夏の夜道
ドリンク補充が済んで、吉岡君と10分休憩に入る。
バッグヤードの奥は休憩室兼ロッカー室兼喫煙所で、隅には服屋に置いてある試着室みたいな更衣室もある。長机が2台と折りたたみのパイプ椅子が数脚置いてある。
私は奥の椅子に座った。吉岡君は私の斜向かいの椅子に座って、机の上で所在無げに手を組んだ。いいポジショ二ング。彼の手が良く見える。
早速吉岡君の情報を収集する事にした。
「吉岡君っていくつ?」
「18です。大学一年です」
「下の名前何?」
「悠斗です」
「カッコいい名前じゃない! 名前負けし過ぎ!」
「親に言って下さい……」
「彼女いるの?」
「いません」
よっしゃ。
「まぁ、吉岡君に彼女がいようがいまいが1ミクロンの興味も無いけど」
「じゃあ聞かないで下さい……」
「どこ大?」
「県立大です」
「じゃあ一緒だよ! 私、健康栄養学部の3年」
「健康……?」
「健康栄養学部! 管理栄養士になろうと思って」
「栄養士って事は、料理が上手なんですね」
「はぁ⁈ 私、栄養士志望だからって料理上手だと思われるのが一番嫌なんだけど! 正直料理は好きじゃないけど、男にモテそうだったから」
「いいんですか、そんな理由で」
「例えばね、カラオケ屋に入って、曲の載ってる本を適当に開いて、目ぇ瞑って指差したら、98パーセントくらいの確率で愛だの恋だの歌った歌に当たるから。それくらい恋愛は人生のウェイト占めてんだよ」
「それとこれとは別じゃないんですか? それに今は大体デンモクですよ」
「うるさい‼︎」
大人しそうな割に突っ込んでくる。さっきまで捨て犬みたいだったのに。結構順応性が高いのかも知れない。
情報収集するつもりが、いつの間にか私が熱く語っていた。私は本気でモテる為に管理栄養士を目指している訳じゃないし、同じ学科の周りの子は料理好きが多いのは事実だ。でも吉岡君の手を見ていると、自分の発言を上手くコントロール出来なくなってしまうのだ。
「というか吉岡君は何学部?」
「経済です」
経済学部は私の学部とはキャンパスが別だ。大学で会う事はないだろう。彼の手を見つめつつ、情報収集は続く。
「一人暮らし?」
「はい」
「出身は?」
「S市です」
彼は県北の地名を挙げた。いくら県内でも遠くて通うのは無理がある場所だ。
「ふうん。ところで経済学部って理系? 文系?」
「一応文系ですけど、数学も使いますよ」
「オゾン層について何か述べてみて」
「オゾン層ですか? 何でですか?」
「いいから述べて!」
会話の流れを止めるな。
「えぇと、フロンガスによる破壊が問題になっていて……」
「はい、文系!」
私は彼を指差した。
「環境問題について言及するのが文系、オゾンの成分とか反応についてなら理系なんだって。先輩が言ってた」
「俺、理数科出身ですよ。それに大抵の人はまず環境問題を思い浮かべると思います」
吉岡君の癖に歯向かってきた。ムカつく。
「ただの遊びでしょ! まぁ、吉岡君が文系か理系かなんて毛ほども興味ないけど」
「じゃあ聞かないで下さい……」
その時「お疲れー」と声がして、川嶋さんが入って来た。社員の薬剤師で、通称「デビル川嶋」。別に性格が悪魔的だという訳じゃなくて、ブラックデビルという銘柄の煙草をいつも吸っているからだ。
彼は早速換気扇の側に行って煙草を取り出しだ。前いた店舗で外国人窃盗団を一網打尽にしたという伝説の持主で、何を考えているのか分からない所がある変人だ。29歳独身。
私はついでに聞いてみた。
「川嶋さんはオゾンと聞いて何を連想しますか?」
「オゾンと言えば……そういやオゾンって毒性があるって知ってる? 高濃度のオゾンガスを吸引すると昏睡状態に陥ってやがて死ぬらしい。俺はオゾン層からオゾンを袋いっぱい取ってきて、思いっきり吸わせてやりたい奴が山ほどいるよ。例えば店長とか店長とか店長とか店長とか」
そう来たか。デビル川嶋はたまに真顔で毒を吐くので油断が出来ない。彼は店長と仲が悪いようには見えないけれど、殺してやりたいほど憎いらしい。知らなかった。マトモそうに見える店長と一体何があった。文系か理系かなんてどうでも良くなった。
「それ、私達に言って良いんですか?」
「君らなら大丈夫でしょ、知らんけど。まあいざとなったら店長と思う存分ドンパチやって転職すればいいし」
そう言ってデビル川嶋は黒い煙草を吸って換気扇に向かって煙を吐いた。白衣に臭いが付かないのだろうか?
