは避けられないらしい。
そして驚くべきことに、店長とパンダ本多さんはできちゃった婚をした。
一年以上前から付き合っていたらしい。職場恋愛というのはなんとなく2人の雰囲気でわかるものなのに、誰も気付いていなかった。真面目な店長とおっとりしたパンダ本多さんなのにやるなぁと皆感心していた。
店長は肉詰めピーマンが苦手らしいけど、本多さんは幸せそうだった。式を挙げないという2人の為に皆で飲み会を開いて盛大に祝った。
でもデビル川嶋だけは「せいぜいバツ2にならないように気をつけるんだな」と暗い目をしていた。もしかすると彼だけは2人の関係に気付いていたのかもしれない。
一方で私と吉岡君の関係は、一発でバレた。
吉岡君と同じシフトの時はわざわざ時間をずらして出勤していたのに、早く着いたので休憩室で三国志を読んでいると「葉月さん、俺の制服洗ったヤツ間違って持って行きませんでした?」と普通の音量の声で発言したのだ。
休憩室には他のバイト仲間もいるのに、私は彼の気の利かなさに怒りを通り越して呆れた。せっかく諸葛亮孔明が赤壁の戦いで天才軍師っぷりを発揮した場面を読んで気分爽快になっていたのに台無しだった。