ここの店には絶対就職したく無い。人間関係が非常に面倒そうだからだ。私はまだアルバイトの身だから気が楽だけど、卒業して就職したらそういったいざこざに好む好まざるに関わらず巻き込まれるのだろうか。
モラトリアム万歳!
モラトリアムの有り難みを噛みしめていると休憩が終わった。
デビル川嶋は喫煙後、白衣に狂気のようにファブリーズを振りかけていた。
✳︎
吉岡君が入って早くも2週間が経った。でもシフトも完全に同じではないし、勤務中は話せないしで、私はなかなか彼に接近するきっかけが掴めないでいた。
10分休憩に入ろうとバッグヤードのドアを開けると般若がいた。その向かいには吉岡君。般若の方は、よく見たら副店長だ。凄まじいまでの忿怒っぷり。きっと昨日ソフトバンクホークスが負けたのだろう。副店長は大のホークスファンで、アラフォーの女性で、超気が強い。なので彼女が出勤する日は皆の仕事ぶりが違う。ある意味店長よりも店長っぽい人だ。
吉岡君はどうやら叱られているようだ。「親の顔が見たいんだけど!」などと怒鳴られている。声を張り上げ過ぎて売り場まで聞こえるんじゃないだろうか。何をやらかしたのか知らないけれど、そこまで言わなくても良いのに。
吉岡君はいつもの切なげな半笑いを浮かべている。思うに、半笑いが副店長の怒りの火に油を注いでいるのではないだろうか。
入りにくいけれど、ここを通らないと休憩室に行けない。こういう時は堂々としていた方が火の粉が飛んで来ない。
「休憩頂きます!」
と般若の後ろを通ると般若は「お疲れ様」とだけ言った。セーフ。
休憩室から様子を伺っていると、どうもレジ操作でミスをしたらしい。副店長のいる時にミスるなんて運が悪い。いくら彼でもかわいそうだ。なんとかして慰めてあげよう。
バイトが終わって、帰り支度のスピードを調節して吉岡君と店を出るタイミングを合わせる。そしてさりげなく近づいて声を掛けた。
「吉岡君、路電だっけ?」
「はい」
彼が路面電車で来ているという情報はもう収集済みだ。私はと言うと実家からバスで30分以上かけて通学していて、バイト先は大学から歩いて15分の場所だ。
「私バス停まで行くけど途中まで一緒に帰らない?」
「いいですよ」
2人で歩き出す。22時近くなので当然暗い。店の前の川沿いの歩道は細くて、自然と身体が近くなる。チャンス。
「手、繋いでいい?」
「え! 何でですか?」
「占いで、今日はバイト先の2つ年下の経済学部生と手を繋げばいい事があるって言ってたから」
「すごくピンポイントなアドバイスですね……。でも誰かに見られたら面倒ですよ」
「暗いから大丈夫でしょ」
問答無用で吉岡君の手を取った。
「今日の事、気にしなくていいからね」
「今日、何かありましたっけ?」
何を寝ぼけているのだろう。
「副店長にいろいろ言われてたでしょ」
「あぁ、それですか。クレジットカードを切り間違えたんです」
なるほど。クレジットの操作ミスの修正は面倒で時間がかかるらしい。今日は遅番の社員が1人だったから副店長は更にテンパっていたのだろう。私も一度やった事があるけれど、店長に「次からは気をつけてね」と言われただけだった。やっぱり吉岡君は運が悪かったのだ。
「副店長はソフトバンクホークスの負けた翌日は超機嫌悪いから、要注意ね。そのうちぱっと見で機嫌がわかるようになるけど、初めは勝敗をマメにチェックした方が良いかもね」
「白石さんは逆に機嫌いいんですか?」
「どういう意味⁈」
「今日は優しいです」
「吉岡君以外には常に優しいよ!」
吉岡君は笑った。
彼の手のガサガサと乾いた感触を堪能しながら歩いて、やがてバス停に着いた。吉岡君の目指す電停はここから更に橋を渡らなければならない。
「じゃあまたね」
繋いでいた手を離す。彼の手が名残惜しい。
「バスが来るまでここにいましょうか」
「いいの⁈」
「はい。女性一人では危ないですから」
吉岡君のクセに意外と紳士だ。ベンチも何もないバス停だから2人で並んで立つ。
「ありがとう。じゃあまた手を貸して」
吉岡君は黙って右手を差し出した。調子に乗って頰に手を擦り付けているとバスが来たので、「お疲れ様」と言って別れた。
やっぱり吉岡君の手は私の頰にフィットして、心が落ち着くのだった。彼はされるがままだったので、嫌ではなかったと思う。
大収穫の日だった。